PVやライブ映像の存在が演者の動きをこじんまりとさせる要因の一つではないだろうか(仮説

先日裏方でお手伝いさせていただいたヴォルフのイタリア歌曲集について、少し気になった所が有ったのでメモを残します。

公演内容としては確かドイツ語だったと思いますが、要は聞きなれない外国語の歌でした。なので工夫として、歌の前にあらかじめ録音した日本語で簡単に要約したナレーションをCDで再生してから歌に入ると言う形式で、観客としては非常にとっつきやすい感じだったと思います。

オペラ自体、錯覚資産としては高尚なお金持ちの、ハイソなイメージがあるもので聞きに行くこと自体がステータスになるものではありますが、観客として面白いと思うかどうかはまた別の話。そこへ一手、日本語の要約をはさんだのは素晴らしい工夫で、見る側としては良く解らないうちに終わった公演ではなく、こういう内容の公演だったと理解が出来たのではないかなと思いました。

聞きなれない外国語の内容を伝えるにはボディーランゲージこそ一番大切なのではないかなと。演者さん2名、ピアニストの先生、そしてCD再生のタイミング、緞帳の上げ下げは舞台上のコミュニケーションを観察しながら、実際に言葉を発せずとも成立する会話は、自分自身舞台装置の一部として心地よいものでしたし、恐らくお客さんにも伝わったはずです。同時にバンドの世界はこのボディーランゲージが乏しい傾向があるのではないかなとふと考えた次第です。

割とこじんまりとしたパフォーマンスの方が多いんです。思い当たる節としてはやはりPVやライブ映像の存在があるのではないかなと……。実は自分、商品としてのライブ映像が嫌いなんです。ライブを通しての舞台全体のカメラが映ってないので。商品としてのライブ映像って、例えばギターソロギタリストだけを映しますし、なんなら手元しかうつさない場合もありますよね。それを見てマネをすると、その近さでのカッコよさを目指しちゃうんじゃないかなと。けど、客席の目線はカメラ位置としては相当引いた場所で映ってますよね。

カメラアングルってマジックがあって、構図でいくらでもカッコよくできるんですよ。メジャーさんの場合、引きでもカッコイイ姿をアップにするからよりカッコよさが際立つわけですが、アップだけでカッコよさを覚えちゃうとアップの時のカッコよさを真似しようとしてしまう。そこがこじんまりとしてしまう理由の一つなんじゃないかなぁと。無意識でアップで自身を映しているカメラの映像を頭の中で作っちゃって、本来あるカメラ位置を見落としてるんじゃないかなと。

商品としてはアップは正しいですし、カメラアングルの動きでさらに盛り上げるのはまぁ当たり前の話です。ライブ通して舞台全体の1カメラ映像が欲しいなんて偏屈は自分ぐらいですから。でも演者側はそれを見て育っちゃダメですよね。ちゃんとボディーランゲージで客席の一番後ろまで対話を試みる演奏をしてくれないと伝わらないですし、その為には最後列のカメラ位置で育たないとダメなんじゃないかなぁと。

仮説なので結論は有りません。もう少しいろんな人と話して、機会が有れば再度纏めたいと思います。


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