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連載小説『ヒゲとナプキン』 #7

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 JR新宿駅の南口を出ると、正面には完成して間もない高速バスのターミナルビルが目に入った。その奥にそびえる巨大なデパートを見上げながら、スーツ姿のイツキは、「あそこは新宿高島屋なんて名乗っておきながら、住所は渋谷区なんだよな」などと同僚のタクヤが得意げに語っていたトリビアを思い出していた。信号が青に変わる。イツキは人並みに紛れて甲州街道を渡ると、代々木方面に歩を進めた。

 一軒の雑居ビル。イツキはエレベーターで三階に上がった。

〈高野メンタルクリニック〉

 白いプラスチック製のプレートに黒い文字という素っ気ない看板が貼りつけられた扉。その横にあるチャイムを押すと、中から「どうぞ」という声が聞こえた。

「失礼しまーす」

 イツキが小声で挨拶しながら中に入っていくと、布製の衝立の向こうに無機質な事務机が一台ポツンと置かれている。その前には白衣を着た初老の男性が座っていた。院長の高野だった。院長と言っても、他にスタッフがいるでもない。新宿と代々木の間にある雑居ビルの片隅で、高野がたった一人で切り盛りする小さな診療所だった。

 イツキは高野の前にあるキャスター付きの丸椅子に腰を下ろすと、開口一番、「やっぱり生理になっちゃいました」と頭をかいた。その言葉を聞いた高野は茶色いべっ甲フレームの眼鏡をずらして机上のカルテに目を通すと、「前回が九月の……ああ、そりゃ無理もない」と言って、患者のほうに向き直った。

「じゃあ、先にやっちゃおうか」

「お願いします」

 イツキは特に指示を受けるでもなく、診察室の奥に置かれたベッドの前まで行くと、ベルトを外し、ズボンを腰まで下ろした。しばらくカチャカチャと音を立てながら準備していた高野が注射器を手にして戻ってきたのを確認すると、ベッドに上がって四つん這いになり、ボクサーパンツをずらして尻を出した。アルコール消毒のための脱脂綿がひやっと尻たぶを撫でる。

「さっきカルテ見たら前回は右に打ったみたいだから、今日は左ね」

「はい」

 イツキの返事を待たずして、左の尻にチクッと針が刺さる。高野の腕がいいのか、イツキが慣れてしまったのかはわからないが、ほとんど痛みを感じることもなく数秒が経った。

「はい、終了」

 高野の声かけにパンツとズボンを元に戻すと、イツキは先に座っていた灰色の丸椅子に再び腰を下ろした。注射器の処理を済ませ、手を洗って戻ってきた高野は、イツキと向かい合うようにして腰を落ち着かせた。

「それで。調子はどうだい?」

 ゆったりとした低い声。くたびれたストライプのワイシャツ。白髪混じりの髪がきちんと整えられている様は、これまで一度も見たことがない。

「相変わらずですよ」

 ため息混じりの短い言葉で返答を済ませたイツキの頭では、昨晩の記憶が自動再生されていた。ジンに突きつけられた「息を潜める日常」への問い。それを社会のせいだと嘆きながらも、もしかしたら自分が怯んでいるだけなのかもしれないという新たな感情が芽生えつつある恐怖。そして、サトカとのもどかしい性行為——。

 何から相談したらいいのか。順を追って、ひとつずつ丁寧に解きほぐしていくことが最適だという気もするが、いつも通り、職場には「外回り行ってきます」と嘘をついて出てきた以上、そう長居するわけにもいかない。

「セックス……みんな、どうしてるんですかね?」

「なんだい、いきなり」

「いや、すみません。その……やっぱり難しくて」

 男性ホルモンの投与を始めれば、男性になれるものだと信じていた。たしかに声は低くなり、体つきも少しずつ筋肉質になり、ついにはヒゲも生えてくるようになった。背丈にやや難を抱えるものの、見た目だけで判断すれば、イツキは完全に男性としての肉体を手に入れたと言ってよかった。

 しかし、ベッドの上ではどうだろう。彼女の性感帯をやさしく、時には激しく愛撫する。彼女が感じる。絶頂に達してくれる。それは男として、この上ない喜びではあった。だが、それはあくまでも精神的な充足感だ。イツキ自身が肉体的に得られる快楽は、何もない。

 ならば、自分自身そうした肉体的な快楽を欲しているのか。答えはYESであり、NOだった。もちろん、本能は「キモチイイ」を求めている。だが、イツキが肉体的な快楽を得られる唯一の場所は、他ならぬ女性器だった。女性であることを示す溝に指を這わせ、女性であることを示す小突起を指でなぞると、背筋に電流が流れるような快感が走った。それが、何よりおぞましかった。

 性的な快楽を満たそうとすればするほど、これまで否定してきたはずの「女のカラダ」を実感してしまう。自分がオンナなのだと突きつけられる。気持ちいいのに、気持ち悪い。求めたいのに、求めたくない。自分でさえ秘部に触れることには大きな嫌悪と葛藤を抱えているのに、愛するパートナーに身を委ね、「女体としての」快楽に耽る姿を晒すことは、生き地獄に等しかった。

