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全力で生きている

新年、明けましておめでとうございます。

さっそくですが、本年の一本目。


今日も犬の散歩で一日は始まりました。
大晦日であろうが元旦であろうが、一日には一日。

齢18になる我が家の愛犬は、もう、一日24時間の大半を寝て過ごすようになりましたが、それでも、全力で生きている。

いえ、「それでも」、ではないんです。
「それが」、「いま、ここに」生きているの彼女の全力。
愛おしいものです。


今年最初のnoteめぐりで目に留った記事です。

愛おしさが伝わってきます。
子も親も、全力で生きています。


全力で生きていない生命などありません。

乳幼児も、老犬も、「いま、ここ」に在るように、全力で生きている。

朝日を浴びて輝いている木々も。
春の陽を待って縮こまっている芽も。
その足下でうちひしがれている名もなき草も。
どれもこれもが、「いま、ここ」に在るように、全力で生きている。

全力で生きることが、生命という存在のスタンダート。

生命は「どれもこれも」を自身が生き延びるために都合良く選別をします。その選別もまた全力の、つまりは有限の、為せる技。
世界とは有限の全力のせめぎ合い。
人間の目から見れば、あるいは弱肉強食。


人間は愚かにもその選別を自身に向けて適用します。
人間にとって全力は条件付きのもの。
乳幼児の在り様を全力で認めても、長じて環境に不適合となり空想の世界にひきこもったりすると、もはや全力を認めようとはしません。

それだって、その生命からすれば〈全力〉なのに。
不適応なりに〈全力〉で生きている。
不適応を〈全力〉で表現している。

なのに【全力】ではない。
周囲も、当人すらも、そう思い込んでしまいます。

〈全力〉から【全力】へ。
生命の在り様に条件付けをする。

ヒト以外の生き物だって自身が生き延びるために生命の選別をします。この「選別」は〈全力〉です。

一方で人間のする選別(条件付け)はどうか?

本来は他の生き物と同様の「生き延びるため」だったことに間違いはないでしょう。が、現在はどうか? その条件は経済成長といったような指標になってはいないか? 

なっているとしたら、いつからそうなったのか?

子どもも大人も、ヒトとしては〈全力〉。
それが、いつからか【全力】が適用されるようになる。
いつから?
あるいは、いつの時代から?


人間は賢い生き物でもあります。

ヒト以外の生き物は選別が全力でありスタンダードです。他種は、自身以外の全力には我関せずが、それは有限な生命の在り様でもあります。

ところが人間は、ありとあらゆる全力に対して自らを開くことができます。
自らに科していた【全力】を手放し、自身の〈全力〉へと通じると、なぜか同時に他種の〈全力〉にも通じることになる

このとき人間は自ら名乗る「霊長」に値します


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※ 画像はコチラ(←クリック!)から拝借しました

なんとも不自然で愛らしい絵。
こんな不自然は自然には起こりえない。
全体としては不自然だけれど、トラ、ライオン、クマの個々の生命には自然であって、その自然は画像を観るぼくたちヒトに伝わってきます。

人間には、こんなような一見不自然な〈自然〉を構築することができる能力が備わっています。その能力は人間が霊長たる証。

自然を越えた「いま、ここ」を構築することができます。



本年は西暦で数えれば2020年。日本の元号で数えれば令和二年。【全力】に適応した専門家たちは、揃って波乱を予測しているようです。もしかしたら、大きな波乱の幕開けの年になるのかもしれません。

波乱が来ようが、ぼくたちは生き延びなければなりません。

いかにして、生き延びるか?
これ以上の【全力】を発揮しなければならないのか?
それとも、もはや【全力】は手放した方がいいのか?

自らに問うならば、答えは明瞭です。

感じるままに。