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16:59

いつのまにか7月も4日目を迎え、日曜日もあと数時間で終わる。
仕事をした方がいいよなあ、と思いながらも仕事用のPCは金曜の夜に閉じてから一度も開かなかった。

そうかといって何をしたというわけでもなく、ぼーっとしていたらこの時間。さっき時計を見たら16:59だったのを覚えている。「色濃く」と、とっさに語呂合わせをしたから。

なんでそんなことをしたのかはわからないけど、「色濃く」という言葉が出てきたのはおそらく、その直前まで『響-HIBIKI-』という映画を観ていたからだと思う。

15歳の天才(と周りから認められる)文学少女、響が自分の価値観を一切曲げず、日々の生活も文壇のなかでも自由に生きる姿が描かれている。その行動原理はシンプルで、危険回避、衝動や価値観、社会性(大切な人を想う気持ち)のバランスがその時々でどちらかに振り切れている。

言葉の綾なんてものは通用せずに、言われたことをそのまま受け取り、自分の身に危険が及びそうな発言などをされたら、防御として暴力での先制攻撃も辞さないし、大切だと思う人が傷つけられていると感じるや、周囲の状況も自分の立場も関係なく派手に動く。周りを振り回していても、自分の価値観を曲げることはない。

暴力自体はまったく肯定するつもりはないけれど、場面ごとにどこかスカッとした気持ちがあった。生き方として羨ましかったのかもしれない。
実際には社会不適合者に分類されるだろうし、迷惑がる人間もたくさんいるだろうけれど。

この作品は、誰もが認める圧倒的な才能を持つもの、どれだけ努力をしてもそこにたどり着けないもの、人間の強さ、弱さ、葛藤、嫉妬、自己肯定、自己否定、承認欲求、同調圧力、常識、普通、受売りの否定など、いろいろと詰まっていて、ありえねぇだろ……と思いつつも、何かしら考えさせられた。

天才なら何をしてもいいのか、という話ではない。社会で生きる上では、他者との比較があって優劣が決まるし、競争原理があるからより良いものが生み出されたり、淘汰されたりする。ただ、目に見える自分への評価は他者がするものであって、自分もそちら側に回ると自分を守る術がなくなる。

そして、自分の軸がブレてくるのだろう。いつのまにかブレまくって歪みまくって元に戻せない状態になる。自分の好きなように生きるのと、自分の価値観を信じて生きるのとでは、進む道が違うのかもしれない。
いや、まだこのあたりがきちんと整理できていないな。

とまあ、映画を観てそんなことを思ったり考えたりしているときに、時計を見たら16:59だったので「色濃く」という言葉が無意識で浮かんだのだろう。たぶん。

同調圧力や集団心理が働くなかで、自分の価値観を貫き通すのが難しいことは暗黙知的に理解している。よほど強い精神を持っているか鈍感か、はたまたスリルが好きな人くらいでないと、なかなかできないとは思うけれど、そこに自己肯定、自己否定を結びつけてしまうと、相当にしんどい思いをする。

他者に依存して自分の良し悪しを決めると、できて褒められたから、賞賛されたから自分はすごい、できなくて怒られた、文句を言われたから自分はダメ、という評価基準が自分のなかにできてしまう。
自分が納得しているかどうか、そのあたりを意識して心の声に耳を傾けて日々の生活を営んでみようかと、あらためて思った。

とりあえず夜ご飯の時間。

あとで詩でも書きたい。そんな気がしないでもない。

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