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『死ぬ前に跳べ』 第1回 爆報!THE フライデー 2016年11月

今春(2016年3月)、爆笑問題が司会をしている「爆報!THE フライデー」に出演した。いや、出演したという表現は正しくない。コメンテーターとしてひな壇を飾ったわけではないのだから。

この番組では、芸能人の知られざる過去を、それもかなり壮絶な体験を、毎度どこからかと驚くほどに掘り当てて、エンターテイメントに料理して放送している。なんとも恐れ多いことに、こんなわたしも芸能人のはしくれとして取り上げてもらった。

どんな内容かといえば、昨年12月におこなった、腎臓移植手術についてである。いまどき腎臓移植なんて珍しくもないのであるが……。

この再現VTRの画面左上には、通奏低音のようにこんなテロップが表示されていた。

「爆笑問題の盟友…生死をかけた腎臓移植」

盟友とはわたしのこと。そして移植医療の名誉のために断っておく。”生死をかけた”なんて、大袈裟だ。腎臓移植手術はそんな一か八かな手術じゃない。
そうなのだ、わたしは爆笑問題の身内で、タイタンに所属している。
(なんだバーターかよ)
と、早合点しないで欲しい。知名度こそないが、なかなかない体験をしていることは間違いないのだから。

臓器移植手術は人生で2度目。
肝臓腎臓。腎臓。植えた臓器の数は3つ。
わたしには腎臓が4つある。

最初の移植は2000年4月。アメリカでの肝臓腎臓同時移植だった。そもそも肝臓移植のために渡米したのだが、移植待機中に腎臓までもが使いものにならなくなった。そして、この肝臓移植のきっかけを作ってくれたのが爆笑問題の太田さんなのだ。

そもそも母子感染によるB型肝炎だった。恐らく二十歳前後に肝炎を発症。それが治癒せず慢性肝炎になっていた。しかも酒豪がたたり、わずか31歳(1998年)で肝硬変と診断された。
このとき、脅かされるように言われたのが、
「あなたの喉には、食道静脈瘤という爆弾があります。それが破裂して緊急に治療ができなければ、死に至ります。それが明日なのか、10年後になるのか、それは誰にもわかりません」

それが気のはやい静脈瘤で、さっそく翌年破裂した。生死の境を三日三晩さまよった。

このとき浅草キッドもお見舞いにきてくれ、わたしの病室で爆笑問題の太田さんと水道橋博士が邂逅している。この模様は、浅草キッド著「お笑い男の星座 芸能死闘編 爆笑問題問題」に詳しい。導入部分だけ引用させていただく。

────
1999年4月の東京──。
阿佐ケ谷の中杉通り、木漏れ日に追いかけられるように俺たちは駈けていた。
行先は駅裏の河北病院。
ある人物が瀕死の重体にあるという急報を受け、気が気でない中の奔走である。
ここに、俺たちとは浅からぬ因縁、いや、深い遺恨を残すと言っていい相手が登場する。
爆笑問題──
────

話しを戻す。

静脈瘤破裂の直前にも腹水が酷くなって2週間ほど入院していた。
この入院時、日本の臓器移植医療にとって、エポックメイキングな出来事が起きる。
1999年2月28日、臓器移植法施行後、日本で初めての脳死ドナーからの臓器提供が行なわれたのだ。
病棟のベッドに横たわりながら、
(俺も移植ができたら助かるのかなー。でも、どうしたら移植なんて受けれるんだろう。どうせ、よっぽどコネがあるか、運の良い人しか助からないんだろう。なんだか、雲をつかむような話しだなー)
なんて思ったことを、おぼろげながらも覚えている。

それで病棟の担当医に聞いた。
「僕も肝臓移植をしたら助かるんですか?」
「……肝臓移植ですが、残念ながらB型肝炎の患者さんは不適合なんです。移植のメッカであるアメリカですら、B型肝炎患者への肝臓移植はやっていません」
B型肝炎患者に肝臓移植をしても、ウイルス自体は消失していない。再度肝炎を再発し、恐るべきスピードで肝硬変へ移行するのだ。

じつはこの時、B型肝炎が移植の非適応であることを聞いて、わたしはほっとしている。
なぜか?
もし移植ができることを知ったら、せっかく死を覚悟しようと必死に歯をくいしばっているのに、その決心が揺らぐ。
移植という助かる道があるのに、それが自分にとって絵に描いた餅なら、手に届かない希望なんて苦痛だ。
できないならできないでいい。いっそ潔くあきらめもつく。

