見出し画像

ただの記号に翻弄される

名前は記号である

学生時代「記号行動論」という講義をとったことがある。確か2年か3年、他学科の専門科目だったが、気の合うMが誘ってくれて履修した。その中で名前も記号であるという話があった。

たしかに、私は「安谷屋」という姓と「貴子」という名による「安谷屋貴子」という記号で分類はされるが、それが私という人間の中身ではない。私を示す記号、その通り。

血液型で性格を分類する人がいるように、姓名によっても人は人を分類することがある。だから「安谷屋貴子」だけで私という人間のすべてはできていないが、この記号による経験でつくられた部分はある。

新学期も自己紹介も嫌いだった

子どものころ、私は「安谷屋」という姓が嫌だった。初見で読める人が周りにほとんどいない環境(生まれ育った神奈川県伊勢原市は横浜や鶴見、川崎のように沖縄ルーツの人は他にいたかもしれないが知らなかった。今のようにすぐにググったりする時代でもなかった。小学校の担任は読めない名前の生徒がいても調べすルビもふらず堂々と教室に来る時代だった。)で、毎年新学期は憂鬱だったし、自己紹介も嫌いだった。

沖縄に行けばその憂鬱から解放されるはず!と思ってスタートした大学生活では、「あんた自分の名前なまってるよ」とまさかの発音ダメだし。沖縄県中部、北中城村に「安谷屋」という地名があるが、そことは無縁だったしただ相手に間違いなく自分の苗字の読み方を伝えることだけに集中してきた19年間、正しい発音があるなんて考えたこともなかったから、これもトラウマ的記憶である。一昨年から再び沖縄で生活しているが、未だに自分の名前を言うときは緊張している、実は。

「安谷屋」は私を表す記号の一部なのに誰の?という確認をされる。「女性」というラベルによって

一昨年沖縄に戻って時々確認されるのが、「安谷屋」が誰の姓なのかである。これ、男性には起こらない確認だろう。

「安谷屋さんはご主人の仕事で沖縄に?」
「安谷屋ってことはまだ結婚してないのか」

という類のやつ。「安谷屋」という記号が何を指しているのか確認される。でもきっと私も無意識にしてきた。他者に対して。今は意識的に必要な場合を除き確認しないようにしている。

今ちょっと中断してしまっているが、家系図部で自分の戸籍をたどる作業を少ししてみたら、私を翻弄してきた「安谷屋」が、そんなに先を辿れるつながりではなさそうなことが見えてきて、肩透かしを食らったような気分だし、こうなったらなんで私が「安谷屋」という分類をされているのか突き止めなきゃやってられん、とかいう変な使命感も出てきたし、結局のところ、この先もずーっと翻弄されるような気がしている。

ちなみに「貴子」の方は落ち着いたもんである。先代の貴乃花からとったという母が付けてくれたこの名前は、読み間違えられることもないし、母がこの漢字で「たかこ」と名付けてくれたことは、私と母の距離感にもいい意味で表れている気がするし、この記号による不具合は人生に起きていない。

記号行動論、どんな学問なのか改めて興味がわいてきた。今学んだらおもしろそうだ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?