見出し画像

FACE/OFF

〜はじめに〜

 また陰謀論がちらほら出てきているみたいですが、流布している人たちでもいるんでしょうかね。← これも陰謀論ですから、陰謀論は必ず”無限ループ”する構造になっているのです。
 私は陰謀論は99%が”自分自身の無意識の行動”だと考えていますけどね。残りの1%がジャニーズの問題とか身内で売上とかです。これらは現実にあったことなので、陰謀論はまったくないわけではないみたいです。

 そして陰謀論に付き物なのが”怪しい集団”です。アメリカではディープステートなどがそう言われますが、本当にいるのかどうかは知りません。私が知っている限り世界最古の”怪しい集団”は三平方の定理で有名なピタゴラスの学派です。実は古代ギリシャにおいて、ピタゴラス学派は”怪しい集団”だと見做されていたのです。

 これは当時の学問が『思弁』を軸にしたものであり、現代の科学のように実験や実証を重視しなかったこともあるでしょう。頭の中で理性だけで考えたものを学問として扱っていたのです。アリストテレスの四元素説なんかは科学的ではなく思弁的ですね。
 思弁的 - 実験・実証は不要… 古代ギリシャ・中世
 科学的 - 実験・実証が必要… 近代・現代
です。
 一時期ヨーロッパからアラビア地方に疎開(?)していた学問が、中世になってヨーロッパ全土で復興しました。8世紀ごろに起きたカロリング・ルネサンスは古代ギリシャの思弁的なものをそのまま受け継いだのです。これは頭の中だけで考えた
ものですから理論をこねくり回しているだけだったり、幻影・虚妄もありました。

(幻影・虚妄を、専門用語で『イドラ』って言うで)

 この幻影は、現代の陰謀論を生み出す考え方と同じですね。頭の中だけで考えることは実験や実証を必要としないので、推論的な演繹法になります。
「ここから推理される次の事柄はなんだ?」
ってことを繰り返すので、空想や妄想にまで至ってしまうのですよ。この推理には物証なんかは必要ありません。とにかく言葉だけで齟齬や矛盾なく説明できていればそれで良いのです。なんか現代の”会社の会議”を連想しますね。

 そのことを痛烈に批判したのが17世紀の『ノヴム・オルガヌム』を書いた哲学者フランシス・ベーコンです。ベーコンは当時の市民や支配階級が学んでいた”自由学芸”(= 学問)を、
「なんの役にも立たない」
と批判し、職人や奴隷の”機械技術”を絶賛した人です。批判の対象はアリストテレスをはじめ、ピタゴラスやプラトンにまで「迷信だ」とまで言っています。

(イドラには)最大の用心がなされねばならない。というのも、誤謬の「神格化」は最悪のことであり、もしも虚影に崇拝が加わるなら、知性の疫病と見なされねばならないからである。

『ノヴム・オルガヌム』 フランシス・ベーコン

 なんか陰謀論者に向けて言っているかのようですね。空想や妄想に至るという点において、当時の自由学芸と現代の陰謀論は”同じ”と言えます。
 近代の科学的視点から見て、中世に復興したルネサンスは科学的ではなかったので、このような批判が起こったのも無理はないでしょう。ちなみにベーコンより3歳年下であるガリレオが、初めて学問に実験・実証を取り入れて現代にまで続く科学の始まりとなりました。

 さて、それでは現代を覆う幻影、イドラの霧を晴らしていきましょう。






【 übertragen(ユーバートラーゲン)】
別のものを立てる、翻訳する、転移する、取り替える。

Fourplay - That's the Time


君が君自身であり続けたいのなら、君は変化しなければならない。しかし君は変化することを恐れた。

哲学者 ジャン = ポール・サルトル


構造主義

 社会の『構造』に何か悪いものが入り込んでいる、あるいは構造”そのもの”が悪いのではないかと考えました。そこで哲学の構造主義を調べてみたのですが、おもしろいことが判ってきたのです。
 構造主義を”思考”と”心理”の2つに大別して、それぞれを見ていきましょう。


思考1. レヴィ=ストロース『野生の思考』

用語の抽象性の差異は知的能力によるのではなく、個々の社会が世界に対して抱く関心の深さや細かさはそれぞれ違うということによるのである。

人類学者 レヴィ=ストロース

 人類学者のレヴィ= ストロースは”未開人の思考”と”文明人の思考”を比べてみて、発達段階の差ではなく”別の思考”だから、優劣を決めることはできないと言いました。両者の差異の原因を、
 ❌ 知的能力による
 ⭕️ 関心の深さや細かさによる
としたのです。未開人と文明人の両者を、
 👫 未開人 = プロレタリア = 機械技術 = 実践 = ソクラテス = 師匠
 📚 文明人 = ブルジョワ = 自由学芸 = 学問 = プラトン = 弟子
 こう置き換えてもいいかもしれませんね。両者は”別の思考”です。

 ストロースが厳にいさめようとしたことは、人は自分だけが”客観性”を持って世界を見ていて、他人は”主観的”に歪められた世界を見ていると思い”見下している”ことです。要は、
「俺は客観的に見てるけど、あいつらは自己中でダメだね」
と言っているけど、そう言っているあなた自身も大して変わらないよね ってことですね。

《サルトル vs カミュ》
 冒頭のサルトルの言葉は盟友アルベール・カミュに向けての言葉でした。世界の情勢が変わっているのに立場を変えなかったカミュに対して、それを批判したのです。サルトルは”間違い”を極端に嫌う性格だったので、時代が変わり正解が変われば立場を変えて間違わないようにするべきだということです。サルトルは、自分では時代の流れを”神の視点(= 歴史)”から見ているつもりだったのでしょう。しかし、今度はそれをストロースに批判されます。

 ストロースによれば、サルトルが使っている物差し(= 歴史 = 神の視点)は閉じられた狭い社会のものだから、その物差しは歴史(神の視点)なんて大きなものではない、だから偉そうに判定するなと言って、サルトルの主張を粉微塵にしました。
「あなた(サルトル)こそ客観的に見れていないじゃないか」 = あなた自身も大して変わらない ってことです。

 これから判ることは、主観や客観なんてものは立場が変わればまったく”逆”になるから、自分だけの物差しで測る = 見る ことは危険だということです。視点は1つではなく複数必要なのです。

《往還機能》
 ストロースは人間社会を観察することで”往還”という機能を発見しました。往還とは”贈り物”と”お返し”を循環させることです。これには主に2つの効果があります。往還によって、

1. 同一状態を保てない振り子のように絶えず変化し続ける
 ”変化”は、
  A. 新しい状態を作り出す(=創発)
  B. いくつかの状態がぐるぐる循環する(=無限ループ)
と、どちらも『変化』という。変化を起こすのは、財貨・言語・親族の3つの交換による。そして交換は『他者』= ”他人”であって”身内”ではない。だから必ず贈る相手は”ずれて”いく。

2. 自分が欲しいものは他者から与えてもらうしかない。
 欲しいものがあるなら、自分から与え”始め”て往還機能を起動させること
  💴. 財貨(経済活動)... 作って売る(与える)→ 対価を得る(与えられる)
    ➡︎お金が欲しいなら他人の欲しいものを作って、それを売ることでお金を手に入れる。
  🗒. 言語(人間関係)... 感謝/文句を伝える(与える)→感謝/文句を受け取る(与えられる)
    ➡︎感謝が欲しいなら他人に感謝を伝えることで、巡り巡って自分に感謝が回ってくる。
  👨‍👩‍👧‍👦. 親族(血縁関係)
    ❌ A → B → A → B → A →…. 二者間
    ⭕️ A → B → C → D → E →…. 他者間
 これは『近親相姦の禁止』です。
 AからBに”娘”を嫁として贈った場合、その時点でAとBは”身内”になるので、BはAに返礼として娘を贈ることはできず、血縁関係にはないCに贈るしかないのです。それ以降も同様ですね。

 1・2 をやらない社会は人々が利己的な考えばかりになって、いろんなものを独占します。すると、往還機能が発動せず社会が静止するので、その社会は滅亡してしまったようです。いったいどこの国のことを言っているんだって話ですね。『金は天下の回りもの』『情けは人のためならず』とはよく言ったものです。
 他者から与えてもらうしかないことは『献上』と『強奪』も同じことですよ。自分では手に入れられないことに変わりはないので。

 ちなみに日本で初めて自分から他人に与え”始めた”のは『天皇』です。遥か昔の国の創生期のことですが、自分の娘を他の地域に嫁がせました。これにより日本の往還機能が発動したのです。

思考2. カール・マルクス『階級意識』

 マルクス主義のカール・マルクスは、人々に”階級意識”があり、自分が属する階級によってものの見方が変わってくると述べています。未開人と文明人ではものの見方が違うことのようにです。マルクスは、人間の個性は”何ものであるか”ではなく”何ごとをなすか”によって決まると主張しました。”存在”ではなく”行動”によって決まると言い換えられますね。人間は静止しているだけでは堕落し、禽獣と成り果ててしまうってことであり、ヘーゲルの思想を受け継いでいるのですよ。

 そのヘーゲルは、人間は自身が”作り出したもの”によって自己を形成していくと言っています。日本でこれをしているのは『職人』ですね。いろんなものを自分で作るのですから。人間の”自己意識”は自分が作ったものによってのみ、行動・労働によってのみ形作られていくのです。”自己意識”とは、心理学でいうところの『メタ認知』です。自分自身を客観的視点から捉えること、俯瞰して見ることです。職人にとっては自分が作ったもの = 自分自身 なので、それを見ているとき、自分を俯瞰している = メタ認知していると言えるのです。

 構造主義と対立した実存主義はハイデガー、キルケゴール 、ニーチェらの思想です。2つの思想は最終的に対立しましたが、最初は足並みを揃えていました。というのも、実存主義の”実存”とは自分の外にあるもの = 自分が作ったもの との意味であり、自分が作ったものが自分を形成するという考え方はヘーゲルやマルクスの主張と同じですからね。

心理1. ジャック・ラカン『正と歪』

 ラカンによれば、人間は成長過程で”正と歪”を経験するそうです。

《鏡像段階》
 赤ちゃんは最初に”寸断された身体”と呼ばれる段階を経験します。これは、自分の身体の中に”運動のざわめき”はあるけど統一されておらず、自分と世界との間に不調和が生まれ、無力感や不快感を感じる原始的な心象であり、成熟したあとも残ります。赤ちゃんは脳と身体の2つがまだまだ上手く結合されていないので、動きたくても動けない、動きたくないのに動く、なんてことが起こるのです。
 赤ちゃんが泣き止まないときは大概3つの状態になっています。
  1. お腹が空いている
  2. 体が不快な状態...お漏らしをしている、外傷がある
  3. 眠たいのに身体が動く
 このどれかです。1と2はそのまま判ると思います。3が”寸断された身体”ですね。
 大人からすると3は「なんで大人しくして寝ないんだ?」となりますが、赤ちゃんは自分の意思とは関係なく身体が勝手に動くのです。自分では寝たいと思っているのに手足が勝手に動いてしまって眠れないから泣くのですよ。これが”寸断された身体”の段階です。
 そういえば、会社でも上層と現場が”寸断”されていると、上手く機能しませんね。

 そんな赤ちゃんがあるとき鏡を見て、統一的な視覚像として「これが自分なのか!」と気づくことが、『鏡像段階』です。そのときにやっと”自己”というものを確認するのです。が、これには1つ問題があって、その鏡に映っている姿は自分そのものではないってところです。自分ではないものを自分だと認識してしまうのですから、ある種の”狂気”を病むことにもなってしまうのです。

