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コーポレートガバナンスはどうあるべきか

組織と人間は似ている

組織論を学んでいく中で、別件で知能とは何かに触れる機会があった。知能とは何かを追求することはすなわち人間とは何なのかを追求することと等しく、その中で「組織は人間に似ている」というのを感じた。人間の意思決定モデルと組織の意思決定の構造が似ていたからだ。
時に社会は組織を人間として扱う。それが法人である。本質的に法人が自然人と同じ機能を持ち得るかはひとまず置いといて、人々は組織に対して人間的な、もしくは人間と置き換えられる存在として認知したためではないだろうか。
そもそも、社会におけるシステムが人間の機能の拡張だと考えられる。

いかなる発明あるいは技術も、われわれの身体を拡張 ないし自己切断したものである。(マクルーハン、1964)

とあるが、それは人間が身体の拡張以外の想像をすることができないためである。

生物は環境の中で身体の変化とともに知能を形成してきた(三宅、2017)

知能は環境に依存し、身体に依存する。生物の知能というのは環境や身体的特徴に最適化されたものなのだ。
人間の知能は人間の身体や環境を基準として形成される。つまり人間の思考は人間という身体や環境を基準として作られており、その枠から外れた、例えばタコの環境と身体を基準とした思考をすることは不可能である。

アライグマはアライグマの、リスはリスの、人は人の身体と知能、人間は人間の身体と知能を持っています。つまるところ、身体と知能は一つのものとして進化してきたわけです。そのため、身体の側にもこの地球の環境で生き抜くための様々な精緻な仕掛けがなされています。身体と知能は全体としてこの世界で生き抜くシステムとなっているのです。(三宅、2017)

人間は自らの身体を基準とした思考しかできないのだ。技術の歴史を見ればそれは一目瞭然である。いかに人力を拡張させるかに人々は心血を注いできた。

人間が人間的な思考しかできないのであれば、人間が作り出した効率化のシステムは何らかの人間の機能の拡張を目的としているはずだ。であれば人間がわかれば組織がわかるはずである。しかしながら、人間というものについて我々はほとんどわかっていない。人間とは何か、何のために、何ができ、どういった構造になっているのか。完全に解明されていない。
人間というものは未知であるが、現実に我々は人間として生きている。人間として生きている中で得た知見を元に、組織というものを理解してみたいと思う。そのため、この文章では企業のことを人間に置き換えたらどうなるか、人間のことを企業に置き換えたらどうなるかという形で構成されている。

ガバナンスとは何か?

統治と訳されるそれは、

企業の不正行為の防止と競争力・収益力の向上を総合的にとらえ、長期的な企業価値の増大に向けた企業経営の仕組み(経済団体連合会、2006)

とされており、実情は監視と管理体制の仕組みを指しているように思える。意思決定と執行に間違いはないか、異常は起きてないか、機能していないものはないかを常に見張ることではないだろうか。ガバナンスを行為として見た時、つまりガバナンスを実行するとなった時にする行為はこれがほとんどのように見える。ガバナンスの定義や概念によってどこまでをその行為とするかは違うと考えられるが、ガバナンスの構築をすると言った時に、監視と管理体制の構築に着手しない人はいないだろう。
ガバナンスの目的は組織によって様々だが、先ほど示した「競争力・収益力の向上」とあるように、コーポレートガバナンスの目的は最終的に企業の目的である利益を上げるためである。もしくは企業の存続のためである。「長期的な企業価値の増大」とあるが、なぜ長期的に企業価値を増大させなければならないか。それは存続させるためである。存続させなくていいのであれば長期的な視点など持つ必要はない。もし明日死ぬかもしれない状況になった時に10年後の人生など考える必要があるだろうか。(なぜ企業を存続させなければならないか。それは、存続させたい人がいるからである。その企業に存在してほしいと願う人がいれば、その人たちは企業を存続させる行動を取る。それは、自分がお金を稼ぐ術がなくなってしまうからその企業に存在してほしい場合もあるし、その企業が提供する商品やサービスがなくなってしまうと困るという場合もある。もし、その企業に存在してほしいと願う人がこの世に一人もいなくなったら、その企業は存続することはできないだろう。企業が存続するのは、その企業が存在してほしいと願う人たちの存続のための営みによって成立する。)
先達はそれらの利益を上げることや存続のために行うガバナンスを

株式会社がよりよく経営されるようにするための諸活動とその枠組みづくり(加護野他、2010)

