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なんてタイトル付けたらいいかわからない

昔から自分に自信が無かった。

これは紛れもない事実。
一方で、正直ぼく自身のスペックというか、備わっているものは周囲の人間より秀でているモノが多いと今まで生きてきて感じている。

(ここからは自慢だと腹を立てる人間はいると思う。ただnoteで発信する以上、思うまま素直に文章を書きたいぼくのエゴがあるので、不快と感じた方は読むのを止めて構わない)

遺伝とは大きなもので、生まれた時点でその人の性格、能力、外見のほとんどが決定する。
この意味でぼくは恵まれていた。

勉強は特に苦もなく出来たし、スポーツも大抵こなせる。顔もまあ整っているので、何かの代表になる(生徒会長、部長など)のは自然だった。こと日本の義務教育期間の人間関係において「運動能力」「外見」残酷なほどに学校生活を左右させる(と思っている)。中学卒業まではいじめの対象になるなんてことはまるで無く、平和に生きていた。

だが高校に入ると様子は違った
県内2番目の進学校を受験して入学。当然周囲の人間も皆そこそこ勉強のできる人たちだったし、部活動も活発だった。しかしそこには高校生(いや学校での集団生活)特有の不自然な“仲間意識”が充満していた。

高校1年の当時、同じクラスにはリーダー的存在の子がいた。彼(以下S)は成績優秀、スポーツ万能、イケメンで人望もあった。ぼくはSと同じ中学かつ知り合いでもあったため、入学するや否やすぐに一緒のグループで行動することになった。

スクールカーストと呼ばれる言葉があるように、学校においては見えない階級が存在し、それぞれの人間が客観的判断のもと勝手にピラミッドのどこかに位置付けられる。ぼくが所属していたこのグループはまさにスクールカースト頂点、授業や休み時間は常に目を引く集団であった。そのためぼくらは何かにつけて一緒に行動しなくてはならなかった。

他人に合わせることは得意(自然に身に付いた望まぬ習性)だ。だから自分を押し殺して都合の良い人間関係を形成し、円滑な生活を送ることは自分を守る術でもあった。

話を戻して高校1年生の秋。今までとは別の感情が生まれた
Sや他の友達と過ごしていて、ぼくは常に我慢していた。今までなら無視してきたこの感情を、円滑な生活を壊してでも自分に正直に過ごしたいと思ったのだ。ぼく以外のメンバーは明るく活発で、絵にかいたような青春を謳歌したい男子高校生。そんな彼らに合わせるのが辛く、自分の感情にフタをして学生生活を送っていたからである。こうしてぼくは彼らと距離を置くようになり、自分の趣味と合う人とつるむようになった。

先ほども述べたが、学校には不自然な”仲間意識”というものが存在している。クラス内でもグループがいくつか存在し、常に行動を共にする。グループ内の価値観が絶対であり、それに反する者には制裁が下される。今まで普通に会話していた人に対して、まるで敵かのように接することは珍しいことではない。

以前、LINEグループで既読無視をしただけで次の日から仲間外れになったという話を聞いたが、これも妙な仲間意識ゆえの現象であろう。

当然グループから距離を置いたぼくに対して、Sは良い印象を持たなかった。まさにぼくは“裏切り者”、徐々にSを始めグループのメンバーからの当たりが冷たくなっていったのは明らかだった。影口を言われていたのは友達づてに聞いたし、あらぬ噂を流されたこともあった。

今となっては何とも思わないが、当時のぼくには相当メンタルにきた。精神的なストレスから、人生で初めて飯が喉を通らないという経験もした。やっとの思いで集団の呪縛から逃れることができたのは、クラス替えをした高校2年の春だった。

贅沢な悩みだと思うかも知れないが、ぼくは自分の外見、能力によって第一印象が過度に良く見られがちだ。「人生舐めてそう」などという皮肉を言われた時は驚いたが、外見と中身のギャップは想像以上にしんどい

ぼくの性格は、基本ネガティブかつ心配性。ポジティブになろうと意識したこともあったが、人間の性格が簡単に変わるのならば苦労しない。

高校時代の話にもあるように、特に自分を悩ませたのが人間関係である。最近ではHSPなど(初めて聞いた方はググって欲しい。簡単に言えば超繊細な人のこと)も世間に知られるようになったが、ぼくはまさにこれだった。

交友関係のあらゆる場面で気を使い過ぎてしまう。例えば人をご飯に誘う時。「相手が忙しかったらどうしよう」「自分に誘われて面倒だとは思わないか」など、ある程度仲の良い友達にも考えてしまうのだ。

それこそ友達に打ち明けることも多いが、大抵の返事は「考えすぎだよ、気使いすぎ!」これである。そもそも考えすぎてしまう人間は思考プロセスがそのようにできていて、逆に気を使わない人間は考えること自体の手順を踏まないから、考えてしまう人間に考えるなは無茶なことなのだが。

この何とも言えない息苦しさを全く感じない友人はごく少数である。
(いるだけ恵まれている)

こうしたネガティブな性格は、現代に生きる我々にとって無くてはならない存在“SNS”を使う時にも顔を出す。

学生の間で有名なSNSと言えば、LINE、インスタグラム、Twitter、Tik Tokあたりだろうか。LINEこそ高校生から使っていたが、その他は大学生になってから初めて触った。ずっと手を出していなかった理由は、自分を発信することに異常に抵抗があったからだ。1ツイート、1投稿に気を使い、周囲の在りもしない目を妄想してしまう。

そんなぼくの意識を変えたのが、大学1年の終わりに始めた副業(ブログ)だった。

ブログをスタートすると同時に今まで敬遠していたTwitter、インスタグラムも開設した。特にTwitterはブログ用のアカウントだったので、実名顔出しをしない限りはプライバシーを守れるから気楽に続けることができた。

Twitterでブログ関連の発信をするうちに今まであったSNSに対する抵抗も和らいでいった。
一方、もやもやと感じる部分もあった。

“世界が綺麗すぎる”

Twitterではほとんどの人が成功者、みんな希望に溢れていてキラキラしたツイートをしている。インスタグラムはその人の撮った『映え』な写真が時には友人、パートナーと一緒に上がる。

みんながみんな、自分の作り上げた理想の虚像の姿を投稿する。そしてそれにいいねが付く。虚像に良い反応が貰えると、なんだか関係ない実像まで認めてもらっている気がして良い気分になる。そんなサイクルがSNSにはあると思う。

みんなが見せる世界が綺麗すぎて、また現実世界との”ギャップ”に翻弄されてしまう
(もちろん綺麗とは真逆のことを目にすることもあるが…)

正直嫌になることもあるけれど、SNSから学ぶことも多い。
特に副業界隈のTwitterは良い意味でも悪い意味でも色んな人の価値観に触れることができた。

現にこうして自分の思考をnoteにまとめて、Twitterで拡散しようと思えたのも、自分とは違う価値観の人間に魅了されたからである。自己の思考を文章で表現することによって、人に何かを感じさせることができる、人に行動させることができる、そんな素晴らしいことあるかよと。

大学生の内に、この綺麗すぎて闇すぎる世界に触れられたのは良かったし、これからはもっと自分についての発信をSNSでしていきたい。
このnoteで目指すのも似たようなこと。

自分に自信を持つことはまだまだ難しいけれど、虚像からならぼくも始められる。





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