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預言と予言の違い~9月26日前日の考察

さて、タイトルにもあるが、今年2020年9月26日に、日本の太平洋側にて大規模の、いわゆる「震災」と呼ばれる規模での地震と思われる天変地異が起きるという預言がある。このことについて、少しだけ掘り下げていく。

でも、なんにしても、言葉というものは難しい。「よげん」という言葉には、預言と予言があり、厳密には微妙な違いがあるらしい。

まずは、「予言」から確認していこう。

予言(よげん、英: prediction)とは、ある物事についてその実現に先立ち「あらかじめ言明すること」である。神秘的現象としての「予言」は、その中でも合理的には説明することのできない推論の方法によって未来の事象を語ることを指し、占星術やチャネリングと同じく疑似科学の領域の話題として扱われることが多い。未来の事象を扱う場合でも、自然科学や社会科学のモデルに則り、合理的な説明が可能なものは、神秘的な意味での予言とは扱われない。例として、人間の身近な物体の運動、天気予報、人口推計などが挙げられる。漢語としての「預言」と「予言」は本来同義である。一方、啓示宗教における預言と予言・予測は本来的に異なる概念である[1]。また、預言や神託には、未来を語ったものも含まれており、その部分は予言でもある[1]。本項では主に神秘的現象としての予言を取り扱い、対比として部分的に自然科学における未解明問題に対する予想に「予言」という語を充てる例を取り上げる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

次に、「預言」だ。ちなみに、ウィキペディアには、「預言」という言葉で検索すると、自動的に「預言者」に転送された。

預言者(よげんしゃ、英語: prophet)とは、「自己の思想やおもわくによらず、霊感により啓示された神意(託宣)を伝達し、あるいは解釈して神と人とを仲介する者。祭司が預言者となる場合もあり、しばしば共同体の指導的役割を果す。」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

まあ、ということで、概ね、予言をする人のことを預言者、と呼ぶことのようだ。日本語って難しい。まあ、広辞苑とかでは、もしかしたらもっと厳密な定義がなされているのかもしれない。その辺は、言語学者にお任せしよう。私がやりたかったのは、曖昧さを無くすということだけだ。

さて、ここで地震のことに話を戻そう。

この話は、そこそこ前からニュースになっていたが、ずっと継続的に異臭が発生していたとは知らなかった。実際、地震が発生する前には、こういった異臭が発生するらしい。そう考えると、危険なシグナルであることには変わりがない。

でも、こうした危険を知らせるnoteを書いてきてはいるが、昨日、私の友人たちとも話していたが、彼女曰く「何も来ないと思うよ」とのことだった。彼女は預言者ではないが、スピリチュアル的なお仕事をしている。しかも、とても知性を感じる、数少ない友人である。その彼女が「何も来ない」と感じている。これは、貴重な意見である。

では、私個人としてはどうかというと、80%くらいの確率で、「何かが来る」と感じてはいる。9月26日の、時間的には、夜の22時から23時の間だ。ここで来なければ、あとはその力が分散して小出しにされていくであろうと思われる。

その、力が分散されるというのは、いわゆる「地殻の歪み」が「溜め込んだ力」のことである。でも、どんなにその力が噴出したとしても、富士山が噴火するようなことはないと感じている。なぜなら、富士山直下のマグマは比較的落ち着いている感じがするからだ。これは、私の感じた「感覚」によるものなので、検証の仕様もない。

でも、本当に、何も来ないで欲しいという想いがある。実際には、今までにこのような情報は、できる限り誰にも言わない主義だ。というのは、そもそも、こういった予言というものは、概ね当たらないものだし、当たらないで欲しいものだからだ。

ただ今回は、事が大ごとなだけに、『私が今大事に思っている数人』には、このことをちゃんと伝えることにした。

せめて、その人たちだけでも護って欲しいと天に祈るというのは、わがままであろうか?私の欲であろうか?でも、誰でも、大事に想う人がいなくなるのは、耐えられないものだ。こればかりは、どうしようもない。

でも、「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」という、方丈記の書き出しがある。あんな境地に至ることができるのは、いつのことであろうか?こればかりは予言不可能である。

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