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菱田春草と上村松園~春草晩年の未完成画《雨中美人》をめぐって~(3)

2  《雨中美人》の構想に結びつく可能性がある春草と松園との具体的な接点
 《雨中美人》では、なぜ女性像がモチーフに選ばれたのだろう。一つの可能性として、京都画壇の上村松園との関わりによる影響をあげ、春草と松園との間における《雨中美人》の構想へと結びつく接点について、具体的に追ってみる。

(1) 展覧会への出品および受賞
 1874年生まれの春草は、1875年生まれの松園とは1歳違いで、ほぼ同時期に活動していた。二人とも展覧会への出品を重視し、賞も受けてきており、下表のように出品と受賞に重なるところがある[註13]。
 春草は、若いころから「朦朧体」という先駆的な表現に取り組み、賛否両論の渦中で注目されてきた。一方、松園は、美人画を描く女性画家として京都で知られ、1900年の第9回絵画共進会で春草らと並ぶ銀牌を受賞して、東京でも知られるようになった[註14]。
 二人の出品と受賞がたび重なる状況をみると、着実に活躍する同輩として互いに意識しながら、東京を共通の活躍の場として、春草が松園の作品を目にする機会も少なくなかっただろう[註15]。

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(2) 同じ展覧会での審査員への委嘱
 春草は、絵画共進会の審査員に第7回(1899年)から就任したが、さらに、1910年2月の巽画会[註16]第10回絵画展覧会で審査員に委嘱された。
 同展では、巽画会の拠点の東京だけでなく京都にも範囲が広げられ、新進画家であった松園をはじめ、京都画壇の画家たちも審査員に委嘱された[註17]。
 こうして、春草と松園は同じ審査員の立場で直接的に接点を持つことになった[註18]。

(3) 松園から春草への依頼作品の存在
 松園は1910年5月に、唐人物という題材で作品制作を春草へ依頼した[註19]。構想が決まれば筆は早かったとされる春草[註20]には珍しく、2点の下絵を描くほどの慎重さで臨み[註21]、約2か月をかけて制作した。
 その作品が、唐美人図一幅《仙女(霊昭女)》である。完成は1910年7月で[註22]、《雨中美人》が構想された時期のまさに直前である。

 以上のような春草と松園との接点をみると、二人は直接的な影響関係にあったといえる。特に依頼作品は、美人画の松園を意識した面が強く、当時の春草には珍しい女性像の実作であった。研究熱心な春草にとって、こうした美人画の松園との接点が、女性人物画の可能性を再認識する機会となり、《雨中美人》の女性群像の構想へつながったものと考え得る。

<註>
[13]表「春草と松園の出品及び受賞が重なる展覧会の例」は、下伊那教育会編『菱田春草総合年譜』(下伊那教育会、1974年)、『没後110年特別展 菱田春草-故郷につどう珠玉の名画』(飯田市美術博物館、2021年)、村田真知編『上村松園書誌』(美術年鑑社、1999年)、『上村松園全随筆集 青眉抄・青眉抄その後』(求龍堂、2010年)などを基に作成した。
[14]草薙奈津子『日本画の歴史 近代篇』、中央公論新社、2018年、197ページ。加藤類子『虹を見る 松園とその時代』、京都新聞社、1991年、45ページ。
[15]これらの他にも、例えば、松園はセントルイス万国博覧会(1904年)に《春ノ粧》を出品し銀牌を受賞しているが(村田真知編『上村松園書誌』(AA叢書7)、美術年鑑社、1999年、169ページ)、渡米中であった春草は同年9月にセントルイス万国博を見学しており(『没後110年特別展 菱田春草-故郷につどう珠玉の名画』、飯田市美術博物館、2021年、132ページ)、そこで松園の作品も見ることができたと考えられる。また、松園が第1回文部省美術展覧会(1907年)に出品し三等賞第一席を受賞した《長夜》は、岡倉天心の買い受けになったとされる(日出新聞1907年11月11日記事「閨秀画家の名誉」による(加藤類子『虹を見る 松園とその時代』、京都新聞社、1991年、65ページ))。天心は春草の師であることから、何らかの機会にこの松園の作品を目にした可能性がある。
[16]巽画会は、日本画家・松本楓湖(1840-1923)の門人を中心とした穏健漸進派の青年画家を中核として、1899年に結成された美術団体。1905年から毎年1回展覧会を開催し、画派や地方に関わらず範囲を広げることで発展し、「日本美術院別動隊」「文展予備軍」ともいわれた(日本美術院百年史編集室編『日本美術院百年史 3巻上 図版編』、日本美術院、1992年、393~396ページ)。
[17]巽画会第10回展で同じく審査員に委嘱された日本画家・鏑木清方(1878-1972)は、後年執筆した随筆集の中で、その審査の様子を記述しており、審査での春草や松園の様子についても触れている(鏑木清方『こしかたの記』、中央公論美術出版、1961年、333ページ)。
[18]1910年5月27日付 菱田春草宛上村松園書簡には、「先頃東上之際ニハ種々御懇情に預り奉謝候」とのお礼の記述があり(関千代「松園から春草宛の書簡」『下伊那教育』第104号、下伊那教育会、1975年、32ページ)、時期的にみて巽画会第10回展でお世話になったことに対するお礼であると推察される。
[19]1910年5月27日付 菱田春草宛上村松園書簡に作品制作依頼の記述がある。唐人物という題材で「男女二人程」と希望を出しているが、人物画であればこだわらないという趣旨のことも伝えている(関千代「松園から春草宛の書簡」『下伊那教育』第104号、下伊那教育会、1975年、32ページ)。
[20]菱田春夫「父春草と「落葉」の頃」『三彩』第6号、美術出版社、1982年、48ページ。
[21]『創造の源泉-菱田春草のスケッチ』、飯田市美術博物館、2015年、48~49ページ。描いた2点の大下絵は「霊昭女」と「羅浮仙」で、最終的に春草は、艶麗な画題の羅浮仙でなく、精謹な印象の霊昭女を選択した。
[22]1910年7月26日付 菱田春草宛上村松園書簡に依頼作品送付に対する御礼の記述がある。前掲の受注記録「製作扣帳」によれば、当時、制作が完了したと思われる件数は受注数の約45%で、半分以下にとどまっている(資料「製作扣帳」『創造の源泉-菱田春草のスケッチ』、飯田市美術博物館、2015年、180ページ)。このように不調であった春草の当時の状況にもかかわらず、松園に対しては破格の揮毫であったと考えられる(関千代「松園から春草宛の書簡」『下伊那教育』第104号、下伊那教育会、1975年、32~33ページ)。

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