『サマーロード』憧れを再び:ガムシャラなゲーム作りと面白さの『リビルド』【受賞者ドキュメンタリー第11弾】【前編】
「サマーロード」は、古き良きアメリカを思わせる町を舞台に、こどもたちがひと夏の冒険を繰り広げるRPGだ。1プレイが10分で終わり、その大半がオートで進むのが特徴である。気軽に遊べつつ、様々な特殊効果を持つ装備品を集め、シナジーを考えて装備させる楽しさは短時間でもしっかり味わえるのだ。
「サマーロード」を手掛けるのはリビルドゲームスの2人。学生の頃に大手ゲームメーカーのセミナーで知り合い、その後は別々のゲーム会社に就職するも、2人で独立して受注開発とインディーゲーム作りを並行で進め、今回受賞するに至った。
保坂元八氏と浅羽晃憲氏に、ゲーム作りの原点と「自分たちがやりたいゲームを作る」インディーゲーム作りについて聞いた。
――受賞おめでとうございます。まずは受賞作「サマーロード」における、お二人の担当領域を教えてください。
🔶保坂:リビルドゲームス代表の保坂です。「サマーロード」ではプログラミングを担当しています。
🔷浅羽:リビルドゲームスの浅羽です。プランナーをしています。
――「サマーロード」の開発体制はどのようなものでしょうか?
🔶保坂:私と浅羽、そして外部のグラフィックとサウンド担当の方で4人となります。
――今回「GYAAR Studioインディーゲームコンテスト」に応募しようと思ったきっかけはなんでしょう?
🔷浅羽:受賞すると、Supercell(※)さんのスタジオツアーに行けるという点ですね。もちろん賞金も魅力的でしたが、有名なゲーム会社さんのスタジオツアーに参加できるというのは本当に特別な体験ですから。
――確かに、海外のクリエイターと交流できるというのはなかなか得難い機会だと思います。こうしたサポートも魅力的だったわけですね。お二人のゲームの原体験はどういったものでしょう?
🔶保坂:3歳くらいにプレイした「スーパーマリオブラザーズ」ですね。そこからずっと任天堂のゲーム機で遊び続けてきました。
🔷浅羽:自分も同じ頃なんですが、与えられたソフトが「スーパーマリオブラザーズ」と「トランスフォーマー コンボイの謎」だったんですよ(笑)。マリオは飛んだり跳ねたりできて面白いのに対し、トランスフォーマーはスタートした途端に小さい弾が飛んできて、あっという間にやられてしまう。こうした違いを子供ながらに吸収しつつゲームを楽しんでいたという感じです。
――ゲーム以外にはどういった遊びをされていましたか?
🔶保坂:小学校の時、自分で紙のストラテジーゲームを作ってクラスメイトと遊んでいました。用意されたポイントを「射程」や「攻撃力」といったパラメータに振り分けて自分だけのユニットを作り、イラストも自分で描くんです。
🔷浅羽:ゲームの攻略本が大好きだったので、「自分で妄想したゲームの攻略本」を作ってました。頭の中で自分だけのRPGを作り、その攻略法を「推奨レベルは幾つ」とか「この街にはこんなアイテムが売ってる」といった感じで書いていくんです。友達も同じように妄想攻略本を作っていたので、よく見せ合っていました。
――小学生の時点でクリエイティブな遊びをしていたわけですね。お二人の出会いについて教えてください。
🔶保坂:2005年に大手ゲーム会社が開催したセミナーで浅羽と知り合いました。1年ほどかけて大学生にゲーム作りを教えてくれるというもので、10人でチームを組んで開発を進めていくというものでした。
――セミナーに参加してみていかがでしたか?
🔷浅羽:高校の頃にゲームを作っていたので自信もあったんですが、セミナーでは保坂を含めてレベルの高い人がうじゃうじゃいて、危機感を覚えました。必死に食らいついていった一年でしたよ。
🔶保坂:セミナーにはプロに片足を突っ込んでいるようなすごい人もいましたね。自分なんかは独学でプログラミングを勉強して数年でしたから、危機感もひとしおでした。
「チームを作って活動する上では、問題があった時にまず自分に問題がないかどうかを考えなさい」と教えていただいたのが印象的でした。「プログラマーができないと言うと、そこで全てが終わってしまう。だから、工夫して実現するなどの道を探り、なるべくできないとは言わないようにしなさい」と。
――すごい人たちが沢山いて、レベルの違いを思い知ったわけですね。
🔶保坂:個人的に印象深いのが、スタンダードな企画を作って相談したときのことです。「その企画を作ったら面白いだろうけれど、面白いことが分かっているものを作ってもしょうがない」「折角の機会だから、面白くなるかどうかわからないものに挑戦し、より新しい面白さを探った方がいいんじゃないか」と提案されて、ものの見方が変わりましたね。
――それは面白い視点ですね。確かに、新しい面白さを探った方が成長できそうですし、セミナーでゲームを作るのであれば、仕事として取り組むよりも失敗のリスクは少ない。
🔶保坂:実際、セミナーを終えた際には講師の方から「君たちには、もっと失敗を体験して欲しかった」と言われました。この言葉の意味が分かったのは、何年か経験を積んでからでしたよ。責任を取らなければならない立場になってから失敗するのは重いですから。
――セミナーでゲームを開発してみてどうでしたか?
