「女は愛嬌」は横暴か、処世術か、それとも。

「女は愛嬌」と言うけれど、愛嬌とはいったい何なのか。材料がなければ愛嬌は作れない。「笑っとけばいいんだって」という意見はやや乱暴だ。笑顔にもたくさんの種類があって、あいまいな愛想笑いや自信なさげな半笑いじゃ愛嬌は生まれない。かえって分厚い心の壁が浮き彫りになり、とっつきにくくなる。

あい‐きょう〔‐ケウ|‐キヤウ〕【愛×嬌/愛▽敬】
にこやかで、かわいらしいこと。
出典:デジタル大辞泉(小学館)

「愛嬌がない」とされる女性は、たいてい「そんなニコニコできません」と思っている。別にプライドが高いわけでも、高飛車なわけでもない。むしろ慎ましい小心者が多い。「笑ったところで何になるんですか」といった懐疑心を抱え、おさまりの悪い劣等感をぶら下げ、ひっそりと周りを伺っている。彼女たちからしたら、愛嬌を振りまく女性の笑顔はあまりにも無防備で、楽観的で、妄信的だ。

そう、愛嬌に必要なのは自信なのだ。

自分は受け入れられるという自信。
愛されるという自信。
人並みにかわいいという自信。

こうした自信がないと「私が笑ったところで」と笑顔を抑圧する。笑っても受け入れられなかったら、哀れな道化だ。目も当てられない。

女の自信を作るのは、他人の言葉であることが多い。小さい頃「かわいいね」と言われて育つと、根拠のない自信が育つ。事実とは関係ない。笑ったとき、大人から「かわいい」と頭を撫でられれば、女としての自尊心がすくすく育つ。

―私はお姫様のような美女ではないけれど、笑えばそれなりにかわいいの、みんなに受け入れられるの。

こうして女は、知らず知らずのうちに「かわいさ」の土俵に立たされて生きる。男の地位や名誉など「ステータス」の土俵と異なり、常に他人の目にさらされる土俵だ。自然とまわりの評価を気にするようになる。我が道を行くだけでは愛嬌は手に入らない。評価項目を知り、戦略を立て、土俵の上を笑って踊る、フィギュアスケートのような世界。

酷ではあるが、魅せる土俵は見る者を照らす。ふりまく愛嬌は、だれかの心をやわらげ、笑顔が笑顔を生み、居心地のいい場を作る。

つらくてしんどくて、にこりともできない日もある。
自分の笑顔を好きになれないこともある。

それでもあなたの愛嬌は、笑顔は、だれかを照らすのだ。
だれかを照らし、笑顔を生んだとき、きっと自信が芽生えてく。
笑うことが怖くなくなり、自分の笑顔が好きになる。
愛嬌は、自分と他人をにこやかにするものなのだ。

笑顔が増えるなら、自分を妄信してもいいじゃないか。
自分に甘くいこう。

aki kawori | Twitter

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