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すぐ囚われてしまう。


最近、様々な”囚われ”に気付くことが多い。

だれにでも「こうあるべきだ」という、囚われに勝手に支配されていることはあると思う。

わたしは少し前まで、固定観念の囚われに支配されていることにすら気づいていなかった。

あるとき、囚われに雁字搦めになって身動きがとれなくなっていた自分に気付いた。自分の末期を見た気がした。”自分”がわからなくなっていたのだ。

それから、外側に向きっぱなしだった矢印を自分に向けること専念した。
でも、簡単なことではない。今でも意識していないとすぐ引っ張られてしまう。癖ってしぶとい。

囚われは小さなことから大きなことまであるけど、小さな囚われから抜け出せなければ、大きな囚われから抜け出すことも難しいだろうから、日常の小さな囚われを見逃さないように気を付けている。





今回気づいた囚われは、note。

noteを開設する前、アメブロを少しやっていた。だけど、なぜか心が躍らなかった。なにかが違ったんだと思う(アメブロを否定してるわけではなく、わたしの中のなにかと合致しなかった、それだけのこと。)

noteはsimpleで雰囲気がすきなのに、敷居が高く感じていた。
きちんと書かなくては‥みたいな‥そんな気持ちになっていた。
そんなことないはずなのに。
でもここで書きたい。という気持ちは強かった。

なんでこうなるんだろう‥わたしは固定観念がつよいんだろうな。

「こうであるべき」なんてこの世界にないと思うの。
なのに、先行して「こうあるべき」で世界を作ろうとしちゃうから厄介。笑


わたしは言葉で表現することがすき。プロではないし、良きとされている文章が書けるわけではないけど、小さい頃からやっていたわたしを表現するツールなのです。

お仕事のことも書きたいし、伝えたいことも書きたいし、なんでもない日常も書きたい、文章にするほどでもないこともさくっと書きたいし、だいすきなヨガのことも書きたい、だいすきな本のことも韓国のことも旅行のことも全部書きたい。

どれひとつ欠けてもわたしではないし、他のだれかにとってはどうでもいいことでもわたしにとっては命と同じくらい大切なこともある。

色んな要素で出来上がっている自分と今をきちんと書いていきたいのだ。

noteってブログよりお気軽さがないなぁ‥と思っていたけど、きっとそうじゃない。そんなわけない。軽くたのしく自由に表現している人たちがたくさんいる。

noteがどういうものなのかは、どういうものにしたのかはクリエイターが決めたらいいと思うんだ。

いつかこのnoteがわたしの名刺代わりになる日が来るといいな。

なんでもないことからきちんと書きたいことまで全部をことばで表現していこうと思う。よろしくお願いします*


ひとつ囚われから解放されて、また一段と軽くなったのでした!

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