 周知の通り”鏡像”とは左右が反転していますから、その姿を自分だと認識してしまうことは、左右が反転した姿が自分だと認識してしまって、実像を認識しているわけではないですからね。実像を確かめたいなら証明写真を取ればいいのですよ。
 鏡像… 左右反転… 歪
 証明写真… 実像… 正
です。
 自分が見ているのもは実像か、それとも鏡像か… です。

《エディプス》
 これは父が子を無理やり母親から引き離すことで、近親相姦の禁止でもあります。現代の世の中には様々な”理不尽”がありますが、もしかしたら理不尽の正体が解るかもしれません。では、鬼と餓鬼、それぞれの主張を見てみましょう。

★子の視点
 子からすると、母親から引き離そうとする父が”鬼”に見えて理不尽極まりないことですが、これが世の中には理不尽があることを学ぶ第一歩になるのです。しかし、これは「理不尽なことをする人に恐怖を抱く」ようになる原因でもあります。子から見た父は鬼であり、理不尽さの象徴ですね。

で、次はこれを『逆』から見ます。

★父の視点
 父からするといつまでも母親にべったり甘えている子は
”餓鬼”に見えて理不尽な存在です。
だから引き離して大人にしなければなりません。
「理不尽なことはダメだ!」と教えているのです。
これは「理不尽なこととは戦え!」と、
父が”お手本”になっているとも言えますね。
父から見た子は餓鬼であり、理不尽さの徴候です。

 さて、理不尽の正体ですが、元々は”幼児性からの脱却”なのです。が、この脱却ができなかった人は大人になっても幼児性を引きづってしまい、他人に対して理不尽な振る舞いをしてしまうのです。他人にお母さん役をやらせるのですよ。これは”幼児性への執着”ですね。
 子からすると母親に甘えることは”真っ当な主張”なので、それを止める父に理不尽さを感じるのは当たり前なのです。しかし、父からするとそのままでは近親相姦に発展しかねないので、子がある段階まで成長すると母親に甘えることを止めさせようとするのです。
 その脱却が早すぎると『愛着障害』になります。脱却が、
  遅い... 近親相姦
  早い... 愛着障害
となって、どちらにせよ母親への依存(と支配)から抜け出せなくなってしまうのですよ。これが”幼児性への執着”です。

 いろいろ下に付け足していますが、参考までに。

心理2. ジークムント・フロイト『番人』

 人間には意識と無意識の2つがあり、その間には”番人”がいて、自分が気に入らないことは意識できないように検閲しています。これをフロイトは”抑圧”と呼びました。この番人がちょっと厄介で、人は自分ではそこに番人なんてものがいることを自覚できない上に、番人がどんな”基準”で検閲しているかも知らないのです。これは精神科医の診療を受けることでだんだん判ってくるものです。自分では自覚できません。

 番人による抑圧の問題は、それによって”構造的な無知”が発生し、真の意味での自由な思考ができなくなっていることです。無意識に”拒絶”している情報があるので必ず何かが”抜け”ている、だから”無知”になることは当然です。
 人間の思考には番人による抑圧で”縛り”があるのです。自分で自分を縛っているのですよ。小学校で習う”体育館座り”は、それを練習させるために導入したものです。

 抑圧というものがよく判る話が狂言の『ぶす』にあります。この話を要約すると、

【主人に「毒が入っている壺」と言われたけど、中身が砂糖だとわかった太郎と次郎がすべて舐めて空にしてしまう。それを誤魔化すために太郎は家財を壊し、
「二人で相撲を取っていたら家財を壊してしまったので、お詫びのために毒を舐めて死のうとしました」
と嘘をつく。
 もちろん主人はあっさり嘘を見抜いて追いかけ回しながら劇は終わる。】

 太郎が抑圧していたものは、
『”主人は自分のことを嘘つきだと知っている”ことを 知 ら な い こ と に し た
ってところです。無意識に抑圧し、自ら無知を作り出したところなのですよ。そうすることで自分にとって都合の良い展開を作れるからです。主人が、太郎のことを嘘つきだと知っているなんて現実を見たくない、認めたくなかったのです。

 他にもおもしろいなと思ったのは、ここには時系列の逆転 = 因果の逆転があることですね。
 順行... 壺を空にする → 家財を壊す … 実際に起こった現実
 逆行... 家財を壊す → 壺を空にする … 太郎に都合の良い現実

 番人による抑圧の機能は、会社なら現場と上層を遮断する中層が担います。すごく似ていますよね、構造が。遮断することは抑圧することと同義です。
 上層 - 意識/無意識
 中層 – 番人
 現場 – 無意識/意識
 個人の意識と違って会社組織であれば、意識と無意識はどちらか一方にあるのではなく、両者にあるとする方が自然でしょう。だから上層と現場の意識と無意識は入れ替えてもかまいません。見ているものが違うので。人間の意識と違って遮断さえしなければ簡単に解決できる問題も多いと思いますけどね。私は現場にいましたけど、いろんなことが”逆”になって伝わっていませんか?

 そういえば昔SNSで、いわゆる”バズる”ために『弱った猫を助けた画像』を上げる人たちがいました。その中に、本当にしていたかは知りませんが、時系列を逆にして写真を撮る手法がありました。普通に考えれば写真は、弱っている猫の姿から始まって、健康な姿で終わると考えます。「助ける」と言っているくらいですから、当然の思考の流れです。ところがそれは時系列を”逆”にして撮った写真なのです。つまり、健康な猫の写真から撮って、わざと弱らせていき写真を撮って、最後に写真を”逆”に並べるのです。そうすると、弱った猫が健康になった時系列にできるのです。

 順行… 健康な猫 → 弱った猫 … 実際に起こった現実
 逆行… 弱った猫 → 健康な猫 … SNSユーザーに都合の良い現実

 太郎がしたこととまったく同じですね。どうやら悪いことを考える人は時間を”逆”にする傾向があるようです。実に興味深いですね。
 SNSユーザーは”承認欲求”でしょう。自力でバズるものを作ることが難しいから、動物虐待までして注目を浴びようとしている。自分の能力の無さから目を逸らして現実逃避をしているのです。太郎が砂糖を舐めた卑しい自分から目を逸らしたようにです。さらに、
 1. 砂糖を舐めたことより、家財を壊した方が問題が大きくなるのに、やる。
 2. 自分の無能を認めず、動物虐待をする方が問題が大きくなるのに、やる。
と、どちらも問題をより大きくして、都合の悪い事実を隠蔽しようとしています。
 1. 小問題 = 砂糖を舐める → 大問題 = 家財を壊す
 2. 小問題 = 能力が低い → 大問題 = 動物虐待

 まとめると、
  α. 時系列を逆にする… 因果の逆転
  β. 未熟な自分を否認… 現実逃避
  γ. 問題をより大きくする… 事実の隠蔽

 両者の性格が歪んでいるのは、現実には嘘つきであり能力が低いのに、表面上は”良い子”や”能力の高い人”を装うことですね。太郎は家財を壊したので死のうとした”従順な僕”を装おうとし、SNSユーザーは猫を助けた”善良な市民”を装おうとしたところです。

 他にも、社会で「〜させていただきます」という言い方がありますよね。これがあんまり好きじゃないんですよね。理由は、なんとなくですけど、相手の”ために”ではなく、相手の”せいに”しているように感じるからです。主権は相手にあって、それに従っているだけですので、自分には何の責任もない と言っているように聞こえるのですよ。責任放棄に感じるので、自分ではあんまり使わないようにしています。
 とはいえ、使うときは使いますけどね、100回に1回くらいは。

 な〜んか、何かを”逆”にしようとしている言い方に感じるのは私だけでしょうか。

 ところで、少年革命家のゆたぼんがやっと目を覚ましました。この子がやっていたことは”自己愛性人格障害”の症状に似ていたので、目を覚まして一安心ですね。体裁は良い子でしたが、実際にやっていることは自分の欲を満たすだけの行動でしたからね。まだまだ若いのでいくらでもやり直すことができます。真っ当な大人になってください。



補足

幼児性の”反射”

 今まで『因果の逆転』について書いてきましたが、これはニーチェも言っていたようですね。人は原因と結果を取り違えると。
 会社にも”身勝手な上司”や”我儘な部下”がいて、この2つには共通項があることが判ります。どちらも幼児性に関わることで、両者ともに理不尽ですからね。問題なのは「どちらが幼児なのか?」、つまり”脱却”と”執着”のどちらをどちらがやっているのか、を見極めないといけないことです。

 幼児性からの脱却ができなかった人は、他人に”お母さん役”を求めますが、そのとき、必ず上から目線でやります。本来、お母さんの方が幼児より上に決まっていますが、ここでは幼児性のある方がお母さんより上だとして、お母さん役の人を支配/依存しようとします。これを『幼児性の反射』と言います。心理学の”自己投影”ですね。
 理不尽な要求をして、それに応えられないと、応えられないお母さん役の方に「能力が足りない!」と主張するのです。要は、
「お母さんを求める俺は絶対に正しい! 間違っているのはお前だ! お前に努力が足りないのがいけないんだ!! お前が俺のお母さん役をすることは当然であって、真っ当な主張なんだ!!!」
ってことです。
 幼児からするとお母さんを求めることは”真っ当な主張”でしたね。最近ではビッグモーターに喚き散らすマザコンがいましたけど、まさにあれです。キャンキャン!と犬のチワワみたいに吠えていたことを翻訳すれば、
お母さん!! おっぱいー!!!
ってことです。

 何年か前に電通で自殺した女性がいましたし、芸能界やいろんな会社でときどき自殺する人がいますが、それは『幼児性の反射』を受けてしまったことも原因の1つだと考えます。
 仕事って、あらゆる”イチャモン”がつけられるので、イチャモンをつけられた人は、つけた人のことを常に考えることになりますね。まるでお母さんが幼児のことを常に考えるかのようにです。イチャモンを、
 p. つけた人… 幼児
 q. つけられた人… お母さん
ってことです。
 子どもは反抗期くらいになるとお母さんに生意気な口を聞いたりしますよね。

『幼児性の反射』が起こっている場所は必ず衰退します。当たり前ですよね、幼児がお母さんより”上”の立場なのですから。本来の立場とは逆になるので”回転”も逆になるのです。繁栄の回転が逆になると、滅亡の回転になりました。
 ところで、構造主義を調べていて判ったことなのですが、精神分析にはコール&レスポンス、”理解”ではなく”返事”が必要だそうです。そういえば、いつ何時でも常に”返事”を求める人っていますよね。何でもかんでも”即レス”を求めるのです。お母さんを呼んだのに返事がないなんて、こんな理不尽なことはありませんから。
「仕事なんて”どうでもいい”からとにかく俺の相手をしろ!! 俺の俺の俺のバブー!!」

 自分よりも、下の立場の者 = 部下 に、上の役割 = お母さん をやらせる。

 これだけで組織は壊滅します。国でも同じです。最終的に子どもにお母さん役をやらせることになるので、会社なら潰れますし、国なら滅亡するでしょう。
 以前の記事で『滅びの因子』について2つ上げましたが、これが”第三の因子”です。

【滅びの因子】
 I. 階層性で上下に分け、知の分断を起こす
 II. 天才による極端な、全か無かの考え方
 III. 幼児性の反射により、立場が入れ替わる

同情の強制

 発達障害などの障害者への支援は前提として、ちょっと気になることがあります。見ている限り五体不満足の乙武さんは『幼児性の反射』をしているように見えますね。発言の内容がちょいちょい引っかかるんですよ。障害があることを非難しているわけではありませんし、私が直接話したわけでもなく、本人は自覚していないことかもしれません。人には”無意識”がありますからね。
 障害者が望むか望まないかは別として、人は彼らに『同情』することがあります。そういう心を持っていることが理性ある大人との風潮がありますよね。

