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連載小説『ヒゲとナプキン』 #17

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 暗闇の中で、小さな公園を見つけた。歩き疲れたイツキは吸い込まれるようにして公園に足を踏み入れると、隅にあったベンチに崩れ落ちるようにして腰を下ろした。誰もいない夜の公園を見つめながら、ポケットからスマホを取り出す。画面を点灯させると、季節外れのホタルのように、そこだけが明るくなった。

 ジンを見舞った病院のエレベーター前で、一週間ぶりとなるサトカからのメッセージを受け取った。

「子どもが欲しいの」

 しばらく、呼吸ができなかった。頭の中が真っ白になった。そこからどこをどう歩いてきたのか、ほとんど記憶がない。ただ赤信号で立ち止まるたびに、スマホを取り出してはそのメッセージが何かの間違いではないかと確認していたことだけが記憶の断片に残っている。

 暗闇の中で浮かび上がるメッセージ。何度見返しても、「子どもが欲しいの」という文字の並びは変わらなかった。イツキはスマホを無造作にポケットへ押し込むと、「ふう」と大きく息をついて天を仰いだ。オリオン座が、残酷なほどに美しかった。

「子ども、か……」

 声に出したら、涙が溢れてきた。何も考えることができなかった。何も考えたくなかった。ただただ放心状態で夜空を見上げていた。

 目を閉じると、サトカの顔が思い浮かんだ。ジンのバーでは、いつもケラケラと笑い声を上げながらグラスを傾けていた。一緒にサスペンスドラマを見ていると、「ねえねえ、イツキは誰が犯人だと思う? 私はねえ」と、目を輝かせながら推理を始めるのが趣味だった。イツキがたびたび作るニンニク入りチャーハンを「これ私の大好物」と言って、口いっぱいに頬張ってくれた。記憶の中のサトカは、いつも弾けるような笑顔だった。

 実際はどうだったのだろう。心の内側では、何を思っていたのだろう。笑顔の裏側では、どれだけ涙を流していたのだろう。そのことに、どうして気づいてやれなかったのだろう。

 サトカが悲しみや苦しさを抱えているなら、真っ先に寄り添い、手を差し伸べてやりたいと思っていた。それなのに、自分自身がサトカを苦しませていた張本人だった。そのことに何ひとつ気づかず、ただサトカが表面に浮かべる笑顔だけを見て、幸せな気持ちに浸っていた。

「バッカじゃねえの……」

 つぶやいた思いが、白い息となって宙に浮かんだ。途端に寒さを思い出した。両手を口にあてがって、「はあっ」と息を吐きかける。

「ほら、手を貸してごらん」

 寒い日には、きまってサトカが息を吐きかけてくれていた。

「私たち、冷え性だもんね」

 思い出のなかのサトカは、やっぱり笑顔だった。

 コートの袖口をまくり、手首の傷をそっとなぞる。当時は、生きていくことに絶望しかなかった。女性として生きていくことは望んでいなかった。しかし、男性として生きていくこともあきらめていた。女でもいられず、男にもなれず。自分はこの世に存在してはいけない人間なのだと思いつめていた。気づくとカッターナイフを手首にあてがっていた。

 十年前の傷跡を、深く自分と向き合ってきた証などと美談にするつもりはない。それでも、最近はこの傷のことも少しずつ愛おしいと思えるようになっていた。サトカとの暮らしが、現在の自分はもちろん、過去の自分も、そして未来の自分も肯定してくれているような気がしていた。

 そのサトカが、いなくなる。「子どもが欲しい」といなくなる。なんだ、やっぱり俺は、男なんかじゃなかったのか。なんだ、やっぱり俺は、この世に存在などしてはいけなかったのか。

「あああああああああああーーーーーーーっ!!!」

 深夜の公園で、ひとり大声を出した。それに呼応するように、どこからか犬の遠吠えが聞こえてきた。

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