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意思決定の場が多様になる意義を考えてみる

「女子駅伝」を作る??

昨日書いたnoteを読んでくださった方のコメントに気づきがあった。40代の男性である。「女子駅伝もあっていい」。私はこれに引っかかった。ちっともそうは考えていなかったからだ。もちろん「箱根駅伝ー女子の部」ができたら女性にも機会は開かれる。そうやってきっと多くのスポーツには女性のチャレンジが可能になった歴史があるのだろう(調べていないから正確ではない…)。先のNHK大河ドラマ『いだてん』でだって、女性が男性と同じように走ることに対する大いなるアレルギーが描かれていたが、それを超えて女性も走ることを「許され」ていった。
じゃあ私は「女子駅伝」ではなく何を考えたかというと。私がもし箱根駅伝に憧れる中学生だったら、「来年から女子の部ができるってよー!」と聞いても真にうれしくはなさそうだということだ。出たいのは「今の箱根駅伝」だから、考えたのはそこに女性が出るためには何を変えれば良いのか?でもそこを変えたら箱根駅伝の魅力なくなる?そういう矛盾はどう扱えばいい?そういうことだった。
「箱根駅伝に出場するチャンスを持っていない」という困難に直面する女性の目線、当事者目線に立った解決策が「女子駅伝を作る」なのかどうか

「正義」のための戦争?

「戦争を防ぐため」にトランプ大統領はイラン革命防衛隊の精鋭部隊司令官を殺害したという。私はこの報に触れたとき一瞬大昔にタイムスリップしたかと思ってしまった。いったい人間はいつまでこんな愚かな意思決定を続けるのだろうか。
「〇〇の首取ったどー!」「我こそ英雄なり!!」とかなんとか言って威張っていた歴史上のお話しと何が違うと言うのか。そしてそうやって誰かの命を奪ってお話しが終わった試しはないではないか。「〇〇の仇!」やら「ならば次は我こそが!」とかなんとか、「命の無駄遣い」が延々と繰り返される。なんだ?だから「子どもは3人くらい産め」って発想になるのか?うわ、それ最低。
その司令官を殺害せずにどうしたらアメリカ人を安全に守れるのか、を考えることができるのが人間。それをせずに殺害という、最も安易な方法を選んだ目的は何だ?大統領選に向け自らの力を誇示したい?本気でアメリカ人の命を守りたいと思っていたらこんな方法が有効じゃないことなんて、歴史を見れば明らかすぎる。こうやって勝手に目的をすり替えて、自らを正義のヒーローに仕立て上げるのはそろそろ卒業しませんかね、2020年にもなったわけだし。

唯一の「多数派」でもない「男」によってのみ決めるのは異常

日本のいちばん長い日』という映画がある。私はこの映画を見終わった後、「男ばっかり出てくる映画だなー」と思い「意思決定の場に一人でも女性がいたら先の大戦での日本の軍部の選択もいろいろ変わっていたのじゃないだろうか」とも思った。「いやいや、あの中にちょーっと女性が混ざったくらいで変わらないでしょー」「女性が入るわけがない」とかなんとか声が聞こえてきそうだが、じゃあちょっとじゃなくていっぱいにすればいいし、何で女性が「入るわけがない」わけ??世の中の半分は女性だというのに。
「かかあ天下」が上手くいく秘訣って笑福亭鶴瓶さんなんかはずーっと言っていって、それは家庭の話に留まるものではないはず。現実的で忖度とか不要でそのとき家族の命に一番重要なものは何か、そのシンプルな基準で選択ができるのが「かかあ」なら、それは別に家庭に限ったことじゃない。私たちが生きる社会は家庭と地続き。大切にすべき命は同じ。その重さだって当然違いはない。それなのに今日の日本の社会でよく聞くのは、「政府の立場としては」「弊社としましては」「社を代表する者としては」みたいなエクスキューズ。その意見、個人としても同じですか?その意見の先にご自身の家族は存在していますか??と突っ込みたいことこの上ない。どうして「公」と「プライベート」が分けられると思うのだろうか。あなたが「公」人として下した判断が、あなたの大切な家族の夢を奪ったり命を奪ったりすることは大いにあり得ますよ。誰にどんな自分を見せたいからのエクスキューズですか?
しまった、何の話かわからなくなりつつありますが、結婚して子どもができたとしても基本何も変える必要がない男性と、状況に応じていろんな要求に応え自分を適応させる女性とでは、できる意思決定の質が違うと言いたいのである。

“マッチョ”な政治からの卒業を。そして人間の進化を

いわゆる「マウントを取り合う」のが男性首長により行われてきた政治だと思うのだ。それは経済面軍事面あらゆる面において。「メンツをつぶされた」「許せん!」「なめられてたまるか」「簡単に対話すると言うな」みたいな。でもそれって目的何なんですかと。自分の権威を保ちたい?国内の支持率を維持したい?そんなもんでしょ。あなたの政治哲学は何なんですかと、ずーーーーーっと思ってきた。
歴史に名を遺す、それは目標ではなく結果なのです。政治哲学を貫いた結果、名が遺るってもので。でも人は間違いを起こす。いつの間にかおかしなもののために時間を使い出してしまうことがある。それが“マッチョ”な政治。それを正せるのは多様性。同調してよいしょして、それは自分の保身が目的な場合が多いけれども、そういう人たちばかりではなく。本質に戻って考え議論し意思決定するために、マウントを取ることに興味がなかったり、メンツとかどうでもよいけれど命にはめっちゃこだわったり、「で、それ何のためでしたっけ?」と空気読まずに突っ込めたり、そういう多様性。手っ取り早く安全な場所にいる既得権益者のみなさん、その椅子を女性に開放しませんか??


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