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文章を「読む」ということを考える

最近、思うことがあるから書いていく。

…ま、そんなこと前置きに書かなくても、書きたいから書いているのだけど。

もうすぐワードプレスでブログを開設して一年。(noteのみなさん、おはこんばんちは!私のブログは「hachiko85ライフ」と言うタイトルで、アドレスはhttps://hachiko85.com/です。noteとほぼ同じテンションで書いています!突然の宣伝w)

「文章」について考えている。

私が書きたい文章って何だろう、もっとうまく書きたい、と常々思っている。

私が思う「文章を書く」とはどういうことなのか、その答えは喉の奥まで出ているのに、明白に分からなくて、歯がゆい。とりあえずは、好きなように書いたらそれでいいんじゃないか、と今は思っている。

自分の心の中にあるものを吐き出してしまった瞬間から、言葉に責任が生じる。言葉は思い、重い。

書くということは考えれば考えるほど、難しい。

で、「文章を書くこと」と相対的に「文章を読むこと」があって、「私が読みたい文章」は何だろうとそれも最近、熟考している。

「書くこと」と「読むこと」は、また似てるようで違うと思っている。

ご存知の通り(?)、私はブログをほとんど趣味の範疇で書いていて、いかにもなセールスライティングな文章はやりたくない。
(まぁ、そうは言ってもアフェリエイトなる広告も記事に貼ってるよ、お金大好き、お金持ちになりたい…あははははは)

で、そんなことを考えながらも、時間があるときに誰かが書いた本やブログを読んでいるのだけど、「私が読みたい文章」がなんとなく分かった。

それは、私をどこかへ連れて行ってくれる文章なんだとさっき気がついた。

それは5分前の出来事。
できたてホヤホヤの考え。

三浦しをんさんのエッセイを読んで気づいたのである。
三浦しをんさんの最新エッセイ『好きになってしまいました』のp194 「穴に落ちる」の章の一文。

「私は、読書をはじめとする、今まで好きになったすべてのものや人を通して、他者を知ったし、自分自身を知ることができた。これからも知り続けたらいいなと思っている」(p197より引用)

エッセイと小説も、似て非なるものである。

小説の、まるでジェットコースターみたいに上がったり下がったり、クッッッソ、ああこんな結末かよ!(←最大級の褒め言葉)ってよい意味で裏切られた文章も、もちろん好き。
巧みな叙述トリックが使われた日には、たまらない。

エッセイは書き手が実際に体験したことだから、そのままストレートにガツーンと心に入ってくる。
取り繕ったものじゃない、本音の文章。

書き手が読み手を連れ出してくれる。
文章の中から手を引っ張ってくれて、読者はその中にスルリと入り込む。
私を掴んで離さない文章。

文章を読むとは、旅行と似ている。
文章を読むとは、知らないことを知れること。
新たな発見、気づきが得られること。

私はあなたじゃないけれど、
あなたの立場や性格なら、こうするのだろうと疑似体験…追体験ができる。
それがとてもおもしろい。

自分が書いた文章ならば、次の文章の展開が分かるけれど、他人が書いた文章は想像できない。

素敵な文章を書く人が羨ましい。

自分の心の赴くままに、自由自在に言葉を操れたら気持ちがよいのだろうなぁ。

私の拙い文章を読んでいただき、ありがとうございます。
今日は流れる季節の真ん中の3月9日。
最後まで読んでくれてサンキュー(39)

…と、ここまで書いて子ども寝かしつけしてたら、私も寝てた!
3月10日になっちゃったわ…

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