9月29日

解説

作った物に後からごちゃごちゃ解説つけるの好きじゃないです派。でした。

はい過去形です。おっ、めんどくさい話題かな?って思ったひと安心して!最近は大人になったというか柔らかくなったんです。

かといって決して全部が全部オッケーというわけではない。
たとえば、たまにツイッターなどでも「ストーリーが意味不明だったゲームやアニメが、あとから発売される資料集や設定集の解説でようやくストーリーが補完されるのはいかがなものか」という話が流れてくる。その手のものはやはりよろしくないと思っている。受けとる側の想像にお任せしますにもなりきれず、しかし本編でもやりたいことを伝えきれず、結局ごちゃごちゃ文字で説明したら台無しである。

私はとあるバラエティ番組が大好きで、DVDも結構持っている。そしてDVD特典のひとつとしてディレクター陣の解説の副音声がついていた。はじめてDVDを手に入れたとき、私はまず本編を大いに堪能し、その後に副音声付のバージョンで再び本編を流し始めた。
本編がはじまる。本編の出演陣の声はやや小さめになっており、代わりにディレクター陣の声が聞こえ始めたのだが…。

「ここはね、こう演出したから面白いんだよ!」
「ね、本当はこうだったけど、あえてこうすることで面白くなるんだよ」

ひたすら演出の自画自賛なのである。なんだモヤモヤ感。私はたしかにこの番組が大好きだし面白いと思っている。彼らの面白いと思わせる演出が見事にハマッたわけだが、それを作った本人たちから「こうしたから面白い」なんて延々聞いてもただひたすらダルかったのだ。飲み屋でおっさんの武勇伝を聞かされているような気持ちだった。
それでもなんとか我慢して一時間ほど聞いてみたが結局は耐えられなくなり、副音声は切ってしまった。それ以来、私はもうその番組のDVDを買っても副音声は一切聞かないようになってしまった。

前述のストーリー補完の話も含めて、どうやら自分はそういうのが嫌いらしい、と認識した事件だった。大好きなバラエティ番組に対してそんな嫌悪感を持ってしまったのも悲しかった。たまたま自分が合わなかっただけだとは思う。でも、自分が嫌いなことはやらないようにしよう。そう思い、自分でも描いたイラストに対してあとからぐたぐだ言わないようにできるだけ気を付けていた。

そんななか、ここ一年ほどで星野源さんの曲にはまった。はい。思いっきり昨年話題になったドラマの主題歌『恋』からはいりました新参者です。でもドラマは見てなかったんでわかりません。アレ?にわか?よろしくお願いいたします。『恋』からはいり、Amazonミュージックで片っ端から試聴をしては気に入った曲をDL購入した。『ギャグ』『地獄でなぜ悪い』『フィルム』『化物』などなど。

もともと固定で好きなアーティストがあまりそいなかったので、久しぶりに好きな曲がたくさんできて嬉しかった。その流れで、うっかりエッセイ集も買ってしまった。日常のちょっとした出来事やらアホな下ネタの話やら、肩の力が抜ける心地いい文章だった。ここ近年、持病が色々としんどいこともあり、彼がくも膜下出血を経験し、そしてそこから復活したというエピソードにも共感を覚え、勇気づけられた。

そんなエッセイの中では曲のテーマや歌詞が出来上がった瞬間の話がところどころ差し込まれていた。そのなかのひとつとして、『化物』はいまは亡き歌舞伎役者の中村勘三郎さんとの会話がもとになったと書かれていた。「たくさんのひとに拍手をもらって帰っても、家にかえってシャワーを浴びていると本当にひとりなんだ」という言葉が元になったという。実際、『化物』の歌詞にも表現者の孤独、それでもまた憧れの舞台へと上がる、というような内容になっている。歌詞のなかにでてくる「奈落の底から化けた僕をせりあげていく」、という言葉も、孤独なネガティブの暗闇という意味と、歌舞伎の舞台装置としての奈落の両方の意味が含まれていたのかと気づいてまた曲を聞きなおすと感慨深く、新鮮だった。

そんなわけですっかり気に入った彼のエッセイ集を読み返すうちに、ふと気づいた。

アレ?私こういうの嫌いじゃなかったっけ?

自分のなかに矛盾が生じていた。苦手なものに自分でも境界が曖昧なのはよくないと思っている。自分からそういったものに近づかないようにする自衛のためと、人から矛盾をつっこまれた時にちゃんと説明しないとこじれる可能性があるからだ。トマト嫌いな人がケチャップはOKが理解されないような感じである。
私もトマトは苦手だが、そこは「あの生のトマトのぐじゅぐじゅした部分が苦手なんです」と説明する。(実際あのぐじゅぐじゅ部分がない生のトマトはほぼ抵抗感がない。いや別に大人なので料理として出てきたらぐじゅぐじゅがあっても食べるけど。プチトマトは食べると口の中でぐじゅぐじゅ大爆発感に寒気がする)

好きなものに対しては「なんとなく!」と曖昧な理由で入り口を大きく開けているのはむしろいいことだとおもう。だが苦手なものの入り口はできるだけ狭くしておいたほうがいいと思っている。

例の副音声と、エッセイの話を比べて考えてみた結果。私が聞きたかったのは作品をつくるときのきっかけや構想、あるいは苦労や工夫といった裏話なのだと気づいた。観客へ見せるひとつの世界を作り上げるために、一番さきにあったイメージはなんだったのか。どんな会話や打ち合わせから構想を練ったのか。途中にあったハプニングや、「いやわかんねーよ!」と言いたくなるような細かなこだわり、そういったことが知りたかったのだ。

もちろんそういうことすら作者側が語るのは邪道、受け取ったものがすべてだと思う人もいるだろう。逆に前述の副音声のような、作者側の演出の狙いこそ聞いてみたいという人もいると思う(技術の勉強の意味もあるのかもしれない)。あくまで私の場合は、です。だいぶ苦手なものの入り口を狭められたかな?とは思う。本当はそんな風に肩ひじはらずに、なんでも柔軟に受け止められたらいいんだけどね。この先もう少し柔軟になれたらいいと思っています。なんか反省文みたいになったわ。

ところでトマトは我慢して食えますが、梅干しはなにがどうあっても食えません。講釈たれた末にこんなもんです。そんなグレーさんです。よろしくお願いします。