排気口の泥酔小路パラレルユニバースの巻。

 外はすっかりと秋の気温だ。そろそろおでんをつまみに1杯の季節。転がる夏の死骸が落ち葉で埋まるまでの刹那。答え合わせよりも来るべき夜長に備えて、明るい程の掌を。きっと私たちは手を持ち寄り火を作り出した最初の生き物だ。月の光に全てを託した最後の生き物だ。

 『月見れば 千々に物こそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど』

 『古今集』は大江千里の歌である。現代語訳すると「月を見ると、あれこれきりもなく物事が悲しく思われる。私一人だけに訪れた秋ではないのだけれど」よく哀愁をひいて淋しさを現した歌だと紹介されることがあるが、私は何故だがこの歌で安心してしまう。私一人だけに訪れないからこそ。秋が。夏の終わりが。だから安心してしまう。思いっきり泣いたり笑ったりしよう。

 さて我らがASIAN KUNG-FU GENERATIONの新曲「出町柳パラレルユニバース」が先日配信でリリースされた。森見登美彦『四畳半タイムマシンブルース』の映画版主題歌であるこの曲のなんと素晴らしい事だろう。思えば森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』の映画版でもアジカンは「荒野を歩け」という名曲を提供していた。

 「リライト」以降のアジカンの代表曲として「ソラニン」が挙げられる。それによって浅野いにお×アジカンの前景化が強化された時代があったが、私には浅野いにおの初期作に顕著な青さよりも、森見登美彦作品に通底する「(世界すら)選び取ろう」とする強い意思にこそアジカンの楽曲が合うと思っている。実際、浅野いにお『うみべの女の子』に現れたアンバランスなはっぴいえんど「風をあつめて」の方が何倍もその青さを補強しているような気がする。というのは、言い過ぎだろうか・・・?

 そういえば、先月終わった排気口新作公演『呼ぶにはとおく振り向くにはちかい』の千秋楽でどのような経緯か不明だが、私が外で煙草を吸って劇場に戻ると、アップ中の出演者全員が爆音で流れる「ソラニン」に合わせて大合唱をしていた。その光景に改めて「リライト」以上のアンセム具合を見た思いがした。本音を言えばそれが「腰越クライベイビー」なら最高だった。

 私は思春期の全てをそして今でも変わらずにアジカンの音楽と過ごしてきた。同時に厳粛なベッドルームリスナーを自負しているので、1度もライブに行ったことは無いのだが。それから多くの音楽への扉を開いてくれたのもアジカンである。

 当時、母親が新橋のホームレスの方と仲良くなってビックイシューを買っていた。父親が定期購読していたナショナルジオグラフィック日本版と合わせて私はそれらを読むのが楽しみでしょうがなかった。今もあるのか分からないがその頃のビックイシューは巻末の方にディスクレビューが載っていた。そこにアジカンのB面集『フィードバックファイル』が紹介されていた。そしてほぼ同じ時期にそのアルバムに収録されている「アンダースタンドlive版」をラジオで聴いたのが私とアジカンの最初の出会いである。

 そこからハマるのは脱兎の如く。金もない私は地元の図書館でCDを借りてウォークマンに落とすという行為を繰り返し、日がな一日中聴いていた。初めて買ったアルバムは『ワールド ワールド ワールド』だった。

 そうして私はアジカンとアジカンのラジオで紹介される多くの音楽の濁流に巻き込まれていく。アジカンが紹介して好きになったバンドは多くある。ナンバーガール、イースタンユース、くるり、サニーデイサービス、ウィーザー、ピロウズ、オアシス、ティーンエイジ・ファンクラブ、ジェリーフィッシュ、XTC、パンパルズ、ハイスタンダード、フーファイターズ、ビートルズ、と、挙げたらキリがないのだが。

 今、思えばあの時ほど音楽に全てをベッドしていた時代も無かった。高校生になりバイトが出来るようになるとほぼ全てを音楽に費やしていた。自転車で八重洲ブックセンターに行って神保町のディスクユニオンに行って御茶ノ水のディスクユニオンに行って秋葉原のブックオフに行って門前仲町を通り途中にあるブックオフに寄って帰るのが常であった。私の家にはパソコンが無かったのでネットカフェにハマるまで片手にシンコーミュージックのディスクガイドを持って自転車をこぎまわっていた。友達と遊ぶよりも楽しかった。だから友達との遊びをどうドタキャンするかに苦心した。高くて買えなかったアルバムを買った時も、高くて買えず次行った時にはもう無かった時も、何故だが同じようにワクワクした。

 時間とは残酷なものだ。今はもうあの頃の様にCDを買う事が無くなった。弟と好きなバンドの新譜を買って歌詞カードを二人で覗き込んでいた距離も、あのトラックを変える時のキュルキュルなる音も、帯をちゃんとケース裏に仕舞う手付きも、全て失われた。そして哀しいのはそれらを取り戻そうとする情熱が今の私には無いという事だ。それはサブスクであったり理由はあるのだろう。しかしもっと違う理由があるのかもしれない。それを私は胸の中で探してみようとしないだけなのかもしれない。過去を愛でるに留めるだけで。

 それでも、それでも魔法は続いている。如何にそれが2重化の憂き目に合い、つまりは、言い訳と素晴らしさに分かれようとも、それでもと言い続けるふてぶてしさだけは残っている。それが有益さを齎すことは無いのだけれど。

 私たちはもう戻れないのかもしれない。独裁者ナポギストラーによる支配と似ているのかもしれない。イメコンでひ弱になった私たちはいつか道端に全ての文化と芸術を捨てるのかもしれない。それを踏みつける事に何一つ痛みを覚えないのかもしれない。哀しいのはそれでも鳴り響くアジカンの音楽が眩しく聴こえると信じれてしまう独りよがりな祈りだ。

 きっと今も君だけは信じてくれる。そんなポエジーに塗れた言い訳を後世に残す為に私たちは営みに彩を与え続けるのだろうか。誰もが搾取者として存在し続ける今日において、じゃあ君とは誰なのだろうか。

 遊びまわる子供たちが見える。窓からその声もクリアに聞こえる。過剰な見出しで世界を分かった様な錯覚を与える1分未満の動画というドラッグを摂取し続ける私を尻目にこの秋の空の下で確かに世界と接地している子供たち。1人の子供が友達に手を振る。その手にはまだ何も握られていない。キーを叩く私の手ほどには何も握られていない。それをとても羨ましく
思う。

 札束を握った手でしか誰かと抱きしめられないとして、札束を吐き出す口でしか君と言葉を交わせないとして、札束を積み上げなくては自分の輪郭を保てないとして、そうした全てを肯定する奴らしか幸せになれないとして、それでも間違えながら進んでいく生き物が私たちだ。考えうる全てを持ち寄ることの出来る身体を有した生き物だ。それが退化と名付けれられる道筋だとしても、何度でも再生ボタンを押そう。雄弁にならされる音の振動は君の夜まで、君の朝まで、君の街まで、聴こえる筈だ。君とは過去全ての季節の自分だ。

 おでんの季節。元気でね。


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