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大人の「挨拶」キャンペーン中

ここ一年くらいよく通る道で、朝に街をお掃除している年配の男性と、立ち話をする関係になった。

最初はなんとなくお互いに、ぺこっと会釈するだけだったけど、いつからか言葉を交わすようになり、今は、遠くからその人を見つけると手をぶんぶん振りながら私から小走りで近づいていく。向こうも、頭の上で大きく手を振りながら、私を迎えてくれる。

時間にして1分程度の、なんでもない世間話もする。今朝は「息子が『ブッブー』って言えるようになりました」と報告した。「すごいねえ」と目を細めて、息子に「お散歩、いってらっしゃい」と手を振ってくれて、私と息子も振り返す。それだけのことが、私の今朝のハイライトだ。

名前も知らないその人に会うと「今日は会えた日」だし、その人のシフトの関係で会えないと「次会えるのはいつかなぁ…」と少し寂しくなる。

友人でもなんでもないけど、気づけば友人よりも顔を合わせているし、いつのまにか、私の代わり映えのない毎日の重要登場人物になっている。

これからも深く話す機会はないだろうけど、たった一言の「おはよう」があるかないかで、私のその日の気分はまるで変わる。「挨拶」をする相手がいると、心にホッカイロを貰ったみたいに、じわじわとずっと温かい。

もしもその方とじっくり話す機会があれば、価値観はまるで違うと思う。これは私の勝手な偏見だけど、「事実婚」とか「ネットで稼ぐ」とか、そういう私の属性とは遠いところにいる方な気がする。ただ、そういうのにアレルギーがあっても、最初に私の人となりを知っているから、いきなり攻撃はしないはずだ。私もその人の優しい部分を先に見ているから、何か言われたとしても言葉強く反論しないだろう。私はその人の、良い部分を知っている。笑顔を見ている。それが何より大事だ。

その人には、挨拶をし合うだけで近づいていく距離や、生まれる人間関係があるのだと、教えて貰った気がする。

親や学校に「挨拶は大事」と教えられていたけれどなるほど、この年になって「親や学校は、案外大切なことを教えてくれていたんだな…」と噛み締めている。

SNSで、穏やかではない議論を見かけると、「最初に挨拶が無い会話」の暴力性について考えてしまう。言葉で殴り合うような会話になっていく原因はそれだけだはないと思うけど、意外と重要なことのようにも思う。

挨拶をする、というのは敵ではないことと対話をする姿勢の現れだ。

挨拶をするだけで生まれる関係と、挨拶をしないだけで失われる関係がある。このことを、心に留めておきたい。

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