 サトカは、本当に日々のセックスに満足しているのだろうか。そんな不安も抱えていた。女性にとって、おそらくは最大の快楽である膣への挿入を、イツキは叶えてやることができない。以前に付き合っていた女性にせがまれ、男性器代わりにバイブを挿入したことがあったが、それまで自分には見せたことのないような恍惚の表情と叫び声に絶望を覚えて以来、そうした玩具に頼ることもできなくなってしまった。

 挿入だけではない。セックスとは愛の営みだと言われるが、それは一方的なものでなく、本来は双方向的なものであるはずだ。だが、イツキがパンツを脱ぐことを拒み、決して性器を触らせようとしない以上、二人の行為に双方向性があるとは言い難い。サトカの好奇心溢れる性格やこれまでの会話から透けて見える男性経験から考えれば、つねに受け身でいることを強いられるイツキとのセックスは、彼女にとってただ愛を確かめ合うという建前を超えるものではないことが容易に想像できた。

「うん、うん」

 時折、カルテにメモを取りながら話を聞いていた高野だったが、イツキの話が終わってからも、しばらく目を閉じたまま、じっと押し黙っていた。やがて目を開けると、イツキの面長な顔を見つめながら、穏やかな口調でこう言った。

「時間が解決してくれると、いいよね」

 相変わらず、拍子抜けするような答えだった。ジンの紹介で高野のクリニックに通うようになり三年になるが、一度だって具体的なアドバイスや指示のようなものを受けたことがない。いつもこうしてイツキの話に耳を傾けては、「それはつらいね」とだけ口にして、それきり高野も黙ってしまうことがほとんどだった。

 当初はそんな高野に物足りなさを覚えていた。だが、その適度な距離感が次第に心地よく感じられるようになった。所詮、自分の苦しみは誰にも理解されることがない。ジンのような同じ境遇を生きてきた者でさえ、わかりあえないこともあるのだ。それを医者だからと、「ああしろ、こうしろ」と指図されたのでは、きっと反発していたことだろう。穏やかな初老の男と過ごす時間は、イツキにとって男性ホルモンの投与だけでない効果をもたらしていた。

 ふと目をやると、高野の事務机に飾られている写真立ての前に、見慣れないチョコレートの箱が置かれていた。

「息子さん、チョコがお好きだったんですか?」

「ああ、うん。そうなんだ。今週で七回忌でね……」

 高野の息子は、当時通っていた高校でいじめに遭っていた。想いを寄せる男子生徒がいたものの、同性相手では受け入れられるはずもないだろうと、ずっと胸に秘めていたという。ところが、ある日の放課後、誰もいないはずの教室でその男子生徒の机に頬ずりしている姿をクラスメイトに目撃されてしまった。カシャというスマホに記録された音が、地獄の始まりだった。クラス中に写真を共有され、「ホモ」とからかわれ、担任教師にも冷笑された。不登校になるのに、そう時間はかからなかった。

 医師としてエリート街道を歩んできた高野にとって、進学校に通う息子が突如として不登校になったことは青天の霹靂だった。ある晩、息子の部屋を訪れ、何があったのかを問い詰めた。しばらく黙っていたが、やがて自分が同性愛者であること、それが原因でクラスメイトから激しいいじめに遭っていることを涙ながらに告白された。

 どちらかと言えば保守的な思想を抱いていた高野にとって、息子がいじめに遭っていたこと以上に、息子が同性愛者であるという事実は受け止めきれないほど大きなものだった。

「医者にでも行って、診てもらってこい」

 自分が医者であることも忘れて吐き捨てた言葉が、息子と交わした最後の会話だった。

 あくる日の朝、妻の悲鳴で目を覚ました。声をたどると、脱衣所で妻が泣き崩れていた。浴槽には手首から大量の血を流した息子が、力なく横たわっていた。

 LGBTという言葉さえ知らなかった六年前。そこからインターネットを徘徊し、文献を読み漁り、ひと通りの知識を身につけた。知れば知るほど、息子になんという言葉を向けてしまったのだろうと自責の念に駆られた。

 大学病院を辞めて、新宿に小さなクリニックを開き、四年近くになる。いまではイツキのようなトランスジェンダーだけでなく、同性愛などセクシュアリティに悩みを抱える者にとっての駆け込み寺のような存在として、当事者の間に知られるようになった。

 写真立ての中では、ニキビ面の青年が、高校の入学式の看板の前ではにかんでいる。高野は、写真立ての前に置かれたチョコレートの箱をちょんと指で弾いた。

「愚かな男ですよ……」

 言葉だけを追えば、息子と自分のどちらを指しているのかわかりにくかった。だが、深く目を閉じたその表情を見れば、答えは明白だった。

 これまで何度となく自分の苦しみを緩和してくれた恩人が、いまは自分の目の前で深い悲しみの一端を覗かせている。イツキは声を震わせた。

「だけど、息子さんがいたから、僕とかジンとか、多くの当事者が救われてます。息子さんが僕らを救ってくれて——」

 イツキの言葉が終わらないうちに、高野は絞り出すように言った。

「ありがとう……ありがとうね……だけど、あいつはもう戻ってこないんだよね……」

 その言葉に込められた絶望に、イツキは絶句した。数十秒という沈黙が、とても長く感じられた。

「時間が……解決してくれるといいですよね」

 結局、高野がいつもかけてくれる言葉がこの場には最もふさわしい気がした。


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※今回、トップ画を作成してくださったのは、第5話に引き続き、澤田麻由さんです。澤田さん、ありがとうございました! 

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