 気になることというのは、これに付随して同情を強制する人がいることです。身体的に不利な人に対して、同情しない人は悪だとでも言いたげな人たちです。これが判らないのですよ。というのも、同情すると怒りを感じる人がいるからです。それは健常者・障害者を問いません。おそらく人間の”根源的”なものなのでしょう。だから障害の有無だけで、同情をするしないは決められません。それなのに、障害の有無だけで同情を強制することが理解できないのです。
 同情を強制する人からすれば、同情しない人は悪なのでしょう。
 では、同情を強制する人は善ですか、それとも悪ですか? 私は、同情しない人が悪なのであれば、同情を強制する人は非情に見えます。いわゆる”ゲスヤロー”ですね。同情しない人が悪なのであれば、同情を強制する人は最悪です。同情を自分の欲望を満たすために使うのです。

 日本には「空気を読め」とか「言わなくても判る」との文化があります。これ自体は悪いものではなく、むしろ良いものなのです。その理由は後述するとして、この文化を利用して、言葉にはしないで、同情を用いてお母さん役を強制する、こんな外道なことはしていませんよね? 
 お母さん役をしてもらう → ドス黒い欲望が満たされる
 お母さん役をしてもらえない → 罪悪感を植えつける
と、望みを叶えてもらえないことに罪悪感を抱かせ、是でも否でも”優越感”に浸ることができますね。赤ちゃんは何もできないのに、お母さんに対してはいつも王様気分ですから。

 罪悪感を利用して相手を支配するのは非道ですよ。よほど人間性が低い人なのでしょう。
 なんかサラッと人の同情や感情を利用する人、罪悪感を利用する人がいますが、やめた方がいいですよ。商品ならどんどん売れなくなるし、お店ならどんどんお客さんが来なくなるからです。

 最近、というか昔からですけど、芸能界が荒れています。それは幼児性の反射を許して、同情の強制をしていることも原因の1つでしょう。どんな立場の者であれ、1つだけでも特化した能力があれば良いとしてしまい、他の能力を上げなかったので、精神的に幼児のままになってしまったのです。Facebookのザッカーバーグがそうなっているみたいですね。

 1つだけできれば良い = 1つしかやらなくて良い

 これって見ようによってはものすごく”楽”な環境なんですね。赤ちゃんの環境と言ってもいいでしょう。ゆりかごの中でバブバブ言っていればいいのですから、王様気分でしょうね。この「1つだけできればいい」との考え方は欧米のものです。
 🇯🇵… 1つだけできててもダメ
 🇺🇸… 1つだけできていればいい
と、両者では逆の考え方をしています。芸能界は後者の考え方が蔓延しているのですよ。その影響を受けているのか何なのか知りませんが、芸能界だけじゃなく、いろんな方面にその考え方が広まっているように感じます。これで”視野狭窄”や”幼児化”が起こっているのではないでしょうか。

「これしかやらなくていい俺は特別な存在だ

と、思い込むことで1つしかやらないので、思考が狭くなり幼児になり”裸の王様”になるのです。身体障害者は同情が引きやすいこともありますからね。それを利用して同情を強制する… 幼児がお母さんより”上”の立場なのですから、荒れることは必然です。

 ちなみに、1つしかやらなくていい環境に健常者がいると、どんどん発達障害になっていくのです。1つ以外のすべてを他人に任せられるので、幼児化するから、お母さん役を欲しがるのですよ。こういうことが組織の中で起こったとしても、ちゃんと見ていれば気づいたはずです、猿じゃなければ。
 それなのにたとえ幼児性の反射を受けたとしても、死ぬ人が出るまで動かないし、死んでも動かないのが今の日本社会なのです。

 巷では「言っていいことと悪いことがある」などの言葉がありますが、だったら「やっていいことと悪いこと」もありますよね。2つの違いは”言葉”と”行動”です。言葉の良し悪しの区別がつくのであれば、行動の良し悪しの区別もつくはずです、猿じゃなければ。
 同情を利用して他人にお母さん役をやらせることは、悪いことだと判りませんか? って話です。

 幼児はお母さんのやること、あらゆることに”イチャモン”をつけますね。仕事に対して重箱の隅をつつくようなイチャモンをつけることは、『優先順位の逆転』にもつながっていますが、これは後半で説明します。

予定通り = 理不尽の回避

 現代はあらゆることを”予定通り”にしようとします。これも幼児性で説明できます。どういうことかというと、人は”権力”を恐れるのではなく、”理不尽”を恐れるのですよ。なぜなら予測ができないからです。鬼も餓鬼も予測できませんよね。
 権力を持っていても予測できるのであれば、恐れることはありません。日本では内閣総理大臣が権力者ですが誰も恐れていないのは、予測できる範囲内のことしかできないことを知っているからです。ルールにしたがって権力を振るうことに人は恐れを抱きません。
 ところが、これが予測できないとなると、途端に恐れを抱くようになるのです。北朝鮮や中国政府が良い例ですね。権力者が何をするか判らないから怖い…

【権力者が何をするか判らないから怖い】

これはまさに、父の理不尽に対しての子と同じ心境なのです。

 そして、これを回避するために”予定通り”が出てくるのですよ。いろんなことを既定路線に乗せて、予測できないこと = 理不尽なことが起きないようにしたいのです。そしてここがめんどくさいんですが、理不尽なことが起きないように予定通りにした”結果”、理不尽が生まれることがあるのです。
 簡単には、会社の上層の無理な計画(= 予定通り)を実現するために、身内で売上を立てたり、サービス残業をしたりすることですね。これでは予定通りにした意味がないのです。なぜなら、元々”予定通り”とは、理不尽を回避するためのものだからです。それなのに回避できていない。それは回避ではなく、ただの”しわ寄せ”(= 抑圧)です。

 📚 上層 = 紙の上をキレイ = 予定通り にするために、
 👫 現場 = 現実が汚く= 理不尽を被る

 これだと全然意味がありません。そのしわ寄せはいずれ自分に”跳ね返って”くるでしょう。
 予定通りを強制するために”同情を強制”したりしていませんか? 人がいないから残って〜とかですね。能力が高い者 = 上の立場 に対してなら判りますが、能力が低い者 = 下の立場 にこれをやると、最終的に子どもにお母さん役をやらせることになります。

 子どもは本能で、自分より弱い者を守ろうとします。同情すれば尚更守ろうとするでしょうね。だからこそ、それを自分のドス黒い欲望のために利用してはいけないのです。利用するのはただの”ゲスヤロー”です。

 『幼児性の反射』に気をつけましょう。

愛着障害

 以前にも少し触れましたが、愛着障害は発達障害と症状が酷似しています。この障害は幼児期に母親に甘えられなかった子に発症しやすいようです。子は、適切な時期に母親から離れないと近親相姦になる可能性があるから、父が子を母親から切り離すことは述べましたが、それが”早すぎる”と愛着障害になるのです。

 愛着障害 = 子と母親の切り離しが”早すぎる”

 これが起こりやすいのが『女性の社会進出』ですね。私が女性の社会進出に反対の立場なのは、これが理由なのです。決して能力が足りないとか、そんな理由じゃないんですよ。むしろ能力に関しては体力を除けば、女性の方が”上”だと考えています。特に現代の男性は1つのことしかしない傾向が強いので、いろんなことに気が利いて視野が広い女性の方が仕事はできるんじゃないかと考えますね。

 確か1960年代だったと思うのですが、アメリカで女性の社会進出が始まったとき、発達障害の子が増えたという統計データがあります。このとき発達障害と診断された子が、実は愛着障害なのではと考える精神科医もいます。ただ、データを扱うときに気をつけないといけないことは”結論を先に決めてはいけない”ことと、”相関関係を因果関係と誤認してしまう”ことです。だから、女性の社会進出と発達障害(愛着障害)の子が増えたことは、偶然の一致かもしれない可能性はありますよ。

 日本でも昭和時代は母親が家にいなくて、子どもは”鍵っ子”なんて呼ばれていましたね。テレビでは、母親が赤ちゃんを”おんぶに抱っこ”の状態で働くなんて描写もありました。お母さんがお客さんの相手をしている最中に赤ちゃんが泣き出して、それをあやすみたいな描写です。「仕事なんて”どうでもいい”からとにかく俺の相手を〜… 」。

 近親相姦も気をつけなくてはいけませんが、愛着障害も同じように防がなくてはなりません。そのためには切り離す時期を見極めることです。早すぎてもいけない、遅すぎてもいけない、ちょうど”真ん中”の時期を狙うのです。(「狙うのは身体の”中心”だ。そうすれば…」 次元大介)

 女性を社会進出させてその女性の子が愛着障害になったら、その子が大人になったときに周りの人に母親役を求めるのです。幼児期の満たされなかったものを大人になってから補うのです。そのために、社会に出ている女性は多い方がいいのです。多くなればなるほど、母親役をしてくれる女性に出会う確率が上がるからです。しかし、このときもし、その女性に子がいたら、その子も愛着障害になるかもしれませんよね。母親が仕事で家にいないからです。ここで無限ループが発動します。

 こう言われると、
「母親が家にいないなんて、昔は”普通”だった」
と反論がくると思います。が、ここで言う”普通”って、本当に”普通”ですかね? 戦後の復興のためには男性だけではなく女性の力も必要だったでしょうし、その前の戦争中なんて、まさに女性まで駆り出されて働いていましたよね。

『家に母親がいない状態』

 これってもしかして、戦争が原因でそうなっただけじゃないんですかね? つまり、家に女性(母親)がいないのは普通ではなく、異常事態 = 戦争と復興期間 の名残りではないのでしょうか。もしそうなら、家に母親がいないことは普通ではありません、”異常”です。その期間が長過ぎたが故に、それを普通だと誤認しているだけです。

 なにより”無限ループ”を防ぎたいんですよ。この罠にハマると本当に厄介なので。同じところをぐるぐる回っていることに誰も気づかないんですから。現に、他国ですがまた戦争しているじゃないですか。
『同じ間違いを何度も繰り返す』
 これが無限ループの効果です。
 先に紹介した”往還機能”には正と邪の2つの効果があり、どちらを選ぶかで繁栄か滅亡かが決まります。
 正… 良いものを渡す… 創発 ← 新しいものが生まれ続ける… 繁栄の回転
 邪… 悪いものを渡す… 無限ループ ← 同じことを繰り返す… 滅亡の回転

 もう1つ、女性の社会進出で気になることは、紙の上の数字だけ上げることになるんじゃないかな〜と感じるからです。つまり、進出はさせるけども、会社の中は相変わらず男性目線”だけ”の価値観で運営されていくのでは… と。これでは女性を進出させた意味がないのです。女性の目線 = 価値観 をまったく取り入れないのはただの無駄骨ですね。

 上っ面 = 妄想 ばかり大事にする今の社会は、”現実”が置いてきぼりになっているのです。

 どれだけ女性を社会進出させても男性の基準で測るのであれば、お母さん役ができる女性が評価される環境なんてものも容易に作れますよね。男性の方が”先”に社会を構築してきたのですから。




Interlude

Acoustic Alchemy - Urban Cowboy

(構造主義に”心理学”が関わっとるとはね
なかなか”重い”な〜)

”人間”はそういうものですから。
でも本当に問題の根幹に近づいた気がしますね。

(そうやな〜、たどり着いたかも...
結構今の状況を説明できるしな)

気になるのは、今回調べたものも過去にすでに解明されてるもので、
それがなぜ、世間に広まってないのか? ってところです。

(やっぱ”中間”で止められとるんやろな
それか、下層まで降ろしても意味がないと考えとるのか)

