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小説「告白」制作の裏話

若い頃、室町時代に出版された「七十一番職人歌合」という中世の歌合せの本に出合いました。

蛤売りと魚売り、米売りと豆売り、銀細工と箔打ちなど共通する点のある職人さん達の絵と、それぞれの職人に和歌が付いている本です。
 
この本を読んでいて、ある絵に出合いました。
 
そのページには曲舞と白拍子の絵がかいてありました。
 
白拍子は、今NHKのドラマでも取り上げられていると思いますが、鎌倉時代に道や神社などで舞を披露していた女性です。
 
翻って曲舞は、15世紀から16世紀に起きた、ストーリーを伴う唄を伴奏にして、踊りを踊る男性です。

少し調べてみると、この曲舞は今でいう所のストリートパフォーマーで、楽器や唄をバックに踊る興味深い芸人の一種だと分かりました。
 
その後、この白拍子と曲舞が、のちにお能や狂言に影響を与えていったと知りました。
 
現在でも曲舞と白拍子の描かれた絵は現存しており、文化デジタルライブラリーで見ることが出来ます。

 


この絵はその後もずっと私の頭の中にありました。
 
こうした白拍子や曲舞などの芸人の日常生活は、ほとんど知られていません。
 
場合によっては、白拍子は春をひさぐとまで言われることもあるそうです。
平たく言えば売春ですね。
 
目撃者がいたのかもしれないし、そうでもないかもしれない。単に踊りを人前で踊る人は、収入が少ないから陰で売春をやっている、とみなされていただけかもしれません。
 
この二種類の芸人さん達の日常を想像して、もし、この白拍子と曲舞の踊り手が夫婦で、楽器や唄を唄っていたのがその夫婦の子供たちだったとしたら?と考えました。

また、芸人一家がどのように暮らしていたか、そしてその芸人一家で育った子供はどのような事を考えていたのか。

そして、その子が大きくなった時どのような道を歩んだのか。そうした考えをまとめたものが、今回の創作の原点となりました。
 
室町時代は、現代に残る能や狂言などが成立した時代です。
建築では金閣寺や銀閣寺が建立され、また絵画の世界では雪舟などの画家が創作に打ち込み、狩野派が成立した時代でもありました。
 
そんな芸術が花開いた時期に、京都で頑張っていた当時の芸人家族の娘を軸に、彼女の人生とそれにまつわる人々を描いてみようと思い立ちました。
 
また、もう一つ頭の中にあったのが、悲田院という、現在でいう所の福祉施設です。貧しい人々や、孤児を救うために設立された施設です。
 
こちらは聖徳太子が始めたという説と、奈良時代の聖武天皇の皇后であった光明皇后が、皇太子妃時代に設立したという説があります。記録に残っているのは、この光明皇后が建てた寺院だったそうです。
 
この悲田院、現在では保育士試験の問題にも出てくるそうで、日本の子供の福祉では欠かせないものの一つとなっているようです。
 
ここで育ったある子供の事が、ずっと自分の頭の中にありました。悲田院にいた子供たちは、一体どのような生活を送っていたのか?
 
 
その頭の中にあったものを短編小説としてnoteに発表したのがこちらです。
 



noteに連載していた記事を一部公開しておりますので、ぜひご一読いただければ幸いです。


 
 
現在編集している第二巻では、もう少し道端で芸を披露していた芸人達と、悲田院について自分なりの解釈を掘り下げて書いていく予定です。
 
 







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