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連載小説『ヒゲとナプキン』 #8


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「乙武洋匡の七転び八起き」
https://note.mu/h_ototake/m/m9d2115c70116

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 午後六時を過ぎると、タクヤはいそいそとデスクの上の書類を片づけ始めた。その間も、しきりにイツキに視線を送ってくる。しばらくは無視して仕事を続けていたが、ついに不自然な咳払いを始めた同僚に根負けして、イツキもデスク周りを整頓すると、カバンを持って立ち上がった。

「お、二人とも今日はこれで上がりか。飲みにでも行くか?」

 奥のデスクから聞こえるハリさんの声に適当な返事をしながら、二人は連れ立って会社を後にした。

「なあ、それで結局、何人来るんだよ……」

「ああ、四・四になったから。俺ら以外の男二人は、国内事業部の吉岡と総務の大越な。二人とも同期なんだよ。おまえ、中途採用だから知らないかもだけど」

 タクヤが仕事上でこんなにもリーダーシップを発揮する場面は見たことがない。職場とのあまりに激しいギャップに思わず苦笑いが浮かんだが、この後に待ち受ける乾いた時間のことを思うと、とても笑える心境ではなくなった。

「いくら数合わせとはいえ、他にいなかったのかよ。マジで気乗りしないんだけど……」

「頼むよぉ。ここまで来て、それを言うなって。今度メシでもおごるからさ」

「二次会には行かないからな。絶対に一次会だけで帰るから。いいな」

「まあまあ、そこは流れで。とにかく、ほら、相手に不快な思いさせるわけにもいかないからさ、楽しくやろうぜ」

 タクヤに連れられるがまま渋谷駅のハチ公口を出て、渋谷センター街を奥へと進んでいく。このセンター街は、若者たちのやんちゃが過ぎたせいであまりにイメージが悪くなり、一時は「バスケットボールストリート」と改名していた。だが、思いのほか定着しなかったために、再び「渋谷センター街」の名前に戻ったはずだが、はたしてそれは何年前のことだったろう——などと考えているうちにタクヤが予約を入れていた店に到着した。

 店員とはすっかり顔なじみのようで、何やら二人で談笑している。なぜかイツキにまで「いつもありがとうございます」と威勢のいい声をかける店員に案内され、間接照明の薄暗い個室へ。ほどなく吉岡と大越が、それから十五分ほどして二十代中盤と思しき女性四人組が到着した。

「乾杯〜‼」

「よろしくお願いしま〜す」

 八つのグラスがガチンと打ち鳴らされ、会の始まりを告げる。座席の配置、ドリンクや料理の注文、それぞれの自己紹介など、これで生計を立てていけるのではないかと思うほど見事な手際で、タクヤが見知らぬ男女八人の緊張を解きほぐしていく。さすがは同期だけあって、長身の吉岡も、浅黒く日焼けした大越も、タクヤの若手芸人顔負けの話術にさして驚く様子もなく、女性陣たちとの会話を楽しんでいる。

「山本さんは、下のお名前はなんとおっしゃるんですか?」

「あ、イツキです……」

 向かい側に座る女性がせっかく気を利かせて話しかけてくれたが、イツキは何ひとつ会話を膨らませることができず、そのまま萎ませてしまった。おたがい顔を見合わせて、愛想笑いを交換する。テーブルの向こうではタクヤを中心に盛り上がっているようで、時折、となりの個室まで聞こえるのではないかと思うほどの大きな笑い声が響いていた。

 向かいの女性は、あきらかに“ハズレ席”だ。彼女だって自分の向かいでお通夜のような時間を過ごすより、タクヤのいるあちら側でみんなと盛り上がりたかったことだろう。だけど、自分だって好きでここに来たわけではない。タクヤに人数が合わないからと懇願されて——などと脳内で必死に言い訳を探していると、そのタクヤから大声で名前を呼ばれた。

「おい、イツキ。この子も前橋出身だってよ」

 振り向くと、少しだけ頬を赤らめた水色のニットを着た女性がこちらを向いて手を振っている。イツキと同じく、群馬県前橋市の出身。タクヤはそれが会話のきっかけになればと話を振ってくれたようだったが、イツキは彼女に向かって軽く会釈するだけで、そのままやり過ごそうとした。だが、彼女も少し酔いが回っていたのか、タクヤに負けない大きな声でイツキに話しかけた。

「ええ、イツキさんも前橋なんですか。なんかうれしい。高校はどこだったんですか?」

「え、あ、俺? 高校? ああ、高校はもう県外に出ちゃってたから」

 咄嗟の嘘に、酔ったタクヤがいらぬ反応をする。

「あれ、おまえ高校も前橋だって言ってたよな。ほら、甲子園によく出るとこ」

「え、前橋学園ですか? それ、私の母校です!」

 イツキは、自分の中でシャットダウンボタンが押されたのを感じた。すべての思考が停止され、感情が流れ出ないように幾重ものロックがかけられた。ただ、とめどない汗が噴き出していることだけは、かろうじて理解できた。

「ちょっと、なんでつまんない嘘つくんですかぁ。一緒の学校とか、すごくないですか?」

「うん、ああ。ホントだね……」

 前橋は、捨てた過去だった。女性として生きることを強いられ、女性として振る舞った。誰もが、「山本イツキ」を女性だと認識している。誰にも、どうしても言い出せなかった。だから、東京に出てきた。

 女性として生きた前橋。男性として歩み始めた東京。そのふたつが交わることは、決して許されなかった。誰にも邪魔をされずに、男性として生きていきたい。女性だった過去とは決別したはずだ。なぜ、みんなこっちを見ている。なぜ耳をふさいでくれない。一刻も早く、この場から立ち去らせてくれ——。

 イツキの願いもむなしく、前橋ガールは地元の先輩にロックオンしたようだった。

「え、イツキさんもタクヤさんと同い年ってことは二十八歳ですよね。私は二十五だから、三コ上か。ちょうど入れ違いですね」

 イツキは手元にあった水を、音を立ててがぶ飲みした。

「あれ、でも待って。三コ上ってことは、お兄ちゃんと一緒だ。それだったら絶対に知り合いとかかぶってますよね」

 今度はおしぼりで額の汗を拭う。

「部活は? イツキさん、部活とかは何部だったんですか?」

「え、あ、目立たないやつだよ。文化系の」

 声が上ずった。タクヤにいじられ、一同から笑いが起きる。

「うちのお兄ちゃん、中川克彦っていうんですけど、わかります? サッカー部でそこそこ目立ってたみたいなんで、同じ学年だったら覚えてるかなと思うんですけど……」

「中川……君? どうだったかなあ、高校時代のこととか、もうあんま覚えてないなあ」

「ええ、そうなんだ。ウケる。山本イツキさんですよね。帰ったら、お兄ちゃんに聞いてみますね」

 兄と妹の間で交わされるだろう会話を想像した。頭の中に、冷たい風が流れ込んできた。どこからか金属を引っ掻くような不快な響きが聞こえてくる。全身に力が入らない。タクヤにあらかじめ予告していた通り、二次会には行かなかった。


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