下層は確かに勉強嫌いの人が多いですからね。
だからいろんなことを”変換”しないといけなくなる。

(変換ってめっちゃムズイよな
1つの”学問”にできそうなくらいやで
『変換学(metamorphosology)』と命名しよう)

いわばひっくり返すだけなんですけど、それが難しい。

(今の中間(メディアなど)のひっくり返し方はダメなやつやな
狂言ぶすの太郎がやっとるやつや、現実がねじ曲げられとる)

会社の中層が増えたことも問題ですね。
上層と現場の距離があり過ぎて”寸断された身体状態”ですから。

(本来、通信が速くなったのは距離を縮めるためやったのに
速くなった分、間にいろいろ挟まって逆に長くなったんや)

平成に中層が増えたこと自体はいいのですが、そのせいで
 現場… 11人必要なサッカーを6人でやる(約1/2)
 中層… 9人必要な野球を20人でやる(約2倍)
みたいなことが起こっているのですよ。昭和の状態から理想は、

こうですが、現実には、

と、なってますから、そのしわ寄せが現場にきて
死ぬまで働くことになってるのです。
日数も、昭和は4日、理想は3日に対し、現実は5日以上ですからね。

(これはネテロの百式観音の逆みたいなもんやな
百式の”百”に合わせて『亘(めぐる』を使って
式観音(センシキカンノン)”とでも言うか
相手が一手打つ間に百手打つ。百種類の手をすべて使う… 百式観音
相手が百手打つ間に一手打つ。百種類の手の一つしか使わない… 亘式観音
みたいなね)

 百式観音… スローモーションに見えて、現実には超高速
 亘式観音… 超高速に見えて、現実にはスローモーション
とかでもいいですね。

(中層では超高速でパスしてるんやけど、現場では一手しか打ててないのや
『通信 vs 層』の戦いやと、圧倒的に通信が不利やで)

通信はすでに”光速”になってるので上限に達していますが、
層はまだまだまだまだ増やせますからね。(ニコニコ)

(なにその嬉しそうな顔)

いやいや、なんか楽しそうだな〜と思って。
だってこれを30年続けてるんですよね。楽しくなきゃできないでしょう。
他にも、返事をすると仕事が止まって、仕事をすると返事が止まるのも
いいですね。

まるで物理学の”不確定性原理”のようです。(ニコニコニコニコ)

(だからなんやその嬉しそうな顔わ)

返事!仕事!返事!仕事!返事!仕事…無限ループ発動!!
さぁどうする!? さあさあさあさあ!!? みたいな。

(振り子のようにな
その2つにグルーヴを感じたんや
ビートを刻んどるのや)

やっぱ音楽は楽しいですからね〜♪
そういえば映画の『シン・ゴジラ』ではたしか”会議”ばかりしていたので、

こんな感じでラップすればいいのです。

(「総員退避ー!」なら判るけどな
「最優先は”紙の上”ー!!」ってか)

まぁ”滅び”ますね。
変えられない現実を置き去りに、変えられる書類を優先してれば。

(上層は、会議中は部屋の外の時間が止まるとでも思ってんのかね
時間が止まってんのは会議室の中やで)

『精神と時の部屋』に入ってるときみたいに、
外の時間は遅くなることさえないんですけどね〜。

(国会議員だかが脱税かなんかの書類を”訂正”で済ませとったけど
ってことは、紙の上ってのは”後回し”でもええはずなんや
それやのに会社では訂正できる紙の上を優先して
訂正できない現実を後回しにしとるのがおかしい)

紙の上を扱う上層が立場が上だから、紙の上を優先してしまうのでしょう。
それが間違いなのですが。

(”逆”なんよな、何もかもが)

平成は、昭和の”振り戻し”でしょうね。
昭和の身体を壊すまで使う極端な状態から、使わない極端にいったのです。

(昭和は家に親がおらんことも多かったし
そのせいで愛着障害が増えたかもやしな
愛着障害の人は社会人になっても母親役を求める)

その反動で平成は親離れ子離れができないから近親相姦になった…
ってことですね。
近親相姦 = 身内で売上 です。

(20年くらい前にマスコミが職人(鬼)のネガキャンを
やっとるって話も聞いたことがあるしな
怖いイメージを植えつけて嫌いにさせるんや)

ありましたね〜、本当かどうかは知りませんが。
メディアの中には知ってる人がいるかもですね。
そのネガキャンのせいで平成は近親相姦が増えたのです。

(母親から切り離す存在がいなくなったら
そうなることもあるんやろな
猿なら)

ここから判ることは”極端がダメ”ってことです。
母親に甘えるのも求めるのも、それ自体は悪ではありません。
子どもなら当然のことです。

(だから”真ん中”を狙わんとあかんのや
0か100かって考え方はホンマに危険やで
昭和も平成もどっちにしろ自立できんなっとるやんか)

テレビで”身内ノリの番組”が増えたのも平成ですね。

(それも近親相姦の一種、入り口やで)

ところで、テレビと言えばダウンタウンの松ちゃんが芸能活動を休止しますね。
それなら裁判ついでに理系の勉強をすればいいと思います。

(いくらなんでも四六時中ずっと裁判のことだけってのは
ないやろからな〜
後輩芸人にも頭のええ人もおるやろし、ちょうど良いかもね)

その間に浜ちゃんはもっと文学について知見を広めたらいいでしょう。

(構造主義の一人、ロラン・バルトは俳句を絶賛しとったみたい
多分、”無垢なエクリチュール”を感じたのかもね)

『エクリチュール』とは要は”言葉使い”です。
主語が”私”と”俺”では言葉使いが変わりますよね。

(だからエクリチュール = 言葉使い には『型』があることになる
その型がないものを、白いエクリチュールとか無垢なエクリチュール
って言うんやで)

バルトは無垢なエクリチュールを生涯追い求めていたのです。
「語法の刻印を押された秩序(= 型)へのいかなる隷従からも解放された白いエクリチュール」
何も肯定せず何も否定しない、ただ”ある”のです。
私は俳句の他に『方丈記』も無垢なエクリチュールに感じますね。

(”AIの文章”なんかもそうなるかもね〜
AIには主観がないからな)

優れた歌人・詩人は無垢なエクリチュールに近いところにいたと思いますよ。

(俳句って主題を言わず、状態を述べるみたいなところがあるやん
絵画でいえば”背景”みたいな)

”真ん中”はいつも見えないですからね。
だから周りのもので真ん中にあるものを示すのです。

(意識ではなく、無意識で表されるものを描く(詠む)感じよね)

侘び寂びにも通じる感性ですね。

(人は主役ばかりに目がいくけど、そうやないところに真理がある
そこに気づくまでに時間がかかるんよな〜)

じゃあ後半はその話ですね。
師匠の技をパクっただけじゃ上手くいかないのは、なぜなのか?

(まったくもう… 世話の焼ける…
でも『京』に禍いをもたらすのは鬼の役目やしな)

京 = 上層 ってことです。
でもそれだと鬼は討たれますね。

(あの時代の鬼(酒呑童子)はそうやけど今の鬼は違う
なにより狙いは人間やないからな
人間に取り憑いとる魔や狐を退治するんや)

そういうのは本来、人間側(陰陽師)の役割ですけどね〜。

(人間の中にまともな奴がおらんからしゃーない
1000年前より魔も狐も強くなっとるし
でも、ということは鬼も強くなっとるんやけど)

今の鬼はなんか変わったんですか?

(人間の武器『弓』が使えるようになったのや フフン♪)

鵺を討った”雷上動”みたいなものですね。

(討つ(撃つ)で思い出したけど、ルパンvsコナンで
次元vs赤井のバトルが見たいよな〜)

ガンマン対決ってことですね。
前のルパンvsコナンのときから言われてましたね。

(タイトルは『ルパンvsコナン 赤と黒の弾道(さだめ)』にしよう)

 赤… 赤井秀一
 黒… 次元大介
ですね。
弾道(さだめ)は日本語読みなんですね。

(コナンの最新作が”五稜星”と書いて”みちしるべ”と読んどったからな
”弾道”と書いて”さだめ”と読んだったわ フフン♪)

どんな話にするんですか?

(赤井がマフィアのボスを狙って撃った弾を
用心棒に雇われとった次元が撃ち落とすシーンから始まるのや
んで、お互いに「あいつは...」と思ったところで
ルパンのテーマソングがかかる)

ほうほう、そのあとは?

(そこからは脚本家に任す キリッ)

そういうのを”丸投げ”って言うんですよ〜。
ほぼ何も作ってないに等しいですね。
『赤と黒』と言えばスタンダールの小説が連想されるので、
その話をモチーフにしたシーンがあればいいかもです。

(どうやってモチーフに入れるんや?)

そこは脚本家に任せます。キリッ

(丸投げや! なんも作ってないやんけ!
俺と一緒や!!)

まぁまぁ、こういうのはプロに任せておきましょう♪
ではそろそろ後半を〜。

(勝手なやつめ!
さて、え〜と… 師匠と弟子の話からか)

そうですそうです。
模倣で終わった人たちができてないことです。

(中途半端を嫌うクセに、中途半端なことしかせんのよね
ホンマに餓鬼やな
じゃあいってみよ〜♪)




【articuler】
断片化されたものを結びつける。
はっきりと発音する。

Bob James - Bulgogi


 無知というのはたんなる知識の欠如ではありません。「知らずにいたい」というひたむきな努力の成果です。無知は怠惰の結果ではなく、勤勉の結果なのです。

『寝ながら学べる構造主義』 内田樹


共感と鏡鑑

 ここでは『鏡写し・ひっくり返る・逆さま』なんかを取り上げる。今までもそんなことを書いてきたけど、また新しく解ったことも合わせてやな。もしかしたら今までの謎が解明できたかもね。

基礎 = 「自分が使ったものは自分で片付けろ」 = 奥義


『やって見せる』職人

 職人の師匠が弟子に”やって見せる”とき、師匠自身が対象を”見てから動く”やろ。料理なら食材とかの対象、建築なら木材などの対象を”見てから動く”んや。けど、”どの”対象なのかを厳密には決めることはできん。食材のりんごを扱う場合でも”りんご”を見とるのか”包丁”を見とるのかは、本人以外には判らんのや。

 んで、弟子はまず”動き”を真似する。すると、その”動き”によって”見る”ものが確定していくのや。師匠の動きを(真似して)”見てから動く”のはその通りやけど、師匠の見とるものが判らんから、師匠の見とるものは”動いてから見る”しかない。つまり、弟子の視点は、
 👁 見てから動く👋 んやなくて、
 👋 動いてから見る👁 のや。

 師匠と弟子では順番が”逆”になる。

 師匠... 見てから動く... りんごか包丁のどちらかを見てから、動く
 弟子... 動いてから見る... 動いてから、りんごか包丁のどちらかを見る ← 師匠がどちらを見ているかが判る

 これは『時系列の逆転 = 因果の逆転』やろ。師匠と弟子はクロス(交叉)する。おもろいやろ。ここから弟子は、師匠のやっとる”見てから動く”ってことをせんといかん。つまり、弟子自身からすると視点を逆にすることになるんや。んで、これができたときに『継承』が成り立つのやで。

