自動書記のようなもの

部屋の蛍光灯を消してベッド脇の間接照明をつけた。
既にベッドに潜り込んで、いつ来るともわからない睡魔を待ちながらこれを書いている。

何を書きたいわけでも、声を大にして伝えたい何かがあるわけでもない。
ただ、文字を打つという行為をしたいだけ。
これも一種の活字中毒の亜種みたいなものだろうか。
デジタルだけど。

そんなどうでもいいことをカタカタとベッドに寝そべって打っているのだ。
月曜の21時前にテレビも蛍光灯も決して、静かで少しだけ明るさが残る部屋に一人。
一番明るいのが目の前のPCから発せられる光というのも何か違うような気もする。

詩を書きたいと思うこともあればエッセイ風に思ったことを書きたい時もあるけど、たまにこうして何も有益な情報を持たない駄文のようなものを書きたくなる時がある。
たぶん、まだ出し切れていないと思っているのかもしれない。
何を考え、誰を想い、何を感じて一日を過ごしたのか。そんなことを頭の中からいったん出して、整理してまた仕舞うということがしたいんだと思う。

つい最近まで数年に渡って感情が薄かった。ペラペラで透けて見えるくらい薄くて薄くて、誰かに何かを言われても、されてもダメージというダメージはほぼなかった。
でも今は感情が豊かすぎるくらい豊かだ。救世主のような人が現れたから、一気に感情が戻った。
感情があるということは辛いことや苦しいこと、悲しいことを倍増させる。
もちろん、嬉しいこと、楽しいこと、幸せだと感じることに対しても同じように働く。

人間はどちらかというと負の方に引っ張られやすい。
だから、感情は時に本当に邪魔なのだ。おそらくそれもあって、防衛本能の一環で感情をペラペラにしたのかもしれない。
めちゃくちゃ楽だった。ただし、その代わり、別にたいして楽しいとも感じない。
とても省エネだけど、照らす範囲が限定的になりすぎて、見えないところには注意も払わないし、興味も持たない。そんな感じ。

感情が豊かに戻ってきて何を思ったか。

「愛って大事やん」

負じゃなかった。

ペラペラの時に負を流すスキルを体得していたようで、蘇った感情は負に振り回される仕様にはならなかった模様。
なんか得した気分。とはいえ、やはり多少落ち込むことや悲しく感じることはある。
それでも復活が早い早い。
次の手を考える方がはるかに大切だと切り替えて、物事を良い方に進めるために何ができるかという思考や行動にエネルギーを注ぎこめるようになった。

今は救世主のピンチを救うためにあれこれ考えてる。
自分しかできないと信じて。
そういうところを考えると、自分を信じるという気持ちも強くなった。過信するということではなく。

感情をエネルギーに変換する方法を身につけたのかもしれない。
どうやったらそうなるんですか?と聞かれてもわからないとして答えられないけど。

何も考えないで書き始めるとやっぱり長くなる。
そして、着地点がこれでいいのかわからない。

いいか。

そう、ある程度、適当にもなれたのだ。それくらいがちょうどいい。

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