見出し画像

難しいことはどんなに易しく語っても難しい

アート思考研究会
図画工作が大の苦手だったにもかかわらず、この会の幹事に名を連ねています。別に絵を描いたり音楽を自分で演奏したりするわけではなく、
「ゼロから一を生み出すアーティストの思考プロセス」をビジネス、特に新規事業開発やイノベーションのヒントにしていこうとする会です。だから幹事を引き受けたんですけど(笑)

最近その関係で、
『アート思考〜ビジネスと芸術で人々の幸福を高める方法〜』

という書籍を読み、メンバーが書いた書評も読みました。そこで、はっとさせられる言葉にぶつかったのです。

皆さんも、最近の書籍は、読者フレンドリーなものが多いと感じませんか?
文章は平易、難解な表現も少ない、著者の主張は最初からハイライトや太字にされ、各章にはまとめがある。知らず知らずに、この「わかりやすさ」が当たり前になり、私は、自分で思考することを放棄していたのかもしれない。

■受け手としての自分

アマゾンレビューなどを見ていると、このように書かれているものをよく目にします。ビジネス書のみならず、学習参考書や資格試験テキストも
「もっとわかりやすく」
が求められ、それに応える形で書籍をはじめとした情報発信されています。

ある程度は当然のことだと思いながらも、「平易に語る大切さ」が強調されるにつれて、要求が過大になってきているように感じます。こうした要求が過度になることに違和感を覚えずにはいられないのです。

難しいことはどんなにやさしく語っても難しいものです。必要以上にわかりやすくしようとすれば、本質を捻じ曲げることにもつながります。枝葉末節を切り捨てた説明は、文脈を無視したことになりますから本来の意味と変わってきてしまう可能性が高いのです。

たとえばアダム・スミスの『国富論』の説明として
「神の見えざる手によって自然に市場は最適に均衡する」
と書かれていたとします。
これはシンプルな言葉にまとめられていてわかりやすい。そして間違いではないでしょう。しかし、スミスがどんな注釈をつけ、どんな前提をおいてこの言葉を書いたのか、全部切り捨てています。それでは本当に理解できたとことにはならないと言えます。

さらにいえば、微分積分を四則計算ができない人に理解させるのは、どんなにやさしくわかりやすい説明をしたところで無理です。それを四則計算から説き起こせ、というのは受け手側の甘え以外のなにものでもありません。

『15歳からのファイナンス理論入門』という名著があります。

この本がなければ僕はいまでもファイナンスのことはさっぱりわからないままだったと思います。

出版当時『14歳からの~』というタイトルが流行していました。この本も当初は『14歳からのファイナンス理論入門』になる予定だったそうですが、途中で変わります。中学3年生(15歳)で習う分野がわかっていないと理解できない箇所があるから、と見直しをしたそうです。理解するための前提となる知識すらもわかりやすく説き起こせ、というのは無理な注文なのです。

難しいと思うなら、まず自分で勉強してみろよ、と思います。自分でわかる努力をしないで、発信側にすべての責任を押しつけている間は、わかった気になれても、本当に理解したことにはなりません。

「読書百遍意自ずから通ず」
という言葉もあります。受け身で教わることばかりを考えるのでなく、自ら難解な海に飛び込み泳ぎ切る体験をすることで、本当に理解したという域に達するのだと思うのです。

図画工作が苦手だった僕が、「アート思考」に関わったのは「わからない」ことが大切だと思うようになったからだと言えます。わからない状態にいる自分をそのまま受け止めて、安易にわかった気にならないようにするためには、アートがとても役に立つのです、僕の場合。

■書き手としての自分

もちろん、自分が発信者になる場合は、「もっとわかりやすく! もっとやさしく!」書くことを心がけます。敬愛する上野千鶴子さんが何かの本で、
「社会科学の文体は『難解』であってはならない。」
と書いていたと記憶しています。


「その文章が『難解』であるとすれば、たんに悪文であるか、それとも書き手自身にとって未消化なことがらを書いているからにすぎない。『難解さ』は社会科学の記述にとって何の名誉にもならない。」

ということですから、やっぱりわかりやすく書きたいとは思います。

しかし、わかりやすくするために、大切な枝葉をそぎ落としたり前提を飛ばしたりすることのないように、書いていきたいと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?