「師を見るな、師が見ているものを見よ」

ってのはこのことなんや。他にも、これができることはすなわちメタ認知ができることになる。
 師匠がやっとる動き と 師匠が見とるものを、同時に見ること
  ↓
 自分がやっとる動き と 自分が見とるものを、同時に見ること
と、なるのや。”現実”と”認識”で区別して書くと、
 師匠の動き = 現実の動き = 自分の動き
 師匠の視点 = 認識するもの = 自分の視点
ってことやで。これも交叉するけどね、まぁ判るやろ。さらにもうちょっと付け足しておくと、
 師匠... 自分が見てから動く... 後手... 受動的... 非主体的... 補佐役... お手本... 父...
 弟子... 自分が動いてから見る... 先手... 能動的... 主体的... 主役... 模倣... 子...
と、なる。だから弟子は”動いてから見る”をしとる限りずっと模倣のままなんや。これやと『継承』はできん。模倣はあくまで継承の”入り口”であって、継承そのものやないからな。ただの模倣で満足するなら、その人はスクラーフェやな。

(ニーチェは、他者の模倣で満足する人のことを
Sklave(スクラーフェ)= 奴隷 と呼びました)

 継承... 見てから動く ← 師匠の視点
 模倣... 動いてから見る ← 弟子の視点

 中国や韓国が日本の模倣をするけど、いまいち上手く発展できんのは継承してないからなんや。サルマネの段階で終わっとる。それやとまだ視点が主役のままなんや。発展するには技術を誰かに受け継がす必要があるのに、自分が主役やと考えとると、その誰かに”補佐役”をやらせることになるやんか。でも、師匠のところに『補佐役』と書いとるやろ。お手本を見せることは補佐役をすることと同義。誰かに受け継がせるときは自分がお手本なんやから、自分が補佐役やないとあかんのに、相手に補佐役をやらせるんやから、受け継がれなくて当然なんや。だから一代で終わることになる。後の世代のことを考えないことは、自分のことしか考えないこと、そんな国が発展できるわけがないやろ。猿でも判る。
 中国の人民解放軍も人民抑圧軍と呼んだ方がふさわしいやろ。”逆”やで。

 上手く模倣できとる弟子に対して師匠が「まだダメだ!」と言って、なかなか合格させないことがあるやん。それは視点が切り替わってないからなんや。実際、切り替わってないから上手くいかんやろ? だから発展できない。太郎みたいに視点が”逆行”したままではダメやで。

 師匠が『補佐役・お手本』で、弟子は『主役・模倣』やき、弟子は自分の視点をひっくり返して師匠と同じ視点に立てるようになれば、
 い. お手本を示せて、
 ろ. 補佐役の視点を身につけて、
 は. メタ認知もできるようになる
となって、継承になるってことやで。

 ホンマかどうか知らんけど、中国と韓国の建築は酷いってのをネットで見かけることがある。これは継承ができてない上に、両国では”職人を蔑む文化”があることも関係しとるかもね。職人を奴隷扱いするき、やる気なんか起きるわけないしな。
 韓国の”白い陶器”なんか、昔は韓国の職人でしか作れないものやなかったっけ? なら、職人を敬っててもええと思うたけどね。残念ながらそうはならんかったらしい。

 ちなみに日本も最初は欧米のサルマネばかりやったんや。明治維新から欧米の文化を取り入れるためにサルマネばかりしとった。ニーチェに言わせるなら”ヘールデ(Heerde) = 畜郡”やろな。
 それをやっと独自に発展させたのが昭和で、製品の『魔改造』のことや。これは継承より”昇華”と言った方がええかもね。模倣から視点の切り替えをして継承までいって、さらにその先にあるのが昇華やな。ここまでくるともう”オリジナル”と言えるものになる。

 欧米のものを真似しただけのものなら、欧米は買う意義がないやろ、だって元々欧米のものなんやから。でも、昇華して日本独自のものであれば、欧米にはないから買う意義ができる。だから売れるんや。

 師匠は弟子にお手本を見せるとき、”目の前のもの”と”弟子の動き”の2つを同時に見とる。弟子は師匠の動きを追うことで精一杯やけど、実は師匠は、お手本を見せながら弟子の動きまで見とるのや。そうやないと、ちゃんと学んでるのか判らんからな。この2つを同時に見るってのはメタ認知やし、実際の作業でもいろんなことに応用が効くのや。

 花火職人がやる”匠の技”で、花火では2つの熱伝導の”速さ”を操る必要があるのや。
  1. 玉が上空に打ち上がる速さ... 打ち上げ用の火薬
  2. 玉の火薬に熱が広がる速さ... いわゆる”花火”の火薬
 この2つの”速さ”が一致せんと、キレイな花火にはならんのや。だから、
  1の打ち上げる方が速い → 花火の火薬が燃えないまま散らばってしまう
  2の熱が広がる方が速い → 十分に上空に達しないまま爆発してしまう

 玉が打ち上がる速さと、花火の火薬に熱が伝わる速さの2つを同時に制御する必要があるのや。
 言葉にせんでも自然と伝わっていくことやけど、これからの時代はできるだけ”言語化”した方がええかもね。弟子の、
「それはなぜやるんですか?」
って質問に答えられんとあかんのや。言葉で伝えるってのは日本の職人の苦手なところよね。

 師匠は弟子のお手本、鏡の役目をしとる、その鏡は『浄玻璃の鏡』と言う。

ダ•ヴィンチ•コード D.S.

 タイトルの『D.S.』は音楽のダル・セーニョのことで、意味は「印から(from the sign)」ってことや。レオナルド・ダ・ヴィンチ が残した”印”に戻って、もう一度考えてみようとね。一番大きな”印”を見逃しとるかもね〜。

 レオナルドの師匠はヴェロッキオって人で、兄弟子にボッティチェリって人がおった。レオナルドは”万能の天才”みたいに言われて”なんでもできる”イメージがあるけど、実はボッティチェリの方がいわゆる”万能の天才”やったのや。レオナルドは”サボり癖のある異端児”みたいな扱いやった。いろいろ”気が散る”人やったのかもね。

 ボッティチェリが修行をしたのは下積みからみっちりやったのに対し、レオナルドはちゃんと記録は残ってないんやけど、推測では”途中から”じゃないかと言われとる。通例では修行が始まるのは14歳くらいからやのに、レオナルドは17歳くらいからじゃないかな〜と言われとるのや。だからボッティチェリの方が”正統”な継承をしてて、レオナルドはちょっと”我流”が入っとるかもね。まぁ、そこが才能なのかもしらんけど。

 両者が書いた【東方三博士の礼拝】を比べてみると、全然違うことが判るんや。構図は、真ん中の人と左右両脇の人で”三角”を作っとることだけが一致しとって、他は全部違う。レオナルドはいろんなことを”逆”に描いとるんよな。

 先ず、ボッティチェリは、礼拝しとる3人の博士の”最初”の人がイエスと接しとるところを描いとるけど、レオナルドは”2番目”の人を描いとる。これは、ボッティチェリは時の”始まり”を表現しとって、レオナルドは時の”経過”を表現しとることになるのや。
 人物の位置も、ボッティチェリは”左側”なんやけど、レオナルドは”右側”に描いとる。

 背景は、ボッティチェリは廃墟を使って”遮断”しとるところを、レオナルドは”開放”しとるんよな。これはボッティチェリは近視眼的に”一点注視”で、世界の中で”最も重要”と捉えれる表現なんやけど、レオナルドは遠方まで見渡せる”全体俯瞰”になっとって、世界の中の”一部でしかない”と捉えられる。

 ボッティチェリ… 最初の人… 始まり… 左側… 遮断… 一点注視… 最重要
 レオナルド… 2番目の人… 途中経過… 右側… 開放… 全体俯瞰… 一部分

 ボッティチェリは”速筆”やけどレオナルドは”遅筆”やったし、ホンマに逆なんよな。レオナルドは作るのが遅すぎて作品のほとんどが完成してないし、壁画を描くときの手法も、普通は壁画には使わない手法で描いとったみたいやで。普通の手法やと乾くのが早すぎて、描き直しもできんからやろな。

 当時の壁画は一発勝負で描くのが普通やったのや。そのために膨大な修行をして、何を描くのかも予め全部決めとった。でもレオナルドは描きながら修正していきたいき、普通の手法やない方法で描いたのや。現代の仕事でいえば、
 ボッティチェリ… 計画通り → 上層
 レオナルド… その場で判断 → 現場
って感じやな。
 お笑いで言えば、計算通りにやる志村けんさんと、「俺なんかはその場で適当にやっちゃう」って言うとったビートたけしさんみたいな感じになるし、音楽なら譜面通りのクラシックと、即興演奏が醍醐味のジャズとも言える。

 ボッティチェリ……… 遮断… 一点注視… 最重要… 上層志村けんクラシック
 レオナルド……… 開放… 全体俯瞰… 一部分… 現場ビートたけしジャズ

 ダンスならバレエとストリートダンスでもええで。

 ボッティチェリ…………… 上層… 志村けん… クラシック… バレエ
 レオナルド…………… 現場… ビートたけし… ジャズ… ストリートダンス

 一丁目〜わ〜お! ってね。

レオナルドよ、いったいお前はなにを成したというのか

レオナルド・ダ・ヴィンチ

 晩年のレオナルド自身の言葉や。ほとんどの作品が未完に終わっとるからこう思ったのかもしらんけど、俺にはレオナルドの作品は「視野を広げろ」と言っとるように感じるね。当時は教会の力も凄くて、視野が狭い思想が広がっとったから、それに対して「外を見ろ」と言いたかったのかもな〜とね。

 有名な『最後の晩餐』には”外”の背景がほとんどないのや。まぁこれは、この題で描く場合は”部屋の中を描く”ってのが通例やったのもあるけどね。カスターニョって人の『最後の晩餐』は、背景が完全に部屋の中やしな。
 しかもこの絵の人たちがおる部屋の位置を調べると、部屋の”隅っこ”なんよな。部屋の隅っこにみんなが集まって、裏切り者がいることを告げる場面の絵のタイトルが『最後の晩餐』… 自分の会社でそんなことが起きなきゃええけどな。ちゃんと”外”に出とるかね。

 『最後の晩餐』とは対照的に『モナ・リザ』の背景は、すべて”自然”を描いとるやろ。狭くて窮屈な部屋の中から外に出て、大自然の中で微笑んどるのや。これには”スフマート”って手法が使われとって、輪郭をはっきり描かないのが特徴や。輪郭をボカして描くんよな。そういえば、哲学者クワインの『知識の全体論』では、知識は明確に線引きできないって言うとったな。

 輪郭をボカして描く… 明確に線引きできない… それがレオナルドの最後の作品やで。

 子どもは、思っとることを言葉にできない。

 これは、子どもはまだ言葉を知らんからよね。当たり前の話やけどね。だからこそ日本では「言わなくても判る」って文化が育っていったのや。ハイコンテクストって言われる日本の文化は、元々は子どものための文化なのやで。
 言いたいことはあるけど、言葉を知らん子どもは言いようがない。そこを補うためにハイコンテクストになっていったのや。現代はその文化をずいぶん”悪用”されとるみたいやけど。

 それって本来、子どもがやることよね? ってことを大人がやっとるってことは、逆回転になっとるんやないのかね。
「相手が勝手に勘違いしただけやから、それでいいか〜♪」
ってことをやると、それも自分に跳ね返ってくるでよ。

 そのあと「誤解があるようだ」やろ、バレとるで。


一隻眼

視点の相転移

 先述のように、師匠が弟子にお手本を見せるときは、

 師匠… 補佐役
 弟子… 主役

と、いつもと立場が逆転した状態なのや。んで、ここでちゃんと継承しないままで弟子が辞めたりした場合は、弟子は、
「補佐役は”下”の者にやらせることや」
と解釈したままよね、普段は補佐役のことが多いやろしね。
 ってことは、その後にもし、自分が教える立場に立ったとしても、相手に補佐役をやらせるやろ。でも、その相手はまだ補佐役ができるほどには仕事は覚えてないやん。

