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友部正人

今週05/25は友部正人の誕生日だった。71歳になったんだ。還暦コンサートを下北沢に観に行ってからもう11年経ったんだ、早いなあ。誕生日の日に友部正人のことを書こうと思ったんだけど、なんかやめてしまった。
すべてを書いてから冒頭のこれを書いているんだけど、ぼくが友部正人のことを知ったきっかけとそれから音楽を聴いて、はじめてライブに足を運ぶまでのことを書いた。あくまで個人的な内容でそれ以上でも以下でもない。

友部正人という存在をいちばん最初に知ったのは中学生の頃(2000年頃)、THE BOOMの「敬称略」(1999年リリースの『NO CONTROL』に収録)という曲の中で、“臆病風を吹かしている奴は友部正人に叱ってもらえ”という歌詞でその名前を知った。
この曲はいろいろな日本のミュージシャンの名前、バンド名が取り上げられていた。当時インターネット環境下になかったし、様々なミュージシャンの中の1人だったから、どんな人物なのかを深く調べることはなかった。

それから数年後、高校生になってから真島昌利の1stソロアルバム『夏のぬけがら』(1989年リリース)のCDを買った。名盤中の名盤だ。このアルバムに友部正人が「ルーレット」という曲にハーモニカで参加していて、また、「地球のいちばんはげた場所」という友部正人の曲のカバーが収録されていた。

それからまた数年後、高校を卒業して浪人しているときに高田渡を聴きはじめる。アルバムを買い漁り、浪人時代は高田渡ばかり聴いていた。
高田渡が1970年代はじめに組んでいたジャグ・バンドの武蔵野タンポポ団のアルバムを買い、その中にも友部正人が一曲だけソロ音源が収録されている。「からっ風のブルース」という曲だ。これは友部正人のデビューアルバム『大阪へやって来た』(1972年リリース)に「もしもし」と改題、そしてアレンジが異なる形で収録されている。
ここではじめて友部正人の歌と声を聴くことになる。最初に名前を知ってから5、6年くらい経ってはじめて友部正人を聴いた、長かった。
この曲を聴いて感動したぼくは、友部正人のアルバムを買い漁る日々がはじまった。

2008年に二浪の末、ようやく大学へ入学して、この年の10月にはじめて友部正人のライブを観に行った。場所は吉祥寺のスターパインズカフェだった。
この日はリクエスト大会というイベントで、入場時にじぶんのお気に入りの一曲を投票して、ステージ上で箱に入った投票紙をその場で引いて友部正人が歌う、という内容のイベントだった。1980年代から続くイベントらしく、年に一、二回行われている。
この日、なんの曲をリクエスト用紙に書いたのかは忘れてしまった。
この日のセットリストはすばらしくて、好きな曲ばかりで埋め尽くされた。特に、この日演奏された「夕日は昇る」という曲がすばらしかった。
それとこの日のアンコールに、「本編はみんなからリクエストされた曲を歌ったからアンコールはじぶんでリクエストして歌います」といって、この数年後『クレーン』というアルバムに収録されることになる当時未発表の新曲「廃品回収業者」という曲を歌ったんだけど、これは衝撃的だった。ただただ廃品回収車がうるさい、という内容の曲だ。はじめて観に行ったライブの当時の新曲としてこの曲を聴いたから、今でもぼくのなかでこの曲は特別だ。この10年後、いまから3年前の2018年に仙台へライブを観に行った際も同じようなリクエスト形式のライブで、同じように投票用紙を渡されたので、ぼくはこの「廃品回収業者」をリクエストした。ライブの後半の方で歌ってくれた。
話が元に戻り、はじめて行ったこのライブのあと、CDを購入してサインをしてもらった際に、なにか今日のことを伝えなくちゃと思い、
「夕日が昇る、最高でした、よかったです」
と伝えたあと、ぼくはしまった、と思った。正しくは夕日“は”昇るだ。「うん、ありがとう」とやさしいあの声で微笑みかけてくれたけど、そんな感動やうれしさよりも、なんて間違いをしてしまったんだ、あんなに好きな曲なのに…と帰り道に酷く落胆したことを覚えている。