そんなことのあった入院生活も、腹水が安定して退院した。

そして、退院してすぐの静脈瘤破裂だった。
なんとか一命をとりとめたものの、残された余命は長くないことが知れた。
「ハギ、肝臓移植はどうなんだろう」
ひとつの可能性として、太田さんが肝臓移植を提案してきた。
そこでわたしは、
「残念ながら、B型肝炎では移植ができないらしいんです」と、伝えた。

ところが太田さんは、「どうせあいつはバカだから」と、肝臓移植について自分で調べたようだ。
臓器移植と検索する。
最上段にトリオ・ジャパンがヒットした。
ボランティアで活動している移植者ネットワークだ。
太田さんは、すぐさま相談の電話をかける。応対してくれたのが事務局長の荒波さんだった。

そして数日後、また太田さんがやってきて、わたしはこっぴどく叱られた。
「お前、B型肝炎ではアメリカでも移植をしていないと言ってたな。やってる。間違いなくやってる。これを読め」
と、どこから入手したのか、肝臓移植に関する最新の論文を手渡してきた。
「いま、B型肝炎ウイルスに効く、ラミブジンという特効薬ができて、アメリカではB型肝炎でも移植できるようになってるんだよ。医学は常に進歩しているんだ。お前は死ぬ死ぬ騒いでるけど、調べれば、決して助からないわけじゃない。お前は肝硬変で死ぬんじゃない。バカで死ぬんだ!」
太田さんらしい、叱咤の言葉だった。

それからというもの、まだ日本では未承認であるが、B型肝炎の特効薬ラミブジンについての論文や、様々な資料を太田さんは持ってきてくれた。移植について勉強しろと。

そしてやっと退院が決まったころ、お見舞いにきてくれた太田さんが、
「退院したら電話しろ。ここに荒波さんという人がいる」
と、上着のポケットから無造作に、くしゃくしゃになったメモを渡してくれた。
「とっても親切な人だから。萩原ですと言って電話すればわかるようになってるから。いいかお前、絶対に電話しろよ」
実は今号のエピソードの主人公にすえたかったのは、この荒波さんだ。

そういえば太田さんの著書「しごとのはなし」では、お前は肝硬変で死ぬんじゃない。バカで死ぬんだと、叱咤されたエピソードが、”無知死”として載っていた。
そこで太田さんは、情報を知らないが故に死んでしまうこともあると語っている。
そしてこのエッセイの中で、わたしが無知死にならずにすんだのは、文中では”Aさん”となっているが、荒波さんのおかげであるとしっかり書かれている。

太田さんもわたしも、荒波さんにこそ、爆報!THE フライデーの放送を見てもらいたかった。

そして退院して、トリオ・ジャパンに電話をした。
すると荒波さんが、
「萩原さん、あなたは良い友人をお持ちですね」と、感嘆するように言ってくれた。
荒波さんと太田さんのエピソードについては後日ゆっくり触れたいと思ている。が、今号では、まず自己紹介として、わたしの移植体験の全体図を俯瞰したい。

1999年8月、渡米。
テキサス州ダラス市にあるベイラー大学メディカルセンターで移植者登録をして、現地の患者アパートにて待機。
壮絶な闘病の日々。
翌年、2000年4月27日に同大学病院で肝臓腎臓同時移植成功。

帰国後の2004年、元妻と離婚。シングルファーザー生活に突入。
2006年にはキリングセンスが解散。
いいことばかりはありゃしない。
そして移植した腎臓までもが、遂にわたしを見放した!
2009年9月、アメリカで移植した腎臓が腎不全となり人工透析導入。

そしてここからが、第二の移植の話しとなる。

常々、太田さんからは「不幸だ。不幸だ」といじられ続けてきたが、そんなわたしに転機が訪れる。
偶然、昔のファンと阿佐ケ谷の道端で再会する。
レアなお笑い話しなどで盛り上がりながら、彼女の人間的な魅力にひかれ告白。
「べつに、そういうんじゃないから」
と、数度ふられるも(意外としぶとい)、
2012年8月、だだをこねて交際開始。

それからおよそ3年近い月日が流れ、
2015年3月13日入籍。
そして入籍をお祝いした夕餉のテーブルで、唐突に彼女は言った。
「ねえ正人さん。腎臓移植をしよう」
「えっ?」
何を言い出すのかと戸惑った。
「私の腎臓をあげるから、生体腎移植をしよう」
「生体腎移植っていうのは、健康な体にあえてメスを入れるんだ。そんな簡単なもんじゃない」