『仕事を覚えてない人が補佐役をする』

 こんなことができると思うか? って話よね。覚えてないんやから当然、上手いこと補佐役をこなすなんてできるわけないわな。補佐役の仕事を覚えとる元弟子の方も、本来相手にお手本を見せるときは自分が補佐役やのに、自分が主役やと思っとるから、クソみたいな教え方しかできん。結果、両者ともによく判らない、中途半端な伝授ごっこになるから、どんどん”詰んで”いくんや。
 継承のお手本を見せるときは、

 主役(師匠)が補佐役をやって、補佐役(弟子)が主役をやる。

 これは本来、師匠 = 達人レベルまでいった人ができることで、師匠に認められてない弟子の段階ではできんことやで。継承のときは立場が逆になるんやから、いろんなことを理解しとる師匠やないとできんことや。現に、弟子の視点のままで継承(伝授ごっこ)をしたから、回転が逆になってもうたんやしな。視点が逆なら回転も逆になるわな、そりゃ。猿でも判る。

 加えて、視点が逆の弟子は太郎みたいに”悪いこと”ばっかするやろ。まるで餓鬼、悪意くんに取り憑かれとるようやな。でも、それは”詰み”なんや。模倣で終わってしまった弟子から判ることは、
 模倣のまま… 次の人に継承できんから、びる
 継承できた… 逆の視点/回転 = 餓鬼 が、える
となって、どっちにしても餓鬼は『消滅』の道を歩むことになるのや。

「そう… 貴様は… 詰んでいたのだ…… はじめから………. カッ!!(大爆発)」

ってことやな。
 師匠は弟子に技を教える = ”与える”やろ。んで、弟子は師匠から教わる = ”貰う”やろ。与える視点と貰う視点やから当然、思考も”逆”になっとる。
 師匠… 与える視点… 往還機能起動繁栄の回転
 弟子… 貰う視点… 往還機能未起動滅亡の回転
となっとる。だから弟子が往還機能を起動させるには、師匠から貰った技を他人に与えたときだけなんや。

 『視点の相転移』を起こさんことには、消滅するしかない ってことよ。

抑圧 ∞ 解放

相手が、どう捉えているか」

 これが大事なんや。飛行機の事故でも、管制官と操縦士では捉え方が”逆”やったから、悲惨な結果になってもうたんやしな。管制官は「止まる」と思うとったのに、操縦士は「進んでいい」と思うとった。大人がこういう間違いをするなら、子どもはもっとする。

 算数が判らん、というか式を”逆”に書いてしまうのは、文章を”逆”に捉えとる可能性がある。ってことはこれは算数に原因があるんやなくて、国語に原因があるんや。文章の読解ができてない。だから、算数やなくて国語を教える方がええのや。

 算数ができんからって算数ばっかりやろうとするのが”逆”なんや。教科には”逆の教科”なんてものはないけど、ここでは、

 算数 ⇄ 国語

とする。
 算数においてできんことを直そうとすると、それは抑圧になってしまう。だから子どもは算数を嫌いになるんや。子どもなんて”自由の塊”みたいなものやのに、算数では抑圧されるんやから、そりゃ嫌いになるわ。子どもの能力を解放しようとして算数の間違いを正そうとしとるんなら、算数の”逆の教科”の国語の力を育てることやな。算数の力を育てたいなら、
 ❌ 算数を抑圧する
 ⭕️ 国語を解放する
ってことやで。
 必要なのは見えとる部分(算数)の抑圧やなくて、見えとる部分の逆側(国語)の解放なんや。

 仕事でも、優先順位が逆になっとる人がおるやろ。最初からそうならまた別の原因があるやろうけど、こうなってしまった原因は、

『できてるところを”先”に褒めるか、できてないところを”先”に指摘しているか』

で決まるのや。

 相手の立場に立って考えろ

 仕事は”主作業”と”副作業”に分けられる。優先順位はもちろん主作業が上よね。だから、ほとんどの人はそっちからやるはずなんや。でも、仕事が終わった段階で、主作業は終わっとるけど副作業ができてなかったときに、
「はいこれできてない〜」
と、主作業のことには一切触れずに、できてない副作業を”先”に指摘すると、言われた方は、
「そっちの作業の方が優先度が高いのか」
と解釈してしまうのや。
 こうなるとめっっっっっちゃめんどくさいことになるんや。できてる主作業を褒められもせず、できてない副作業の方を”先”に指摘されたから、優先順位が”逆”になって、副作業の方からやり始めるのや。イチャモンマネジメントがダメと言われるのはこれがあるからなんやで。

 原因はすべて指摘した自分やで。言われる方からしたら、
「だってそっちの方ばかり気にしているじゃないですか?」
ってことよ。
 だから優先順位を守って欲しいなら、できてる主作業を”先”に褒めることやな。んで、足りてないなら、「ここがまだできてない」って”後”から言えばよろし。そうすると優先順位は守られとることになる。これは、

 一極集中 → 広範分散(プレイヤー → マネジャー)

ってことでもある。最初は”一極集中”でやって、徐々に”広範分散”にしていくのと同じ順番でもあるのや。

 できてない副作業 = 算数
 できてる主作業 = 国語

 できてない副作業(算数)をできるようにするには、できてる主作業(国語)を”先”に褒めることやな。一応確認やけど、

主作業 副作業
できてる できてない

と、4つのパターンになるやんか。全部説明せんでもええやろ。一番ダメな4つ目のパターンを利用して奴隷化するって話はこの前したけどね。

 算数と国語は、紙の上と現場にも置き換えられる。
 算数 → 紙の上
 国語 → 現場
ってことや。こう捉えるなら、紙の上の計画が上手く進まないときは、
 ❌ 紙の上(算数)を抑圧 = 修正 するより、
 ⭕️ 現場(国語)を解放 = 成長 させる。
ってことになる。んで、成長させたいなら『視点の相転移』を使えってことや。

 紙の上の計画はまだ為されてないき、言い換えるなら”妄想”と言える。反対に現場は常に”現実”を見ることになる。妄想ばかり見て現実を見ないのは、優先順位が逆なんやないかね。

巨視と微視

 仕事を進めるときに”手当たり次第やってみる”って手法を取ることがあるやろ。多分、昭和時代はこのやり方が多かったと思うけどね。人が自己判断で外部とのやり取りを進めていくことで、勝手にルールが決まっていったりするやん。これは、

 やっていきながら方法を確立させていく = やっていきながら構造ができ上がる

と、変換することができるのや。
 んで、これを科学の世界では『散逸構造論』と言う。ノーベル賞をもらったイリヤ・プリゴジンって人が考えた理論なんやけどな。ミクロな原子分子の相互作用からマクロな秩序が生まれてくる”自己組織化”って言われる現象があって、それを説明した理論なんや。

 散逸構造論は、エネルギーや物質が、常に外部とやり取りしていると、構造ができ上がっていく ってことやから、会社で起こっとることと同じことが起こっとるやろ。
 個々の人間 = ミクロな原子分子
 全体の構造 = マクロな秩序/構造
と、両者は等価交換できるのや。
 ただ、これには条件があって、非平衡状態やないとあかんのや。平衡状態ってのは、熱湯がだんだん冷めていって温度変化がなくなったときのことで、それ以上は何も起きん。言い換えるなら、身内だけでやり取りする会社みたいなもんや。変化が止まってしもうとるやろ。

 非平衡状態ってのはそれとは反対に、外部とのやり取りがある状態のことやき、会社なら他人相手に商売する状態のことよね。
 非平衡状態 = 他人相手 = 構造生成
 平衡状態 = 身内相手 = 静止
ってこと。会社の中でそれぞれの人が、

 自由に自己判断で仕事を進めていくことで自然にでき上がる構造 = 散逸構造論

と、することができる。
 さらに、組織の中には”同調圧力”ってのがあるやん。これはヘルマン・ハーケンの『隷属原理』で説明できる。この原理は、

「ミクロな相互作用が”集合的な変数”を生成し、それが他の小さな変数を隷属させ、秩序ができる」

 これは独裁国家での現象とも言えるんやないかね。1つの巨大な力を持つものに他がすべて引っ張られるところは同じやな。同調圧力ってのはこれのことよね。特に日本人は”空気を読む”から、なおさらこの原理に引っかかるやろな。

 同調圧力 = 隷属原理

やで。
 でもこれやと、すべて同じになってしまうから静止状態と同じなんよな。個々に差がなくなるき、相互のやり取りがなくなる。結果、新しいものが生まれんなるのや。
 んで、だいぶ時代は遡るけど、
「新しいものを生むには”ずれる”ことが必要だ」
って主張したのが、原子論のエピクロスや。この人はデモクリトスの原子論に反対した人やな。新しいものが生まれるには、原子の軌道が”ずれ”て他の原子と衝突せないかんとした。この”ずれ”のことを『clinamen(クリナメン) ...偏倚』と言ったんや。デモクリトスの原子論には”生成”ってのがなかったから、クリナメンでそれを補ったわけやな。

 クリナメン = 個性/能力差
 原子の衝突 = 侃々諤々の会議

ってとこやな。
 ここまでで判ることは、マクロな人間社会で起こっとることは、ミクロな原子の現象と瓜二つになっとることや。

 なんでこんな話をしてんのかというと、これを知ることで”俯瞰の練習”になる。つまり、メタ認知の練習にもなるからや。遠目から客観的に見てみると、原子の動きと同じ動きをしとることを意識することで、悪い方向にいくことを防ぐことができる。人は”意識できないこと”は変えられんけど、”意識できること”であれば変えられるのや。

 化学や物理の理論を人間社会に当てはめようとすることがあるけど、それは不可能なんや。それらが扱うものは意識のない物体に限るからな。だから意識のある人間には当てはめることはできん。でも、人間の『無意識』になら当てはめることができる。なぜなら無意識には意識がないから。人間が作るものには無意識も入る。ダ・ヴィンチ の背景にはそれが現れとるんや。

 ミクロな相互作用からマクロな構造ができるとき、その構造に影響を与えとるのは意識だけやなくて、無意識も関わっとると考えるで。だからその無意識の部分が構造の中に”同調圧力”とかの形で顕在化していくやん。見えないままの無意識は、構造ができ上がっていく過程で”見える意識”に変換されていくき、そこを捕らえればええんやで。

 むしろ無意識だからこそ、意識のない物体を記述する理論が適応できる… と言えるのかもね。

 経済学や統計学がいまいち機能してないのは、理論の前提に”意識”があるからかもしれんね。「データは人の”意識”を表している」と考えてない? それを逆にしてデータは人の”無意識”を表していると捉えてみるとどうやろね。いろんなことがストトトトン! と、嵌っていくかもしれんで。

 人々の無意識に”良いもの”があるなら構造の中に”良いもの”ができて、”悪いもの”があるなら構造の中に”悪いもの”ができる。それを見極めるのが上層の仕事やで。

 ところで、前半の往還機能も”ずれる”ことが必須やったな。

現象と幻想

 プラトンやアリストテレスの著作は紙の上”だけ”で考えたから、ただの『幻想』になっとるものも多いのや。もしかしたらアリストテレスはそれに気づいとったから、著作には幻想も多いとはいえ、現場の思考が大切だとして、プラトンを批判しとったのかもね。

 その時代のピタゴラスもいろんな幻想を書いとって、有名なのが『鍛冶屋の伝説』ってやつや。これは、鉄を叩く槌の”重さ”によって”音程”が変わるってやつやけど、まさにイドラの典型やな。そんなことがあるわけない。木琴や鉄琴で判るように音程はマレット(棒)の重さやなくて、鍵盤の長さで決まる。長いと低くて短いと高いね。

