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「がんばればできる」と言って何が悪い

中高の同級生たちとZOOM飲みをしていたときに
「現状に満足できなくて常に『もっと上!』と思い続けるタイプだから、自己肯定感ないしは自尊心が低く自信がないのでは?と言われる」
と話したら
「違うよ、努力すれば報われるって信じているんでしょ。私たち(茨城県では一番の進学校だった)は努力すれば報われると思って生きてきたじゃん。大学受験もそう思って勉強してたじゃん。
でも、そういう小さな成功体験を積み重ねられなかった人たちはそう思えないし、努力する意味もわからなくて、上を目指そうとはしないよ」
と言われて、目からウロコだった。


その子は家庭環境に恵まれない子どもたちにボランティアで勉強を教えているのだけど、ほぼ100%「がんばれない」らしい。
「がんばってやろうよ!」と励ましても「がんばる意味ってあるの?」と聞かれるそう。
がんばっても褒められない、がんばっても結果が出ない、がんばっても何も変わらない。
成功体験が一切なかった子どもたちには、やる気スイッチが存在しない。
外部の人間が手を差し伸べることはできても、その根はあまりにも深くて、たまに会うくらいの大人にはどうにもできない。


保護施設に預けられた子どもたちにミートソーススパゲティを出すと、ミートソースをよけて食べるらしい。
その子たちにとってスパゲティとは単なる茹で上がった麺であり、ソースなんてかかっていないから。
得体のしれない赤いどろどろを避けて、まっさらな麺だけ食べる。
そこに「未知のおいしさ」があることなんて知る由もない。


でも、たとえミートソースが食べられなかったとしても
「ミートソーススパゲティというものがあって、それは赤いトマトソースがかかっていて、お肉も入っていてとてもおいしい」
という知識さえ知っていれば、きっと喜んで食べる。
体験できなくても、言葉で疑似体験させることはできる。


「がんばればできる」なんて容易く言うな、という意見もあるけど、がんばればできるよ、君ならできるよと子どもを盲目的に信じて、ただ生きているというだけで全肯定して、自我が生まれる前からずっと声をかけて背中を押し続けられるのは、やっぱり家族だけなんじゃないかな。
何の根拠もなく信じてくれる人っていうのが、健やかな心の源なんじゃないかしらん。


叩く文化からは、自分を信じて挑戦できる人は生まれないと思う。
中学校で初めてできた友人だった彼女が「あなたは自信がないんじゃなくて、自分を信じてるんでしょ」と肯定してくれたから、このままの私でがんばろう、とやる気スイッチを押せたわけです。

だからこんな毎日ですが、自分を信じて書きたいことを書くし、子どもには「がんばればできるよ」とエールを送り続けようと思います。信じるって、何よりも強いエネルギーになるから。

自分と大切な人のことを、無条件に、無鉄砲に、信じること。
それが、いま私にできること。

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