方舟に松明

 息を荒くしている目の前の人を、どこか冷静に眺めている。愉しんでいないわけではない。これから和くんとするのは、他のどんなことよりも愉しいこと、だ。彼の吐息からは仄りと、さっきふたりで飲んだ梅酒の匂いがする。見上げると、干しっぱなしの靴下がエアコンの呼気に揺れているのが目に入った。あつい吐息。シャンプーの甘い香りを感じながら、熱くなっているところを膝で軽くなぞってもてあそぶ。私の手首を握る手に力が入るのを感じて、少し嬉しくなって、私は彼の脚に自分の脚を絡める。
 和くんはおあずけを解かれたようにくちづけを降らせてくる。私の手首を掴んだまま、慌ただしく舌を絡める、私が宥めるように応えていると、そのうち手を離し、私の後頭部を抱く。私の髪を掻き乱しながら、夢中でわたしを探っている。この人はほんとうに、大きな子犬のようなキスをする、と思う。
 美央、とささやくように私を呼んで、胸元を探り始める。私の鎖骨をそっと舌でなぞりながらゆっくりとシャツのボタンを開ける。もうおれ、やばいよ、とそう言って和くんは、露わになった私の胸元に吸いつく。小さく声を上げ、がっつかないでと、そんなことを言いながら彼より私の方が余程飢えている、あられもなく声を上げてしまう。余裕なさげに両手で私の体をまさぐって、耳をなぞって腰をさすって、求められていることを実感する。どこがどうなっているのかも分からなくなる。分かるのは、唾液のついたところが、ほんの少しひんやりとしていること。これから自分がこの人とうんといやらしいことをするということ。
 雨の音がする。空気がひやりとする。雪には変わらないだろう、とぼんやり思いながら、彼のくれる波に身を任せる。

 「和くんが私を求めてくれるから、生きてる」
 裸で、毛布に包まって、彼の顔を見る。彼はちいさく吹き出して、なにそれ、と言って私の額にくちづける。
 「じゃあたとえばもしおれがいなかったら」
 「べつに、死なないけど、でもそれって死なないだけ」
 なにそれ、ともう一度つぶやいて、彼は、起こしていた上半身をマットレスに預けた。横目で彼を見る。目を閉じて大きなあくびを一つ。無防備だなあ、と思う。
 ときどき、カッターナイフで彼の心臓をくりぬく想像をする。生々しいものではない。すべらかで白い彼の胸の肌は、紙のようにすぱりと気持ちよく切れそうに思えるし、心臓はあかあかと、けがらわしい血などではなく清らかな炎をはらんで脈を打っているのではないかとも思う。ベッドの中では彼は間違いなくヒトなのだけれど、その聖域を一歩出ると、彼が私と同じ生き物だとは思えなかった。頬を撫でる。彼は、薄目を開けて私を引き寄せ、もう一度唇を合わせた。
 「おれがいなくても生きててよ。そういう美央さんが好きだよ、おれ」
 「むちゃ言わないで」
 「おれは美央さんがいなきゃ生きてけないもん」
 くしゃりと笑って、和くんは衒いなく言う。若いな、と思う。実際一つしか年齢は変わらない。自分のことを棚に上げて、とおとなの人には笑われてしまうのかもしれなかった。愛なんてとても呼べない、遊びみたいな高校生の恋愛しか、私だって知らなかった。おたがいに、初めて、繰り返し繰り返し身体を重ねた相手だった。離れられないなんて欲のもたらす錯覚だと思う。たぶん、大学を出て、この人と生活を共にすることはない、と思う。分かっている。分かっているけれど、いま自分から離れるだけの勇気は、出せなかった。
 「世のなかにはね、私より若くて賢くてきれいな人はたくさんいるよ、そういう人とくっつきなよ、和くん」
 「自分でおれがいなきゃ生きてけないって言ったくせに」
 「生きてけないよ?生きてけないけど」
 「じゃあ、いいじゃん、おれには美央さんが一番だよ、ずっと一緒にいようよ、死ぬまで生きててよ」
 もう、うるさいよ。私から、噛みつくみたいに、口をふさぐ。ずっとなんて嘘つかないで。毛布がずり落ちる。部屋の空気に肌が直接晒されて冷たい。少しずつ冷えてゆく肩を、炎そのもののようにあつい和くんの手が包む。まだ少し酒くさいまま、ふたり唾液を混ぜ合わせるみたいなキスをした。私もきみのような炎を心臓に宿したい、と思うけれど、裏腹に、身体は少しずつ少しずつ冷えていく。
 つめたい雨は止む気配もなく、滔々と、滔々と、町に注いでいた。

(2013/11/26)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?