 そのあと、ピタゴラスの考えを引き継いでボエティウスって人が『音楽教程』って本を書いた。でもやっぱりこの中でも幻想は多い。この本の中で”不協和”とされとる音程でも、実際に音を聴いてみると協和しとる音がある。だから音楽教程では協和とは見做されてなかった3度や6度が、近代になってG・ザルリーノによって協和に加わることになった。こんな違いが生まれた理由は、
 音楽教程... 『数比』で協和・不協和を決める → 紙の上の計算で決める✒️📚
 近代音楽... 『実音』で協和・不協和を決める → 楽器の演奏で決める🎻👫
と、音楽ってものに対してのアプローチが全然違うのや。

 哲学者のフランシス・ベーコンは”科学的根拠”を大事にする人で、その思想を受け継いで『百科全書』って本ができた。この本の編集者のダランベールは近代西洋科学の精神も受け継いだことになる。実際、和声学の基礎を築いたラモーに対して当初は賛辞しとったけど、科学的な視点からの考察が強まるにつれて、懐疑的な見方に変わっていったのや。ラモーの数比を使った理論に対して、
「... それらの比例は音楽理論ではまったく役に立たないし、あえて言うならば、見せかけにすぎない。」
と、ラモーへの評価が180度変わったのや。学問への姿勢が、
 中世以前... 思考のみから生まれるものを基にした演繹的推論
 近代以降... 現実に実験した結果に基づいた帰納的理論
と、『真逆』になった。パラダイム・シフトが起こったのや。これは演繹から帰納への転換やき、”相転移”とも言えるね。

 起点/帰結は中間で、ここは”止まった時間”になる。だから、ここが大きくなればなるほど”止まる”のや。今の日本社会は止まっとるけど、それは”中間”が膨れ上がったからなんやで。んで、上層はしょっちゅう”妄想”しとるけど、それが現場とつながってないわけよ。だから、計画を立てても上手くいかんのや。実際、現場で何が起こってるのか何も知らんやろ。

 ちなみにこの図は”砂時計”がモチーフで、砂時計はひっくり返すことで時を刻みだすのや。だから、中間が止まってなければ何度でも時を刻むことができる。

さて、このループは”同じこと”なのか、それとも”創発”なのか… やね。

 同じ… ズレない
 創発… ズレる

 ところで、ときどき、意志が変わらないことを”ブレない”とか言うとる猿を見かけることがある。

 当時の演繹の欠点は前提 = 起点が間違っていたらその後はすべて間違うことや。実験・実証が必要ないんやから当然よね。
 数比を使った音楽理論は「数比によって協和・不協和が決まる」としたことが間違いなんや。現実に鳴らした”音”やなくて”数比”で決まるんや。そんなわけないやろって話やけど、昔は大真面目にそう考えられとったから学問として残ったんやで。

 んで、これと同じようなことを現代でやってるのが「データの計算で発展・衰退が決まる」ってやつやな。
 昔... 数比によって、協和・不協和が決まる✒️
 今... データの計算で、発展・衰退が決まる️📚
と、これはまったく同じことをしとるやろ。でも現実には、

 協和・不協和は”実音”で決まる🎻 = 発展・衰退は”人間”で決まる👫

となるやんか。
 数比ってのはただの数字であって、データってのはただの数値なわけや。2つに共通するのは、現象の一面しか表してないってことよね。でも、現実の物事は常に多層であり多面になっとるやんか。だから数比で判断した音程が実音とは合わなかったわけやしな。

 データを信じるなって言いたいんやなくて、データには一面しか表れてないことを”知っておけ”と言いたいのや。そこに表れとるものは現象の”一部分”であって、”すべて”ではない。

 演奏家が、なぜ、あれほど演奏に”神経質”になるのか?

 出した音が数比ですべて表されとるなら、あそこまで神経質にならんでもええやろ。だって、単に音を出せばええだけなんやから、まったく気が抜けた状態で演奏してもええことになる。でも、現実にはものすごい集中力が要るのは、数比では表されないものまで感知しながら演奏するからやで。音楽は多層であり多面やから、一面だけ(数比だけ)見てもあかんのや。こういうのは演奏家に聞いてみればよろし。聞く側が考えとるより遥かに多くのことを考えながら演奏しとるから。

 んで、これは会社では”現場 = 実践”の人たちも同じことやから、日報や報告書で書かれとることや、データの数字で表されとることは一面でしかない。これを知 っ て お け と言いたいのや。

 アリストテレスの天動説は、星の軌道が”真円”の形を想定したけど、現実には地動説で”楕円”の軌道やったやんか。それを示したのがケプラーなんやけど、そこまでにはいろんな経過があったのや。コペルニクス やガリレオが地動説を支持したとき、星の軌道はまだ”真円”のままやった。でも、それやと現実と一致しない。そこを”楕円”に直したのがケプラーで、それを認めたくなかったのがガリレオやで。ガリレオは地動説やけど”真円”だけは捨てなかった。その理由はアリストテレスを尊敬しとったから。こういうのはなんかガリレオの”人間性”を感じるね。科学者としては失格やけど、人間性においては優れた人やったんやろ〜な〜と考える。

 現代は現象を数値で表した一部分しか見ないから、どんどん現実と解離していって、ただの幻想を見ることになるんやで。


最も”信じられる”もの

 陰謀論なんかが溢れかえっとる世界では、何を信じていいのか判らんなることがある。メディアが真偽を精査してくれたらええけど、どうもそれは望めんらしいな。ジャニーズ問題のように”隠す”からな。というか、上層が知らないことにするために「報告するな!」ってことやろな。だから、その文化にいた人は報連相ができない人が多い。知らせちゃ”いけない”と考えとるからな、まさに”抑圧”よね。

 ネットではエプスタインって人のおぞましい犯罪も出てきて、これがもし本当なら、ジャニーズ問題に通じるものがあるのよね。どっちも(表面上は)一流の人が小児性愛ってところが同じなんや。

 上品で頭の良いリベラル、エリート、左翼(?)と呼ばれる人たちがこうなっとる。んで、この人たちって頭で考えてばかりで”身体を使わん”やろ。もしかしたら身体を使わないことは、精神の成長が遅れる、精神が子どものままになる、なんてことが起こるのかな〜と考えた。精神が子どものままやから、子どもを悪い意味で好きになるのかなとね。お母さん役もそうやけど、子どもにやっていいことと悪いことの判断ができんなるのや。

 左翼の日本批判は『自己投影』な感じもするし。これは自分がしとる悪いことを他人に投影して、そこを糾弾することで、「自分は正しい」と思い込みたい人がやる。大きな嘘をついとる人は、小さな嘘にも過剰に敏感になる… 典型的な”犯罪者の心理”よね、判りやすくてええけど。

 頭の良い高貴な貴族は精神の成長が遅れ、近親相姦や小児性愛に陥る… とかね。

 昔からメディアは事実を”逆”にして報道するって言われてて、逆にする手法は知っとるやろうけど、手法の根幹となるものが、今回の狂言『ぶす』の太郎の心理なんやで。だから、事実を逆に報道するってことは、子どもの心理 = 精神年齢が成長してないことになるんや。

 政治家の泉房穂さんの話では、現場に取材に行った人の話を、本社のデスクの人が全部書き変えることもあるみたい。現実に見て聞いてした話を、紙の上しか見ないデスクの人が「そんなことあるわけない!」って言って、書き変えるんやって。それ、取材した意味ないやん。

 取材に行った人とデスクの人、どっちが幻想を見とるんやろね。

 現実に見たからといって信用できんのは”身内を使う”ことがあることを知っとるからやろ。以前、身内で売上を上げる = 近親相姦をしとる店で暇な日に「今日はお客さんいないね〜」って言われたから、言いはしなかったけど、
「(そりゃ身内が来てないならお客さんがいるわけねーだろ、猿かこいつ)」
と思ったことはある。言ってないで、思っただけやで、ちゃんと。

 お客さんがいないことを他人のせいにしたいんや。”店員の誰かのせいでお客さんがいない”ってことにしたいのや。現実には身内が”壁”になってて他人が入って来れないだけやのに、それが猿には判らんのや。この”遮断 = 抑圧”はすごいな。凄まじい支配欲/依存欲を感じる。あらゆるものを奴隷にしたい赤ちゃん… か。
 ちなみに人間の骨は40,000年くらい前から変わってないき、それなら『脳』も変わってないのかもな。

 さて、エプスタインの話はともかく、こうやって何を信じたらええのか判らんなったときには、一番信じられるものを信じることや。今回の記事の中で言えば、
 ✋職人... お手本で暗黙知を教える(SECIモデル 経営学者 野中郁次郎)
     甘えを許さず幼児性から脱却させる(エディプス 精神科医 ジャック・ラカン)
 🇯🇵天皇... 娘を嫁がせて往還機能を起動させる(往還機能 人類学者 レヴィ=ストロース)

とかになるね〜。
 歴史の長い職人や天皇は正解をやっとるのや。一流の専門家・学者が言っとることを、ず〜っと昔からやり続けとるのが、職人であり天皇なんやで。んで、天皇の真似をするってのは不可能やから、オススメなのは職人の真似やな。”もどき”やなくて、本物の職人の真似をすればええ。だって、それが一番長く続いとるのは誰もが知っとるやろ。揺るぎない事実ってやつや。
 どの職人でも身体を使うことはやっとるし、精神の成長を促すことになるしな。実際、いわゆる”ヤンチャ”な奴が、職人の世界で真っ当な人間になることはあるやん。身体を使いつつ作業に必要な知識も覚えていくことで、自然と『知行合一』ができる。結果、精神が成長する。

 ストロースの往還機能は『収束と発散』と考えることもできる。天皇に”収束”して国ができたから、収束した者は、それを”発散”する使命があるのや。それやのに、収束だけして自分のところで”止めた”らあかんわな。循環がなくなるき、どんどん衰退していくことになる。まさに今の日本よね、流れない水は”腐る”だけやで。

 社会でも大成した人は発散するしな。有名人ではかっちゃん(高須克弥さん)とかケント・ギルバートさんとかかな〜。
 かっちゃんは自分の子どもたちに、別々の医学の道に行かせる。
 ケントさんは自分の子どもたちに、別々の言語を修得させる。
と、これも”発散”なんや。収束した者は発散する使命がある。”別々”ってところが大事なんや。みんな同じやない。方向が違うき、まさに”発散”になるんや。

 んで、収束と発散には”公”と”私”がある。子どものころは発達途中やから当然『公 → 私』の流れで社会の恩恵を受け取る/貰う。それが大人になると『私 → 公』の流れで社会に恩恵を返す/与えることになる。
 子ども… 公 → 私 … 貰う… 弟子
 大人… 私 → 公 … 与える… 師匠
ってことやで。

 いろんな国の言語を知ることは、その国の文化= 価値観 を知ることにもなるんや。なぜなら言語には、その国の人がどんな風に世界を見ているのかが現れるからや。国によって抽象と具体の語数が違うから、ってことは世界の見方/捉え方も違うに決まっとるわな。

 英語やと”羊”を意味する言葉はシープとマトンの2つあるのに対し、フランス語にはムートンの1つしかない。
🇺🇸 …
 生きた羊 = シープ
 食べる羊 = マトン
🇫🇷 …
 生・食 = ムートン
と、なっとるから、英語は具体の2つに区別(= 発散)してて、フランスは抽象の1つにまとめ(= 収束)とるのや。

 だから言語を知ることは、その国の価値観/文化/風土/思想なんかを知ることと同義なんやで。

 知行合一は人間の成長に必須なのかもね。現代って、
 📚 知の人は、行が足りんから子どものまま👶
 👫 行の人は、知が足りんから子どものまま👶
となっとる。ホンマに“中途半端”なヤツらやで。両者とも子どものままの原因は、知行合一ができてないからと言えるのかもしらんし。

 世界の中で、一番長い歴史を持つ日本。その中で昔から伝えられてきたのが職人であり天皇… だったら、それが一番信じられるものやろ。多様性が大事なのであれば、世界の中で唯一滅んだことがない日本は、それだけで十分に”個性的”やと思うで。

 日本って”何”だっけ?

