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外の人(5)

「黙祷」と一言叫ぶ。後は黙っているだけだ。これ以上に無いくらい簡単、低いハードルだ。これならできる。これなら私にもできる。

できるから何なのだ?しなければいけないのか?したいのか?なぜ?

当然の疑問が押し寄せる。頭の中に張られたボールネットのように、せり上がる衝動を幾重に絡み取りせき止めようとする。

”何を言ったのか周りが聞き取れないかもしれないから、少し高めの声でゆっくり言おう”

”タイミングが大事だ。一旦青砥の駅を過ぎて車内が落ち着いて静かになってからにしよう”

ネットの網目から零れるかのように自分へのアドバイスが沸々と浮かぶ。

私の中の衝動はまさに今乗っているこの電車と同じように私の意志や理性とは無関係に既定の路線を走り抜け、来たるべき場所と時間まで私を運んだ。

青砥駅で平常通り乗客のバトンタッチ、車内アナウンス、乗客のポジション調整を済ませ、少しの新鮮な空気と咳払いを乗せた後、電車は再び発進した。幸い(いや不幸にも、か)乗ってきたニューフェイスにも仲間連れはおらず、再びぬるい静けさが車内を充填した。

今だ。今しかない。

耳の奥が膨張するような熱を感じる。

眼球の裏側がひび割れ、歯の一本一本が零れ落ちるような気がする。

心臓はこれまで経験したことがないほど激しく脈打ち、足のつま先から一本の毛先まで血が駆け巡り、私の輪郭をかたどっているような気がした。

そのとき、私は私が世界の中にあることを感じた。

「「も、黙tおおおーほほfuうぅう」」

自分で出した声に一番最初に驚いたのは自分かもしれない。思っていたより大きな音が出て、他人から出たかのように聞こえた。実際少し飛び上がったような気がする。

しかし、びっくりしたのは私だけでなかった。当然。

前の座席に座っていた3人はほぼ同時に顔を上げ私を見上げた。私の顔を一瞬見やると、すぐさま下ろした。一番最後に顔を下ろしたのはあの赤縁眼鏡の彼女だった。「上から見てたときより美人じゃないな」というのが最初に浮かんだ印象だった。だがそんなことは重要ではない。ほんの一瞬だったが、彼女の表情は私の脳裏に激しく焼き付けられた。

何てことはない、呆けた顔だった。まるで一瞬思い出しごとをしたかのような、落ち着いた目をしていた。その目は一瞬だったがしっかり私の目と合った。しかしそこには、私が妄想の中で見た恐れも、不安も、嫌悪も無かった。ただ一瞬、見たのだ。彼女は。音の出た方向を。

あとの二人の表情は、一瞬過ぎてほとんど覚えていない。右端の男は眼鏡の端からぎょろりと黒いものを覗かせただけですぐさま手の中のスマホに視線を戻した。反対端のおばさんは、少し目を泳がせ私の全体を良く映していた気もする。いずれにせよ私は正面に座り一番良く見える彼女の顔に気を取られ、それ以外をあまりよく見れなかった。両脇に立っていた男二人も私の方に振り向いたかもしれない。それこそ視界の外で見えなかった。窓越しに反射した二人の影が動くのを白目で捉えた気もするが、捉えてない気もする。

車内はいつもの静寂に戻った。いや、私が「黙祷」、「黙祷と言おうとした音」を発した際中も含め、この空間の空気は何一つ変わっていなかった。妄想の中で敷き詰められた緊張も翻った非日常も無かった。しかし私の心中は燃えていた。

やってしまった。ついに。それ以上、前に座る彼・彼女らの表情を観察することなど不可能だった。羞恥心に震え、もはや窓に映る自分の姿さえ目にすることが耐えられなかった。

「今、他の人たちの心中はどのようだろう。どんな事を考えているだろう」

考えたくない。ただ視線をきつく落とし自分のネクタイの柄を見つめる。それでも巡らしてしまう。

(なに、今の)

(独り言にしてはでかかったな。電車の中だぞ?)

(聞き間違いじゃなかったら、ちょっと怖い)

たった一言だ。大したインパクトは与えていない。ましてや「黙祷」と言ったとは誰にも理解されていない、はず。それでも、それでももうダメなのだ。私がしたのはオカシなことだ。私はオカシな人だ。

耐えきれず高砂で降りた。本当は乗り換えは次の駅で良かったのだが、あれ以上居た堪れなかった。乗り換える乗客の波に流されホームの上を右往左往した後、私はベンチの上に腰かけた。無意識にスマホをポケットから取り出し顔の前にかざしてみたが、何を見れば良いのか分からない。はぁはぁという自分の呼吸が画面を曇らせた。しばらくフェンス越しに線路脇を歩く人を眺めながら、少しずつ落ち着きを取り戻した。

―私は一体、どうしたのだろうか・・・。

(続く)

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