見出し画像

「コンビニ」 けっち

画像1

Photo by NeONBRAND on Unsplash

その町がどんなに田舎であるかをたとえるときに、「ちかくに公衆電話ボックスもない」と言っていたような気がしますが、今では公衆電話も電話ボックスもまったく見かけなくなりました。むしろ「え、この町、電話ボックスがあるよ」なんて田舎の象徴のように見られるようになった公衆電話ボックス。

では、今は田舎であるかをたとえるときに何をもちいるか。「コンビニもないような町」ではないかと思うんです。それくらい「コンビニ」はどこにでも、どんな町でも、どんな村にでも当然のようにある施設として、日本中に知られています。

電話ボックスや公衆電話がなぜ日本のあちこちにあったか……それは、誰もが10円玉ひとつもっていれば日本のあちこちの場所ですぐにどこかにつながることができるライフライン、という目的もあって、当時は公衆電話にみんなが助かっていたと思うのですが、コンビニもそれと同じですね。どんな場所にいても、日本で発売される最新のお菓子やジュース、ビールが飲める……ということで、今は「コンビニ」があるおかげで、都会と田舎の情報格差が縮まっている。

もちろん、インターネットの広がりこそが都市と地方にあった情報についての格差を圧倒的に縮めたにちがいありませんが、インターネットで見る二次元情報とちがって、コンビニにならんでいる商品を手にとることは「体験」です。昔の若い人が「村をでて東京へいくんだ」という、闇から光を求めて旅にでるような感覚は今では薄れてしまって、意外に「村のほうが東京よりいい」と東京に行ったことがなくても自分の村を選ぶような、そんな若い人も最近は多いとききます。そこにはコンビニを知ることでどこか都会的なものへの渇望を満たしているからともいえると思います。

誰にでも行けて、どこにでもあって、いつでも開いている。だからこそコンビニはデパートやブランドショップ、老舗の銘店にくらべるとずっと軽んじられた扱いをうけ、コンビニの店員、といえばどこか誰でもできる仕事、のように言われることも多いですが、それはどの町どの村にもたくさんあるからこそ、そんな風に錯覚しているだけで、実はコンビニというシステムはカフェに革命をおこしたStarbucks以上に、洗練された流行をうみだす最先端のカッコいい場所にちがいないと僕は思っています。

しかし、電話がいつのまにか一家に一台が1人1台になって、公衆電話も電話ボックスも、あれだけみんなが日本中で利用していたものが一斉に撤去されていったように、コンビニという現代最高のシステムも、文明のさらなる発展の段階ではトタンに消えてしまって、もはや家から外へ買い物にいくスタイルそのものが見直されてしまう時代がやってくるかもしれません。そうしたとき、どの町、どの村にもまったく同じようなコンビニがあって、不安な一人旅の途中や、真夜中の帰宅中にみかけたコンビニの灯にホッとした体験はノスタルジーとして、公衆電話について語るときのような懐かしさをともなうものになるのかもしれません。今日もありがとうございます。

この記事が参加している募集

私のイチオシ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?