ってことをもう一度考えてみぃ。




Ending.

Music Travel Love (Extreme Cover) - More Than Words

〜おわりに〜

天皇はつい最近も皇室から嫁に出してましたね。

(これが往還機能やで)

ストロースの言う”交換”が国/社会を作っているのです。

(SECIモデルは提唱者の野中さんが1980~90年代にかけて
作ったものやき、ちょうど昭和と平成の”中間”になるんや)

SECIモデルは知行合一のことで、知行合一には、
 知 → 行
 行 → 知
の2つの流れがあります。これをSECIモデルで言えば、
 知 → 行… 表出化/連結化 → 内面化/共同化
 行 → 知… 内面化/共同化 → 表出化/連結化
となります。

(形式知 → 暗黙知
暗黙知 → 形式知
ってことやで
知行合一は陽明学をやってもええけど
SECIモデルの方が判りやすいならそっちでええんやで)

昭和は身体を使い過ぎて愛着障害になり、
平成は身体を使わなさ過ぎて近親相姦になったので、
令和は両者の”中間”にしなければなりません。

(そうやないとまた同じ間違いを繰り返すことになるからな
職人 = 師匠 に怒られるで)

昭和も平成も半分は正解なんですよ。

(心配せんでええで
知識… 平成
行動… 昭和
だから、一方しかやらんなら
必ずもう一方は抜けるからな)

テストだと50点は低いと感じるかもしれませんが、
紙の上は現実の一部分でしかないので、50点はすごいと思います。

(なかなかやるやん、こいつら
ええ線いってんちゃう?
よう頑張ったやんか)

いい線いってますよ〜、自慢していいですよ。

(昭和 = 次元大介
平成 = 赤井秀一
と、してもおもしろい)

その対決が見たい気持ちは判りました。

(『まどか☆マギカ』の映画での”ほむらvsまみさん”
くらいの銃撃戦をやってほしくてな)

ほうほう、なかなか熱いですね。
ルパンって思ってるほど銃撃戦ってないですからね。

(あーゆー”至近距離”でのはほとんどないやろ)

確かにそれは見てみたいです。映画リベリオンの”ガン=カタ”みたいな。
あと、SECIモデル = 知行合一 は『思考の相対性原理』と言えますね。

(物理法則は座標系が変わっても同じ方程式が成り立つってのが
”相対性原理”で、変換することを”ガリレオ変換”って言うんやで )

そうすると、
 文系の座標系... 陽明学 知行合一
   ↓(ガリレオ変換)
 理系の座標系… 経営学 SECIモデル
と、できるのです。

( ガリレオ変換は物理学の中のものやき
学問の壁を越えて変換する場合は”養老変換”と言いたいね〜
これぞ変換学(metamorphosology)や)

養老孟司さんは等価交換の重要性を述べてましたしね〜。
勝手に名付けると怒られますかね。

(まぁ素人が言っとるだけやし、ええんやない
知行の融合も大事やし、文理の融合も大事や
養老さんの等価交換(養老変換)は『思考の相対性原理』なんや
異なる学問/座標系に変えても同じ方程式で記述される)

会社の上層、もしくは中層は知行/文理の融合をするのも仕事です。
そのために勉強すべきなのは、
 ・構造主義
 ・心理学
 ・歴史
などですかね〜。

(精神疾患や発達障害もやっといた方がええで
んで、境界知能(IQ80前後)の人たちを改善するときは
下層だけやなくて中上層も見るべきやな)

というのも、上層にも発達障害の人がいるからです。
東大生の1割はASD(自閉スペクトラム症)と聞いたことがありますから。
現実を見たくない ≒ 見ないとなるので、
人格障害/発達障害と数字しか見ない上層は、
似たもの同士”になってしまうのですよ。

(境界知能はだいたい下層におるけど
下層だけ見ても意味がないんや
下層と上層、両方同時に見るしかない)

知 と 行
文 と 理
下層 と 上層
 分ける と 合わせる
順行 と 逆行

そして、過去と未来

相反する2つを同時にやるんやで)

一時期、経営者は”哲学”をやれって言われましたよね。
哲学は物事の多層/多面をすべて同時に考えることになるからです。
会社の経営を考えるときは多層/多面で考えますよね。
だからまずは2つで練習してみましょう ってことです。

(等価交換と同じくらい大事なのが今回紹介した『視点の相転移』や
これは要は数学の”補元”のことなんやけど
まずは 時系列の逆転 = 因果の逆転 と考えとけばええで)

哲学でオススメはホワイトヘッドです。
数学の論理学も関係しているので。

(ホワイトヘッドは、人は具体と抽象を錯誤すること
具体と抽象を取り違えることを指摘しとったりもするで)

人間が作った電気回路にはAND・OR・NOT回路があります。それぞれ、
 AND回路 = 演繹
 OR回路 = 選択
 NOT回路 = 相転移
と、変換できるかもしれません。

(境界知能や発達障害はNOT回路が常時発動しとる状態なのかもね)

相転移はいろいろ便利な思考なのですが、
意識せず無意識に発動してしまっては、物事を正確に捉えられなくなるのです。
どんなものも一長一短ですね。

(『ヒトが作り出すものは、ヒトの脳の”投射”である』
エルンスト・カップの言葉や
人間の脳も電気回路に近い構造をしとるのかもしれんで)

というかAIはそうやって作られてると思いますけどね〜。

(そういやそうやな
んで、ストロースの往還機能は”等価”やないとあかんのや)

交換は常に”等価”じゃないとダメなんですよ。
もし交換するものに”差”があれば、どんどん片寄っていきますね。

詐欺師の手法やな
変な”片寄り”が最終的に戦争をもたらすんやないかね
つまり、破滅や滅亡よ)

欲の深い人は片寄りを利用して欲を満たすのです。
それなのに”表面上はキレイにしたい”のも欲求のためでしょうね。

(汚いものは他人に、キレイなものだけ自分に… か
そりゃ戦争になるわな
アインシュタインでさえ解けなかった問題や
だからフロイトに質問したのや)

物理学のアインシュタインが解いた問題はもう解けません。
が、アインシュタインが解けなかった問題なら、まだ解くことができます。

(世紀の天才が解けなかった問題を解いたら
これこそノーベル平和賞やろな)

そしてそれは、会社などの組織であれば応用の効くものになるはずです。
なぜなら、国同士の戦争は突き詰めれば人間同士の争いですから、
会社の中でもあるものだからです。

(むしろ、会社の中の問題を解くことで
それを戦争にまで応用していけるかもね
戦争でも会社内のいざこざでも、そこには”無意識”があるからな
どっちから解いてもかまわん)

円周率を求めるときの”はさみうち”みたいなもんですよ。

(双方向からの中間に”解”はある)

ホーキング博士は物理法則の”真ん中”にあるものが見えないことを、
比喩で「ドラゴンの顔が見えない」と言っていましたね🐲

(そういや今年は辰年やったな
眠れる竜が目覚めるときがきたのかもね〜🐉)

いよいよ化けの皮が剥がされるかもです。

(記事タイトルの『FACE/OFF(化けの皮を剥がす)』は昔の映画で
ニコラス・ケイジとジョン・トラボルタの作品や)

凶悪犯と捜査官の”顔が入れ替わる”のです。
そこから両者の対決が始まる。

(クライマックスではお互いに銃を”鏡に向かって撃つ”のや
鏡に写るのは敵の顔ってことやで)

世の中にはジャニー喜多川やエプスタインのように
善人の顔をした悪魔がいるかもですからね。

(あるいは理不尽な鬼の顔やけど、本当は仏だったりね)

 善と悪
 鬼と仏
これらは簡単に入れ替わる = 相転移 しますから。

(視点の切り替えを練習させたいなら
日本史と世界史をつなげることやな
「日本で〇〇があったときに、世界では△△があった」
みたいな感じで)

★西欧にニュートンやライプニッツがいた時代、日本には三浦梅園がいた。
種子島に鉄砲が伝来した年、ダ・ヴィンチ の意志を受け継いだヴェサリウスが解剖書を出版した。
★ボエティウスの音楽教程が書かれた5世紀は、日本には巨大古墳が作られていた。
… などなどですね。

(三浦園の”梅”は『令和』に関連するしな)

令和は、奈良時代の”梅花の宴”で詠まれた万葉集の歌が元でしたね。

(”世界史”と言うからには、中国の歴史も興味深いで
時計や羅針盤、火薬なんかは
西欧より中国の方が早く発明してたみたいやしな)

古代の中国は現代の中国とまったく違う国ですからね。
一体何がどうなったらこうなるんだ? と感じますよ。
なにも受け継がれていない… 儒教くらいですかね〜。

(そこが歴史の面白いところや
中国は道教が復活すればええのにね
歴史の流れ、栄枯盛衰は会社の発展にも応用できるやろ)

儒教 - 孔子… 人工… 都会
道教 - 老子… 自然… 田舎

日本には”老荘思想”の方が合ってますよ。一万円札は渋沢になりますけど。
様々な視点を知ることが問題解決につながっていくのです。

(それなのに自分に都合の悪いところを抑圧/弾圧しとったら
結局は巡り巡って自分に跳ね返ってくるのや)

何度も何度も忠告したんですけどね〜。
どうやら聞く耳持たぬの姿勢は変わらない = 成長しない ようです。

(成長しない = 滅亡 やで
救いようのないバカとはこのことやな
ざまーみぃ、おれのゆーたとーりやー)

今まで”捨てて”きたものは、本当に要らないものだったのでしょうか。
振り返ってみるといいかもしれません。

(あいつらホンマに何も判ってないからな
やれやれ...)

仕方ないでしょう。
子ども(餓鬼)の面倒をみるのは、いつの世も大人(鬼)の役目ですから。

(餓鬼 = 欲望の塊 = メルエムは
母親も愛した人(コムギ)も死なせることになったやん)

愛する人を生かすには離れるしかないなら、離れるのが大人です。
メルエムにはまだそれができなかったのですよ。

(離れなかった結果、共倒れ
”子どものまま”ってのはダメですな
欲望と愛情は瓜二つやけど、まったく違うものやで)

自分の欲望を、他人への愛情に相転移できなかった… ってことです。

(弟子のままの視点/思考ではあかんのや
師匠の視点/思考にならんと、結末は”滅び”しかなくなる)

コムギの母性は境界知能特有のものですね。
制御ができていない。

(だから同情を利用/強制するなって言っとるんや
見とると”エグい”ねん)

非情な人間には自覚がないですから。

(いいかげん大人になれよな〜、悪意くん♪)

ではではこのへんで。

(ほなまたな〜)




*参考書籍*
 ・寝ながら学べる構造主義 内田樹 文春新書
 ・心はすべて数学である 津田一郎 文春学藝ライブラリー
 ・音楽教程 ボエティウス 訳/伊藤友計 講談社学術文庫
 ・レオナルド•ダ•ヴィンチ 片桐頼継 講談社学術文庫
 ・自然科学の歴史 端山好和 講談社学術文庫
 ・物理学の原理と法則 池内了 講談社学術文庫
 ・唯脳論 養老孟司 ちくま学芸文庫






レオナルド・ダ・ヴィンチ
あなたが伝えようとしたことは、間違っていなかった




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?