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確率と創造と絵について(自然なオリジナリティーと順位、人による価値と人ではないものによる価値)

絵を描く時、僕は無意識を使って描く。無意識とは何かと問われても、それが何か上手く説明できない為、実際には何も考えないで描くと言った方が簡単かもしれない。けれど、何も考えないで描くことをしたいから絵を描くというよりも、何も考えずに描いている途中に、何かがあることに気づくというプロセスに意味を感じるから描いている理由の方が正しいので、その何かを無意識と表現している。

2016年から独学で絵を描いているが、一貫して無意識と意識を使うというプロセスで描いている。つまり、無意識の中にあるものを意識の中にあるものにしたいという内的衝動に動かされる理由から、言葉になる前の状態で絵を描き始める。そうすることによって、目の前に現れる形は、一見無意味なものなのだが、それを自身の意識の目という記憶や感覚のような独自の視点を使い検証することにより、そこに意味を見出だすことができる。実際には見出だすというよりもふと気づくという感覚かもしれない。

自分の意識に相応しているが、自分の思考では達することのできない意味とは、気づきのようなもので、具体的なものを創造したい意欲とはまた違う感覚だと思う。それは、見えない何かがあることを感じたい衝動なのかもしれない。そうすることで得られるものは、安心や喜びであり、物事にある必然性の部分で、そのために意識的ではなく偶然性を重視して描くのかもしれない。

偶然性と必然性を考える時、僕が絵を描く感じを説明するのに、確率について考えてみるとわかりやすいと思った。数字選択式宝くじの抽選機が行っている作業は、僕が絵を描く作業をシンプルにしたものだと思う。数字選択式宝くじにおける、数十ある数字の中から数個の数字を選ぶ作業とは、どうなるかわからない状態、まだ無い状態があり、そこに確率という可能性がある。意識的ではなくランダム性により選択をすることで、ただ一つの形が現れる。その並びはいくらかの確率で偶然現れたものなのか、必然的に現れたものなのかを考える時に、偶然だと答えるのはそこに意味を見出だせない場合だ。

だが、現れた並びは必ず一通りであり、他の可能性が現れたかもしれないかどうかを検証することができないので、現れたものがあらかじめ決まっていた必然でないとは言い切れない観点から、偶然と必然というのは、いつも裏表でどちらとも言えるものだろう。

数字選択式宝くじの抽選機に意識があるならば、その形や数字の書かれたボールの並び、回転による法則性とか他にも色んなことを感じて、現れる数字の並びに何かしらの意味や必然性を見出だしているのかもしれない。抽選機が数十の数字の中から数個の数字を選び並べる作品を創造するものだとするならば、僕の絵の描き方はその延長線上にあるだろう。

無意識によって絵を描くという行為が、シンプルに考えると確率によって創造されるという一面だけを見たとしても、そこに必然性を感じる意識がなければ絵は完成しない。アウトサイダーアートが人の目を気にせず自分の為に描かれた作品だと言われる所以はそこにあるのかもしれない。僕が描いた絵を見て、まるで数字選択式宝くじの抽選機が選んだ数字の並びのように無意味に見える人が多数いるのは当然のことで、もしも他人からの評価を求めるなら、人にとって有益なものを作らなければならない。

以前、SEO対策についての本を読んだことがある。自身のウェブサイトを検索上位に表示するかどうかは、AIが判断しているらしい。審査の基準は人にとっての有益性と独自性だった。有益性とは売れているものを見ればわかる通り便利なサービスであることで、独自性とは他のコピーでないことだった。つまり、SEO対策とは既に検索上位にあるサイトを模倣しつつ独自性を保つ競争らしい。

そうであるなら、検索上位に表示される為に競争を繰り広げているサイトは皆似ているのではないだろうか。そして人目につかないものほど似ていないのではないだろうか。似ていないということは、有益性はないが独自性はあるのかもしれない。一般的に言われる独自性とは、有益性と独自性をどちらも備えているものを言っている気がする。つまり人は有益性を評価し、有益性の無い無意味なものを評価するのは、人ではないのかもしれない。

目の前に美味しい料理があったとして、その横にそれをコピーした美味しい料理があったとして、その横に変なまずい料理があったとして、それらに順位をつけるなら、人は一位と二位を美味しい料理にするだろう。二位を変なまずい料理にするためには、人にはない価値基準が必要なのだ。アウトサイダーアートにある独自性には、そのような特性が少なからずある。無意識と意識を使い、無意味なものから意味あるものが現れるという創造を通して、目に見えない実在を感じること。そうやって描いた僕の絵は、多くの人にとっては無意味で自然なオリジナリティーとして存在している。

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