そうわたしが反対すると、彼女は密かに移植の勉強をしていたことを告白した。東京から名古屋まで足を運び、名古屋第二赤十字病院の生体腎移植ドナーの会に参加して、生体腎移植について学んでいたのだ。その上で、じっくり考えて出した結論であると。

こうして生体腎移植を目指して東京女子医大腎臓外科での診察が始まり、手術日が12月10日に決まった。
ただ困ったことに、その直前の11月21日に披露宴を控えている。
しかも急にテレビの取材も決まった。
披露宴の準備、移植に向けての心構え、取材とインタビュー。ちょうど昨年の今ごろは、精神的に慌ただしい日々を送っていた。

披露宴にも取材のカメラが入った。ただ列席者には、12月10日の腎移植については触れなかった。
新郎の紹介が盛りだくさんで、2000年の渡米移植を説明したあと、「また来月も移植します」と報告したら、来賓の頭に「????」が激しく明滅するだろうから。
(当日来賓されたお客様で、偶然テレビをご覧になった方はさぞや驚かれたはず)

そしてトリオ・ジャパンの荒波さんである。
離婚だなんだで人生をバタバタさせてしまい、良い報告ができず、すっかりご無沙汰していた。
やっと喜んでもらえると、再婚を機会に連絡を取って、夫婦でご挨拶にうかがった。

荒波さんは末期のガンを患われていた。
ステージ4の大腸がんだった。
「新しい抗がん剤を試していて、それが効いてるんですよ」
すっかり窶れ果てていたが、
なにくそ。ガンなんかに負けるもんかという、強い意思が目の奥に光っていた。

荒波設計事務所を切り盛りしながら、ボランティアでトリオ・ジャパンを支えてきた。
やっと年金生活になって、ゆっくりしようとしたところでガンが発見された。
なんということだろう。
これまで何人もの命を救ってきた人が……。

太田さんと荒波さんは、わたしの移植の後も、メールで連絡を取り合っていたようだ。
テレビ番組で移植が取り上げられる度、太田さんは荒波さんから教えを乞うた。

荒波さんも、ここぞというときは太田さんをたよりにした。
太田さんも、光代社長も、移植医療の発展に寄与するならと、喜んで協力していた。

そして2015年は、トリ オ・ジャパンにとって記念すべき年だった。活動を始めてから25周年。その節目として、記念のビデオをつくるという。
わたしも移植患者として出演した。もちろん爆笑問題も一緒に。

この撮影には、現在のトリオジャパン会長である野村祐之さんがお見えになり、
「この25周年の裏テーマは、荒波さんの応援ビデオなんです。だから太田さんに参加してもらえて、荒波も大変喜ぶと思います」
と、嬉しそうに語ってくれた。

野村会長もB型肝炎からの肝臓移植者だ。1990年にベイラー大学メディカルセンターで移植をしている。もう25年以上も前の話しだ。やはりB型肝炎が再発し肝硬変に進行していた。ところが野村会長は奇跡的に、そこで症状が止まっていた。ここまでが1999年に出会った当時のこと。

ちなみに野村会長の後日談。
わたしが移植から帰ってきたきた以降、
「肝臓にガンが見つかったんだよねー」と、心配そうに話していたことがあった。
それからしばらくして再会したとき、
「その後、大丈夫ですか?」と、聞いたら。
「平気。ベイラーで再移植をしてきたから」と、ごくさらっと言ってのけた。
日本では考えられないが、アメリカで再移植など、ごくごく当たり前のことなのだ。
日本にもそうなって欲しいと、切に願う。

太田さんも荒波さんの症状を知って、ずいぶん心配していた。
爆報!THE フライデーでも、トリオ・ジャパンに取材が入った。

わたしが思うに、日本の臓器移植の現状を、視聴者に知ってもらうのは必須だと、太田さんが考えたからじゃないだろうか。

そして年明けの春に放送が予定されている、爆報!THE フライデースペシャルを荒波さんに見てもらうことを、太田さん自身が、一番の楽しみにしていた。

わたしも放送の二日前、3月2日、荒波さんにメールをした。

────
今週金曜日、3月4日
TBSテレビ「爆報!THEフライデーSP」
19時からの2時間スペシャルにちょっと出ます。
もしお時間が合えばとご報告いたしました。
────

