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だから、旅することをやめられない。

この文章は、panasonicとnoteで開催する「#思い込みが変わったこと」コンテストの参考作品として主催者の依頼により書いたものです。

私が子どもの頃は、いわゆる“冷戦”と呼ばれる時代だった。アメリカを中心とする資本主義国と、ソ連を中心とする社会主義国が対立し、一歩間違えれば核戦争が起こるのではないかという緊張感のなか、私は育った。

そうした空気は、エンターテインメント作品にも反映されていた。ヒーロー物のハリウッド映画に出てくる悪役は、ソ連やロシアであることがほとんどだった。映画の中のロシア人は、いつも冷徹で、無慈悲で、まるで血が通っているとは思えない冷たい目をしていた。

こうして私は幼少期からの度重なる刷り込みにより、一度も訪れたことのない国に得体の知れない恐怖感を抱くようになり、一度も会ったことのないロシア人に映画の中の冷たい目をした“悪役”を投影するようになっていった。

そんな私が、ロシアへ行くこととなった。2013年のことだ。その年は、ロシアの首都モスクワで世界陸上が開催されることになっており、長年の友人である為末大さんも解説のために現地に滞在しているという。

まだ訪れたことのない国を旅することを人生の楽しみとしている私にとって、ロシアはいつか訪れてみたいと思っていた国のひとつだった。冬の寒さはもちろん、春や秋でさえ冷え込みが厳しいと聞いていたこともあり、世界陸上が開催される8月は願ってもないタイミングだった。

到着時の印象は、最悪だった。モスクワのシェレメーチエヴォ空港に到着すると、他の空港に到着したときと同様、車椅子ということで係員が案内してくれるのだが、この担当者がビックリするくらい愛想がない。もしかしたら英語を少しも話すことができず、私と彼がコミニュケーションを図ることのできる言語は存在しないのかもしれないが、それでも笑顔のひとつでも向けてくれればいいのにと残念に思うほど、体格の良い中年男性はしかめっ面のまま、私を荷物が届くターンテーブルへと案内した。

空港を出て、市街地へと向かった。国土の狭い日本から訪れた車椅子の観光客は、建物にしても道路にしても、そのスケールの大きさに圧倒的された。赤の広場もクレムリン宮殿も、カラフルな玉ねぎを載せたようにも見えるロシア正教会の大聖堂も、すべてがケタ違いに大きくて、地図を見た距離感と実際に歩いてみた距離感のギャップを埋めるのに、当初は四苦八苦した。

クレムリン武器庫博物館。車椅子非対応のため館内には入れなかったが、外観だけで圧倒される。

モスクワの市街地を歩いていて最も困ったのは、幹線道路を横断できないことだった。目的地へと辿り着くためには、どこかで幹線道路を渡らなければならないのだが、どこまで歩いても信号が見当たらない。韓国のソウルでも同じ目に遭ったのだが、そのときは「いざとなったら軍用機の滑走路として使用できるように信号を設置していないのだ」と聞かされて、妙に納得した覚えがある。もしかしたら、モスクワも同じ事情なのかもしれない。

しばらく進んでいくと、1km程度の間隔で道路を横断するための地下道があることがわかった。歩行者はこの地下道を通って向こう側に渡るのだが、重さ100kgある電動車椅子ではこの階段を昇り降りすることは難しい。どうしたものかと途方に暮れていると、そこに居合わせた女性が、「もう少し先に進むとエレベーターがあるよ」とジェスチャーで教えてくれた。これは助かったと彼女に礼を述べて直進すると、当てにしていたエレベーターは見事に故障していた。そういえば、私以外、街中で車椅子の人を見かけることはなかった。どんよりとした空模様をそのまま写したように、私の心はすっかり曇ってしまっていた。

2日目は快晴だった。この日は、世界陸上を観に行くことにしていた。競技場の正面入口で為末さんと待ち合わせ、記念撮影。「まさかモスクワで会える日が来るなんてね」などと会話を交わし、彼はテレビ局のクルーと合流していった。

為末大さんと。9年前、おたがい若い!

