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『理解の不可逆性〜上手い教え方とは〜』

例えば指導経験のある方なら
御理解が叶うと思うが
此方が教えた通り100%
相手が実行する事はあり得ない。

逆を言えば完全copyで
此方の教える通りに
寸分違わず実行する事に
余り意味はない。

其は教える側と教わる側の
刺激の送受信に依るからである。

教える側の刺激値を
仮に10としてみよう。

教わる側が刺激値を
10受けとれば無問題。

然れど10をそのまま受けとる事はない。
何故ならその数値には幅があるから。

平面的に捉えればそのまま伝わる。
立方的に捉えればそのまま伝わらず。

其は空間的容量が人により異なるから。
その空間的容量の差は生活環境の差である。

生活環境が違えば受ける五感情報が違う。
受ける五感情報が違えば与える五感情報も違う。

与える五感情報が違えば受ける五感情報も違う。
故に教える側と教わる側の完全理解はあり得ない。

ならばどうするか?
教える側の理解を教わる側の理解に
変える事によりその間にある共通認識の量を
増やしていけばよいのである。

相手の言葉を自らの言葉に置き換える。
自らの言葉を相手の言葉に置き換える。

その置き換え作業が理解の差となる。

私が集団学習否定派である
一番の理由はこの理解に於ける
相互の形の違いにある。

最初は個別に教え、
徐々に共通認識を増やしていけば
それを集団的理解に繋げていける。

我が生徒や同胞は異口同音にこう述べる。

『先生は教え方が上手い』と。
だが残念ながら彼ら彼女らの認識は誤り。

私の教え方は決して上手い方ではない。
私の教え方が上手いと思えるのは
言葉の変換率が他の教える人よりも高いからである。

私は私の学びを相手の使う言葉で説明する。
相手は私の言葉の変換作業を必要としない。

変換作業を必要としない分理解力に使える。
それが私が教え上手だと思える理由である。

決して私の教え方が上手いのではない。
更に言えば私は私の理解を相手に求めない。

つまり相手の理解を私の理解とする。
すると相手は私の理解を理解しようとする。

それが更に理解力を増す力となる。

表題にもある通り理解は不可逆性である。
つまり理解は元には戻せない存在である。
元に戻せないなら先へ進ませるしかない。

つまり己の理解を相手の理解へと
進める以外に方策がないのである。

無理に己の理解を相手に求めると
相手は理解する事自体を拒絶するようになる。

これが勉強嫌いのメカニズムである。

昨今の『教員』はこれを多用する故に
生徒の理解を得られない。

昔の『教師』はこれを多用せず
己の理解を相手に求めず
相手の理解を己の理解とする事により
多くの生徒の理解を得られた。

真に学びを与えたいと思うのであるならば、
己の理解を相手に求めず相手の理解を
己の理解とする事だと私は考える。

私は必ず学びを与えた後に
その者の理解を言葉にする事を
求めるようにしている。

私の学びを貴方の言葉で説明しなさいと。
すると生徒は考えを巡らせ自分の言葉で
私に私の学びを説明してくる。

勿論その中には誤解や誤認も存在する。
だが此方の意図する根本を理解していれば
私はそれ以上の理解を求めない。

すると相手はもっと理解を求めてくる。
そのように理解しようと思わせる事が大事。

30年以上多くの方々に
学びを与え続けた私の
それが真実である。

これからも私は私の言葉を
相手の言葉に変換し、相手の理解を
最優先として此方の理解の押し付けは
しないように努力をしていく。

それが教える立場にある物の責務と考える。 

サポート頂いた方の思いを私なりに形にし世界へ発信していきたいと考えています。人は思いによって生かされている事を世界へ発進する為の資金に使わせて頂きます。