当時、神奈川の実家に住んでいて、東京にある大学へ通っていたから、神奈川や東京であるライブは都合をつけて毎回のように足を運んだ。
大学生の頃からいままでもずっと、友部正人が好きだ。10年以上好きなのだから、これからもずっと好きだと思う。
今年の4月に高田渡が撮りためていた写真をまとめた写真集が刊行された。そのなかに若かりし頃の友部正人もうつっている。なんとも美しい顔立ちでうっとりしてしまう。この容姿で、あの声、あの言葉で歌う姿はさぞかし美しかったのだろうと思う。

友部正人はずっと友部正人だと思う。デビューからずっと一貫して身近な生活のことを歌っている。基本的に身のまわりに起こった出来事や見たことを歌っていて、不良青年だった当時の生活がデビュー初期の歌にも反映されているけど、結婚して子どもができたらそのことを歌うし、最近では近所の学校の野球部がうるさかったらそれも歌にしてしまう。
2011年の震災があった3月の翌月、4月にライブを観に行った。震災があったとき、友部正人はニューヨークにいて日本にいなかった。そのことが歌われている曲をこの時点で既に歌っていた。「日本に地震があったのに」という歌で、翌年2012年リリースの『ぼくの田舎』というアルバムに収録されることになる。

緊急事態宣言が発出されているいま、きっとこの現状の世界のことも、友部正人の視点で歌われると思う、というか既に歌っているのかもしれない。長いことライブに行っていないからわからないけど、きっとそうだと思う。

昔の方がよかった、という人がなんのファンにもいて、なんのジャンルにもあることだけど、いまの友部正人をちゃんと聴いているのかと、そういう方たちに問いたい。たしかに若い頃の方が尖っていて作品にも歌い方にもそれが反映されているから、その部分が好き、というのはわかるけど、いまを知らずにそれだけでいまを否定するのはどうかと思う。
友部正人は旅人のように一年中、日本中をまわりながら歌い続けているけど、先にも書いたように一貫して歌っていることは変わらないとぼくは思う。生きていれば年を取って、環境も変わって、視点も変わる。その変化は当然誰にでもやってくるものだ、ミュージシャンや表現者でなくとも。若い頃のそれらをいまに求めるのはどうなのだろうとぼくは思う。

昨年だったか一昨年だっか忘れてしまったけど、高円寺の飲み屋さんで真夜中、ぼくが店主さんに貸した友部正人のアルバムを聴いていた。
そこに、1980年前後によく友部正人のライブを観に行っていたというお客さんがいて、そのとき以来友部正人を聴いていなかったみたいだけど、比較的新しいそのアルバムを聴いてそのお客さんがぽつりと呟いたのが、「声が変わってないなあ〜、あの頃といっしょ」だった。ぼくはファンとしてその感想がうれしかった。厳密にいえば、40年前とけっこう声は変わっていると思うんだけど、残っている声のイメージといまの友部正人の声は変わっていないということがうれしかった。

中学生の頃好きだった元THE BOOMの宮沢和史や、ザ・クロマニヨンズ(当時はTHE HIGH-LOWS)の真島昌利が友部正人の扉をあけてくれた。たぶんこの2人の音楽を聴いていなかったら、友部正人を聴いていなかったと思う。
この2人は友部正人と何度も共演していることを、友部正人を好きになってから知るようになる。1990〜2000年にかけていっしょにライブをやったり、詩の朗読会を開催したりしている。知るのが少し遅かった。
ぼくが友部正人を好きになってから、共演する機会が少ない。非常に残念だ。

来年2022年は友部正人のデビュー50周年にあたる年だ。大きなイベントが開催されることを祈っているし、開催されるとなったらなんとしてでも絶対に行きたい。また、現代詩手帖やユリイカ、ミュージック・マガジンあたりの誌面においても特集を組んでほしい。徹底的に友部正人のことが書かれた内容の雑誌を読みたい。
絶対にいないと思うけど、まかり間違って、なんらかの偶然で、関係者の方が読んでおられましたら是非企画してほしい。お願い致します。

友部正人を知るきっかけとはじめてライブを観に行ったところまでのことしか書けなかった。その後もぼくのなかで特別な出来事がいくつか、いや、いくつもあるんだけど、まあどれも些細なことなんだけど。それはまた別の機会に。

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