と称した。よりよい経営というのを定義することが難しいが、経営を意思決定行為として見るならば、ガバナンスは誤った意思決定を行わないためのものとして捉えることができる。これを人間に置き換えて「人間がよりよき意思決定を行うための諸活動とその枠組みづくり」とすればどうだろうか。
人間の人生において、その時々で良い意思決定ができているかどうか。それは死ぬ時にならなければわからない。あの時の意思決定のせいでうまくいかなかったこともあるかもしれないし、あの時の意思決定のおかげでうまくいったのかもしれないし、あの時の意思決定でうまくいかなかったおかげであの時の意思決定がうまくいったのかもしれない。その評価を下すのは死ぬ時である。生きている間に意思決定の暫定評価を下すことはできても、最終評価を下すのは不可能である。しかし、他者がその人の意思決定を評価する場合は人生など踏まえようがない。
他者からの評価は断片的にしか評価されない。その瞬間の「行為」を切り取り、良いか悪いかを判断する。その評価には大抵、その人の人生などは踏まえておらず、また人生を他者と共有することもできない(現時点で情報を完全に共有できるメディアは存在しないため)。つまり、他者から見た意思決定の良し悪しは大抵は行為単体の良し悪しで判断され、自分の中での意思決定の良し悪しは、人生という全体の中で見た時にその行為が結果的に良い影響を及ぼしたかどうかで判断される。ということは、もし自分が「よりよい意思決定を行っている」と他者から思われたいのであれば、行為単体の正しさを求め、正しい行為をし続けなければならない。ここでいう正しさは自分の中での正しさではない。他者から正しいと思われる行為、それは社会に根付いている常識や倫理観に基づいて判断されるものだ。
正しい行い(良い意思決定=人々に正しいと思われる意思決定)を続けていればその人は「良い人」と呼ばれるだろう。そしてきっと大人は子供達に「あの人のようになりなさい」と教えるだろう。まるでガバナンスに強い企業の事例として取り上げられるように。
「よい経営を行っている企業」というのは、「よい行いをしている人間」と訳すことができる。それは「良き人間像の体現」であり、企業におけるガバナンスとは「良き企業像の体現」だと考えられる。

良き企業像を体現するにはどうすればよいか?

人間が社会に求められる良き人間であるためには、
① 良き人間とは何かを定めたルール
② 人々に信頼される行為
が必要であると考える。
良き人間とは何かを定めたルールとは憲法である。憲法はその国が定める、その国の国民にどうあってほしいか、また社会における正しさとはどうあってほしいのかを明文化したものである。

法とは願い!国家がその国民に望む人間の在り方の理想を形にしたものだ!(原泰久「キングダム」)

これに基づいて、人々は正しい行いとは何かを認識し、生活を行う。言論の自由や表現の自由なんかは憲法が定めたものであり、自然界のルールではない。本来であれば人は言論を統制したり表現を規制したりすることができる。できるのに、それをしたいと思ってもしないのはなぜか?憲法でしてはならないと定めているからである。憲法で定めてあるから、してはならないのだ。憲法でしてはならないとなっているから、それは揺るぎない正義となる。もし、憲法も法律もなかったら人々は言論の自由などをこんなにも守ろうとしただろうか。誰かを黙らせて何が悪い、黙らせることができるのだから、黙らせているのだ。黙らされたくなかったら黙らされないようにすれば良い。そんな無慈悲な世界はごめんだが、憲法がなければこれを悪と断定することもできない。
企業における憲法とは何か。実際の日本の法律もその中に含まれるだろうが、それだけでは良き企業というのは見えてこないだろう。今の日本においては良き企業の定義を明文化したものは存在しないのだ。ある意味先ほどの無慈悲な世界に近いかもしれない。ただ、その中でも人々は正しさを求めてしまう。人々(組織の構成員も含む)が求めた結果、企業が勝手に良き企業像を明文化したものがクレドではないだろうか。あれは従業員の行動指針も含まれるが、従業員の行動も企業の行為の一つであると考えれば、我々の考える正しい企業像はこれですと提示しているようなものだ。企業は理念や価値観のようなものを定め、今やどこの企業も自分なりの良き企業像を標榜している。
自分で自分の行いの正しさを決めることはむしろ正しいのかもしれない。人間は度々誰かの決めた正しさに従うことに疲れてしまう。こういう時に決まって言われるのは、「自分らしく自由に生きる」(岸見、他2013)といったようなことだ。誰かが決めた正しさの中で生きるのではなく、自分の中で決めた正しさの中で生きていく。それが健全な人間のあるべき姿だと人々は気づき始めたのかもしれない。

もう一つの、人々に信頼されるための行為とは何だろうか。信頼とは、

自らが相手に何らかの報酬を期待し、相手がその期待通りに行動すると認識すること(和田、1998)

である。つまり、信頼を得るためには人々の期待する通りの行動をすればよいのだ。この人はこんなことをしてくれるだろうというのは、その人の過去の言動や行動によるところが大きいのではないだろうか。例えば、「困った人は絶対に助ける」と言った人が、困った人を助けているところを見聞きしたら、信頼につながるだろう。信頼につながる行為は有言実行だと言える。
つまり企業のガバナンスに必要なのは
・自分たちの考える正しさを明文化すること
・その明文化したものに沿った行動をすること
である。

まとめ

企業というものは人間の機能を拡張したものである。人間におけるガバナンスというのは「良き人間像の体現」である。これを企業に置き換えると「良き企業像の体現」となる。良き企業像を体現するためには、自分たちの考える正しさの明文化とそれに沿った行動が必要。自分たちの決めた正しさに沿った行動ができているかの監視と管理体制の構築が企業に求められるガバナンスのあり方である。


参考
『メディア論 人間の拡張の諸相』,マーシャル・マクルーハン(栗原裕、河本仲聖訳),みすず書房,1987
三宅陽一郎「人工知能の作り方」技術評論社(2017)
日本経済団体連合会「我が国におけるコーポレート・ガバナンス制度のあり方について」(2006)
加護野忠男・砂川伸幸・吉村典久「コーポレート・ガバナンスの経営学」有斐閣(2010)
原泰久「キングダム」集英社、46巻494話
和田充夫「関係性マーケティングの構図」有斐閣(1998)
岸見一郎・古賀史健「嫌われる勇気」ダイヤモンド社(2013)

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