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昭和93年のサラリマン

頑なにケータイを持たないでいた先輩が、急にICチップを脳に埋め込んできた。
しかもSuicaだという。

「いちいち切符を買わなくていいのは便利だよなあ」

タッチ部分にお辞儀して改札を通る先輩は誇らしげである。
前頭葉へのインプラントは保険も効くし日帰りで十分な術式だが、雑な術後管理のために脳をカビらせて死ぬ例もある。思慮深い彼ならリスクを考慮し、きっと死ぬまで紙の切符を使い続けると思っていた。

「SuicaかPasmoかで迷ったけど、ペンギンが可愛いからこっちにしたんだ」

こんなことを言う人だっただろうか。
20代の終わり、くだを巻くおれをからかった後で
「実は30代こそ楽しいんだぜ、能力と責任としがらみが奇跡的に拮抗するんだ。楽しめよ」
そう言っていた。

「あ、ちょっと待って」
降車駅の精算機に、先輩がお辞儀して青い光を浴びている。残額チャージには少し時間がかかるようだ。
おれは目を背けて彼を待った。

【続く】

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