私は受付に行って、チケットを係員に手渡した。空港に到着したときと同じように、スタッフが案内するからしばらく待てと指示を受ける。また仏頂面の中年男性でも迎えに来て、この抜けるような青空と対照的などんよりとした気持ちにさせられるのだろうか……などと浮かない顔をしていると、私の前にやけに陽気な二人組が現れた。

「それじゃあ行こうか」

そう言って歩き出した二人組。20代中盤といったところだろうか。白いキャップをかぶった男性は英語が得意なようで、私を座席へと案内する間、「どこから来たのか」「ロシアは初めてか」「エルミタージュ美術館へはもう足を運んだか」などと、しきりに話しかけてくれる。

フレンドリーなボランティアスタッフと。ずっとおしゃべりしてた。

もう一人の男性は英語がそこまで得意でないのか、あまり話しかけてくることはなかったが、彼の相棒と私が話している様子をにこやかに見守ってくれている。これまでも私はスポーツライターとしてシドニー五輪やアテネ五輪など、国際的な大会を何度も取材してきたが、そのときに現地で感じたオープンマインドでフレンドリーな雰囲気を、まさかロシアでも体験できるとは思っていなかった。しかも、到着初日に空港でひどく不機嫌なオジサンに案内されたり、どこまでも続く幹線道路を車椅子で渡れなかったりといった体験をしていたから、前日とはまるで別の国に来たような錯覚に陥っていた。

彼らの案内で、私の座席があるゲートまで来た。だが、ここから先は階段しかなく、スロープもエレベーターもないという。英語の堪能な彼が、目配せをして相棒に合図を送る。さらに周囲にいたボランティアスタッフを数人呼び集めた。「せーの」と言ったかどうか定かではないが、屈強な若者たちに抱えられ、100kgある電動車椅子と私の体がふわりと宙に浮いた。

階段は4人がかりで抱えてくれた!

ウサイン・ボルトが圧倒的な速さで金メダルを獲得するシーンをこの目で見ることができた興奮を噛み締めながら、私は市街地に戻るべく、タクシーに乗った。運転席に陣取るドライバーは40代と思われる男性で、少しだけ英語が話せるようだった。私は到着初日の鉛色の思い出と、スカイブルーに彩られたこの日の思い出とを交互に思い浮かべながら、「なぜ不機嫌さを隠さない人がやたら多いのか」と単刀直入にドライバーに訊いてみた。すると、こんな答えが返ってきた。

「ソ連時代は、仕事中に笑顔を見せることは不謹慎だという文化があった。しかし、いまの若者たちの間にはそうした文化がない。だから、ある年代から下の世代は、仕事中でも笑顔で接客してくれる人が多いはずだよ」

なるほど、そういうことだったのか。空港で案内してくれたしかめっ面のおじさんも、パン屋でニコリともせずお釣りを渡してくれたおばさんも、もしかしたらソ連時代に叩き込まれた習性によって、勤務中の笑顔を奪われてしまったのかもしれない。

また、そのドライバーはこんなことも言っていた。愛想笑いのできない中高年世代ではあるが、日本のことは非常にリスペクトしている。特に車や家電製品などモノづくりに対する信頼が厚く、日本製の商品を持っていることはひとつのステータスなのだ、と。

「そんなにリスペクトしてくれているなら、もう少し態度に表してくれたっていいのに……」と思わないこともなかったが、日本をそこまで高く評価してくれていると聞いて、やっぱり悪い気はしない。私のなかでロシアの年配層を見る目が少し変わったのと同時に、これまで彼らに抱いていた感情について、わずかばかりだが反省してみたりもした。

酒場で仲良くなったロシア人男性と。

最終日の夜も、予約したレストランに行こうと思ったら店の入り口に10段ほどの階段があり、どうしたものかと困っていたら、どこからともなく屈強な男たちが集まってきて、私を電動車椅子ごと抱えてくれた。彼らは終始無言で、こちらが礼を述べても表情ひとつ変えずに立ち去っていった。無愛想だけれど、不親切ではない。そんなロシア人気質を、わずか数日間の滞在だったけれど、私は少しずつ理解し始めていた。

今年2月、ロシアがウクライナに対する軍事侵攻を開始した。国際紛争には双方の言い分があることは承知しているが、なんとか軍事的手段ではない方法による解決がなされないだろうかと祈るような思いで戦況を見つめている。

もしかしたら、今後しばらくは今回の侵攻による国際情勢の変化が、以前のようにエンターテインメントにも反映されるようになるのかもしれない。そうなれば、おそらくは次世代の人々も、当時の私がそうだったように「ロシア人=血の通っていない冷たい人」というイメージを抱くようになってしまうかもしれない。

今回のことは、決して許されるべきことではない。それでも、私はあえて言いたい。

「あなたは、ロシア人と話をしたことがありますか?」

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