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だれかや世界へのジャッジは、同時に自分自身を縛りかねない。

今朝のできごと。

ある女優さんが出ているCMを見て母が「〇〇のカレンダーすごく売れてるらしいよ。1位と3位だって!」って言ってきた。(名前伏せてるけど、この情報で誰かわかってしまうかな‥)

以下、その後の会話。

わたし:「へー!そうなんだ。」
母:「なにがいいのかな?」
わたし:「かわいいじゃん、こういう体形もいいんじゃないかな、ヘルシーで柔らかそうだし」
母:「でも、〇〇ってもういい年だよね?」
わたし:「確か、30代後半だったと思うけど、よくない別に?」
母:「・・・」





わたしの母は(こんな言い方よくないのかもしれないけど)考え方が凝り固まっている。こういう会話は日常茶飯事。そのたび、わたしは「別に良くない?」と返し、母は" ジャッジ "していたことに気付き、バツが悪そうな顔をする。でも繰り返してる。笑 

この女優さんはカレンダーを出すことが義務なのか(おそらくデビュー当初から毎年出しているのだと思う)自分がやりたいことで楽しんでいることなのかはわからないけれど、ランキングに入っているということは需要と供給が合っているということでもあるし、それに「何歳であろうとなにしたっていい」はずなんだ。


【年齢】というのは、どんな時でも(何歳になっても)見えないラインに区切られているなぁ、と感じる。

今回の母を見て、他人へのジャッジは時に自分をも縛りかねないなぁと思った。他人へのジャッジは自分自身が自分に降すジャッジでもあるんよね。母はこの時点で「30代後半の人が水着を着る」ことに対してなんらかの違和感を感じているのだろうと思うけど、それは同時に母自身も30代後半で水着を着ないってことになる。

これは母自身の本心なのだろうか?本心なら全然いいし、そういう考え方もあるのね。って思うだけだけど、もし、世間の基準や人の目を気にしているのであれば、60代目前の母も水着を着て楽しんでほしいな。と思う。

わたしは、30代後半でも40・50・60代‥であろうと水着は着たければ着ればいいと思う。水着に限らず、お洋服もだけどね。TPOさえわきまえてればなんでもいいと思う。

そもそも世間の基準や常識的なものにも、はじまりが存在していて、それは”だれか”の考えにすぎないんだよね。一定数同じ考えの人がいたから、広まって常識になっているだけだと思う。でもそれって果たして本当なのかな?

例えば、日本から出れば、日本の常識はどこかの国では非常識になるし、その逆も然り。なので、常識なんてものは時にあてにならないなぁと思うし、100人いたら100通りの考え方が存在することは当たり前で、それでいいし、そこにジャッジはいらないと思う。

わたしは、26‐28歳のときに結婚に対してすごく焦っていた。【結婚適齢期】ということばにずいぶん踊らされていたなって思う。結婚は年齢じゃなくて自分自身のタイミングでいいんだよね。その時は気づかなかったけど、今は心底世間が作ったタイミングではなくて、自分自身のタイミングを大事にしてよかったと声を大にして言いたい。

人の目、基準に合わせて、自分が満たされるのであればそれでいいけど、きっとそんな人ばかりではないはず。

こんなことを書いているわたしもまだまだ自分のジャッジに自分が苦しんでいることがある。年齢のこと見た目のこと、こうあるべきだという考えに縛られて動けなくなるときもある。でも、動けなくなっている自分に自分自身で気づいてるからまだまだ大丈夫なんだろうと思う。

だれかや世界をジャッジするというのは、同時に自分自身の可能性を狭めることになりかねない。大きな視点と、広い心、柔らかい頭でありのままでたのしく過ごしたいと思う。

とりとめのない文章になってしまったけど、
【みんな違ってみんないい】ってことを書きたかったんだ。

今日の午後は来週からはじまる講座の準備をします。
すてきな月曜日をお過ごしください*



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