しかし返事はこなかった。渡米移植の頃は、ちょっとした心配でもすぐに荒波さんにメールで相談した。いつも即答で返信があった。やはり体調が思わしくないのかと心配になった。

そして当日、いよいよ放送日だねと妻と照れつつ、テレビが始まるのを楽しみにしいた。
すると移植仲間からラインが届く。
「荒波さんが亡くなったみたいだけど、ハギさん知ってる?」
慌ててトリオ・ジャパンのホームページを見た。

トリオ・ジャパンの事務局長をさせていただいておりました荒波嘉男が、
2016年3月3日 午後3時18分 逝去いたしました。

一番見てもらいたい人に見てもらえなかった。

3月6日午後5時、浦和福音自由教会で前夜祭(通夜)が行なわれた。故人の人柄と活動が偲ばれるほど集会堂は人で埋め尽くされた。
献花の列はなかなか途切れなかった。

太田さんは必ず来ると思った。
万が一間に合わなくて、教会の集会堂の扉が閉ざされてしまっても、あの人はかまわず来る。

わたしが透析導入となった、悲嘆の入院のときもそうだ。
深夜11時に、あえりえない見舞い客があった。
看護師さんが怪訝な顔で、
「親族と申す方が、この時間に面会に見えてますが、いかがされますか?」と、聞いてきた。
非常識すぎて嬉しくて笑った。

献花の列がもっと長く、いつまでも途切れなければいいのにと思った。
荒波さんの最期の顔を、太田さんも見たいだろうから。

そしてわたしの順番がきて、荒波さんにさよならを言った。

ロビーで、トリオ・ジャパン会長の野村祐之さんにご挨拶をする。
25周年イベントには、車椅子で荒波さんも参加できたそうだ。
トリオに縁のある移植患者さんで人の輪がふくらむ。

わたしはこっそり、電源を切っていたスマホを起動させた。
着信履歴がたくさんあった。
太田さんのマネージャー笹井からだ。
慌てて折り返す。ごめん。
「あ、もしもしハギさん。大丈夫です。もう着きました」
いつのまにか笹井が目の前にいた。
「太田さんは?」
「献花の列に並んでます」

集会堂に戻ると黒い礼服をきて、かしこまった太田さんがいた。
太田さんが荒波さんの棺に献花する。
荒波さんの穏やかな死に顔を見つめ、太田さんが姿勢を正す。
わたしが見る限り、太田さんは心底、荒波さんを尊敬していたように思う。

喪主である奥様、荒波よしさんが太田さんを見つけ、パッと顔を明るくする。
きっと荒波家にとって、太田さんの存在は、売れっ子お笑い芸人以上に心を慰めてくれる存在だったんじゃないかと思う。
「あら、太田さん来ちゃったの。荒波に叱られちゃうわ。太田さんにだけは言うなよ。あの人は忙しい人なんだからなって、言われてたのに」

「あの人は忙しい人なんだからな」って、きっと荒波さんは嬉しそうに言ったんじゃなかと思う。
これはわたしの勝手な想像だけど。
でも、たったそんなことでも、太田さんのことで、もし荒波さんが嬉しそうにしていたなら、それも太田さんの恩返しになんだと思う。
きっと荒波さんは知っていたんだ。太田さんは、どれだけ仕事が忙しかろうと、きっと駆けつけてしまう人だってことを。

これを書いていてふと思ったことがある。
わたしが荒波さんに感じる親近感の理由のひとつだ。
それはきっと、ふだん悪態ばかりの太田さんの、心根の優しさを、あのとき、濃密に共有したからだ。

荒波家の一家団欒の食卓が目に浮かぶ。
みんなでテレビを見ている。
太田さんが毒舌を吐く。
家族に笑いが生まれる。

でも、
荒波さんや、
奥様のよしさんには、
また違った思いが溢れてくる。
「また、太田さんが、あんなこといってる」
なんて、あきれたりはするけど。
でも、
「本当の太田さんはね……」
なんて、
嬉しそうに、
息子さんや娘さんに語って聞かせる。

一緒に教会を出た。
「なあハギ、見てもらいたかったな。残念だったな」
悔しさと優しさの入り交じった声で、ぽつんと太田さんがつぶやいた。
「お前覚えてるか、それにしても笑っちゃうのは、トリオ・ジャパンなんて掘ったて小屋みてえなところだったよな。俺、一瞬目を疑ったよ。あんまりボロっちいところなんで」
照れくさくなったのか、急に悪童の顔を見せる太田さん。
そんな太田さんが荒波さんは大好きだったに違いない。

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