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大風呂敷を広げる

今年の目標を語る方が後回しになった。でも、それでいい。語りたいことは語りたいときに語ればいい。

今年は今まで以上に大風呂敷を広げる。もっともっと広げる。

広げてしまうと中身は「スカスカ」になるだろうけれど、それでいい。スカスカならば埋めればいい。

誰が?
読者様が。
好き勝手に埋めればよい。
つまりは他力本願である。

目指すところは

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なのだから。もちろん、スルーする自由もあり。


生命はそもそも〈全力〉だ。

生命は全力である一方で、ゲノムに規定されてもいる。ネコは肉食で、イヌは雑食で、ウシやウマは草食。生まれながらにして決まっている。ヒトだって野菜を食するけれど、セルロースを分解できる酵素は持ち合わせてはいない。DNAにその情報がないから。

生命体のひとつひとつが抱える価値観は、進化の結果として持ち合わせたDNAにほぼ規定されている。ただヒトだけが持ちうる価値観においてはゲノムを超越している

この事実こそヒトが万物の霊長たる証
同時に〈自由〉であるということ

なのに人間は、【自由】の名の下に〈自由〉を自ら疎外するようになった。


自由に生まれついたヒトにとって、成長とはさらなる自由を獲得することに他ならない。成長は自由になることであり、自由になることが成長。自由と成長は同じ現象の言換えに過ぎない。

発育途中の子どもにはコーヒーは毒だけれど、十分に生育をし毒に抗う体力を身につけた成人にはコーヒーの毒を味わう自由がある。苦みの味覚は、ゲノムが規定するところに従うならば、身体を害する毒を知らせる危険信号だが、ヒトは毒の味を嗜むことができてしまう。自由だからこそ。

コーヒーを嗜むことが出来るようになること。あるいは苦難に満ちたストーリーを受け入れ自らの生きる糧とすることができること。それぞれ身体力あるいは精神力の成長を示す、自由の証。


ヒトは自由を生まれながらの能力として備える一方で、自由の有限にも直面する。自由に全力で生きていれば、有限な環境の中では衝突が起きるのは必然であり、結果として秩序が必要とされる。人間に秩序がなければイヌやネコより運動能力に劣るヒトは生存競争に勝ち抜くことはできなかったはず。

人類史の進展とともに人間が営む生存のための集団(社会)は大きくなった。大きな集団を秩序づけるには効率がよい秩序が必要で、結果、秩序は歴史の進展とともに更新を重ねた。現状われわれが手にしている最高効率の秩序は資本主義であり、最高効率の資本主義が機能しているから甚だ効率が悪い民主主義を保持していられる。

この最高効率秩序をさらに効率よくするため、人間は【全力】を尽している。なのに、尽くすほどにフシアワセが蔓延することになった...なぜ?

ヒトにとって成長は根源的な悦び。生きることの悦びであり、ゆえにその悦びを追いかけて生きる。この追求は”希望”と呼ばれる。我々が現在手にしている最高効率秩序は「希望」を未来から前借りすることによって成立している

貨幣は人間がそれぞれに抱く「希望」のもっとも効率的な交換手段であり、それは歴史という名の人類規模のディープラーニングで生成されてきたもの。その最高効率交換手段が未来から前借りされる。すなわち「希望」の前借り。その結果、私たちが悦びとともに抱く〈希望〉は、前借りされた【希望】の返済へと費やされることになった。

前借りされた【希望】は科学技術の発展と相まって人間の生活空間のありとあらゆる隙間へと入り込み、人間同士のあるいはヒトと自然の自然な関係性を貨幣に換算され交換されうる関係へと置き換えてきた。生命が〈自由〉を発露する自然な関係性が【自由】の名の下にシステマチックに侵害されている。人間自身が生み出したシステムによるヒト自身へのハラスメント。


だから大風呂敷を広げなければならない。
スカスカでなければならない。
〈希望〉が生まれる余地がなければならない。

スカスカの空間をヒトは全力で生き、自生的に秩序を生成しつつ成長し、自然な人間になっていく。システムはその余地を生み出すものでなければならないし、そうした〈システム〉についての語りは、当然スカスカの大風呂敷になるはずだ。

他者の〈全力〉に依存して広げるスカスカで他力本願の大風呂敷。


自然という名の〈システム〉は、生命体が〈全力〉を発揮する空間を生み出す機能を内蔵している。すなわち「死」である。先行する生命は死を迎えることで、続く生命が〈全力〉を発揮する場を提供する。

人間が生み出すシステムも、自然の真似をすればいい。

感じるままに。