🔷浅羽:いろんなゲームの開発に携わりましたが、一番楽しかったのはこのセミナーです。何も知らなかったのでガムシャラに開発していましたよ。締め切りの時は大変でしたね。学校やバイトが終わった後、横浜からセミナーの建物がある神田まで原付で駆けつけて、ギリギリまでデバッグをしてましたから。
🔶保坂:当時売っていた「ポーション」(※)を飲みながら、泊まり込みで作業をしていたんですよね。
――作られたゲームは当時の携帯ゲーム機で配信されたんですよね。
🔶保坂:そうです。感慨深いですね。
🔷浅羽:チームのメンバーとは、開発だけではなく、プライベートでも仲良くなれましたから。
――とても濃密な日々でしたね。その後、実際にゲーム業界に入ってみていかがですか?
🔶保坂:プログラミングを始めたのが大学に入ってからのことだったので、最初の数年間は、毎日限界ギリギリまで仕事をしていました。
🔷浅羽:当時は現在ほど労働基準法が厳しくなかったですし、チームの人数も20~30人くらいで、全員の顔も性格も分かっていました。頑張ればいろいろな仕事を任せてもらえるし、問題があっても直接話をして解決するという感じでしたね。
――その後お二人は独立されましたが、その理由は?
🔶保坂:スマートフォンが台頭し、Unityなどのゲームエンジンも出てくるなど、個人でゲームを作れる環境が整ってきたからです。
🔷浅羽:一方、家庭用ゲームの現場では、プロジェクトが大規模化し、クリエイティブな部分が少なくなったと感じていました。そこで、インディーゲーム作りの環境が整ったなら、学生のころにやっていたような、憧れのままガムシャラに作っていたゲーム作りをやってみたいと思ったんです。
――独立して、すぐに会社を立ち上げられたのでしょうか?
🔶保坂:最初の1年くらいは会社にせずに仕事をしていました。
🔷浅羽:あれはフリーターみたいなものでした(笑)。Unityの勉強期間でしたね。
🔶保坂:Unityが16万円くらいしていた時期でしたよ。折角Unityを買ったんだから、コンテストに出してみようということで、浅羽と2か月で「BUGGG」というゲームを作り、ニコニコ自作ゲームフェス4に応募して「PS Loves indies賞」をいただきました。
翌年は個人的に作っていた作品を出して入賞し、その次の年には2人で作った「スラッシュRPG 一閃勇者」で最終選考賞に入賞できました。
🔷浅羽:コンテストがあるとゲームが完成するし、賞をもらえて自尊心が満たせるという感じでしたね。
🔶保坂:自分たちだけでゲームを作っていると、締め切りがないんです。でも、コンテストに出すならいつまでに仕上げるという期限が決まる。
🔷浅羽:ただ、ビジネスにはなってなかったですし、ゲームでご飯を食べられるような状況ではなかったですね。……あの時は何を頼りに生きてたんだろう?
🔶保坂:収入はどうしてたんだっけ?
🔷浅羽:覚えてない(笑)。なくても、なんか生きてましたよ(笑)。
――その後、会社として仕事のゲームを作りつつ、自分たちのゲームも作っていったわけですが、かなり大変だったのではないでしょうか?
🔷浅羽:大変だった……というか全然ダメでしたね。仕事が最優先でしたから、自分たちのゲームはなかなか作れませんでした。
――そこから両立できるようになった理由は?
🔷浅羽:まずは慣れですね。
🔶保坂:あとは契約を変えたことです。当初は週5日仕事の開発をしていましたが、週4日や週3日に減らしてもらったんですね。自分たちのゲームに専念できる日が週に1日あるだけでも、全然違いますから。
――時間というのは作らなければいけない、というのはよく言われますが、まさにその通りだったわけですね。
(後編へ続く…)
※『後編』では、「サマーロード誕生秘話」「Supercellオフィスツアーの感想」等をお話いただきました!