2020.4.15

小さい頃、毎年家族で夏休みに旅行するのが恒例だった。祖父、祖母、伯母、母、私、の5人家族と、母の2番目の姉である伯母、伯父、従姉妹の3人家族の、合計8人で、琵琶湖や福井、淡路島に1泊するのが常だった。
4回目くらいの旅行だったろうか。小学校低学年のとき、旅行先から帰る車の中で、遠ざかる景色を見ながら、私は全身からこみあげる悲しさと切なさにたまらなくなり、大泣きしたのを覚えている。家族はびっくりして、また来れるから、となぐさめた。それでもそのときの私は、これがほんとうに最後になるかもしれないと、変な確信めいたものを全身で受け止めて、全身で泣いた。大声をあげてわんわん泣き続けた。
その後、祖父の痴呆が進行し、癌にかかり、私が6年生になった春に亡くなった。その4年後、伯父に末期癌が見つかり、入院して2週間ほどで急死した。伯父を亡くした伯母は心を病み、人が変わったようになった。その5年後、私を育てた伯母に癌が見つかり、翌年に亡くなった。その3年後、祖母に癌が見つかり、去年亡くなった。あの旅行は、ほんとうに最後になったのだった。私の家族は母ひとりになった。

昨年8月、祖母が入院する部屋で過ごしていた私は、ぼんやりと、もうあの家で祖母と過ごすことはないだろうことを確信しながら、来年の今頃は恋人がいるんだろうな、と予感めいたものを感じていた。
7月にアイちゃんと行った、大好きな朝霧のスターバックスで、私は神戸のほうに、これから強い縁をもつ気がする、そんな予感も降ってきていた。それはすごく自然なかたちだったし、外れるかもしれないし当たるかもしれない、そのくらいの捉え方だったが、このふたつの予感には従ってみようと思っていた。

これまでは、あらかじめ描かれた地図のうえを辿るものだったが、これからは、自分で地図から描いていくんだろうーー祖母が亡くなったあと、秋からはそれまでの数年遠くへ動けなかったぶんを取り戻すかのように、いろんな場所へ行き、それはそれはたくさんの人に会った。「なんで今まで出会ってなかったんだろう」とお互いに思うほど、出会ったことがほんとうに自然な流れの中にあった、教え子とその家族。北海道で、するっと受け入れてくれた花歩の家族、友人たち。「おかえり」を言ってくれる人を亡くした私を、あたたかく家に迎えてくれる人たちに出会うことで、すり減っていた私はじょじょにいろいろなものを取り戻していった。

それと同時に、自分を大事に扱うことから少し逃げてもいた。異性と接することが年に数えるほどしかない私を、理想を押し付けるようにして遊んだり、乱暴なやりかたで踏み入ってくるような人とも出会ったりした。でもそれは必要なことだったと胸をはっていえる。

そんな中、同級生がとつぜん結婚をきめた。

年末の慌ただしい時期に舞い込んだ報せだった。相手は、誰もが知る大手企業の次期社長。いまどきマンガでもないくらいの玉の輿。周囲は驚いていたが、私はさほど驚かなかった。その子にふさわしすぎるくらいふさわしく、あらかじめ決められていたかのように自然な流れだと思えたから。彼女は高校のときから、書店では「家庭画報」や「和楽」を立ち読みし、梨園の妻や白洲正子、北条政子や篤姫に憧れていた。誰に強制されたわけでもないのにやたら丁寧な言葉遣いと立ち居振る舞いで、おもしろいくらい礼儀正しく、しかしそれが嫌味にならずにみんなに好かれていた子だった。
ごく自然な流れで社長御曹司に嫁いでいく彼女を見て、私は「ほんとうに求めているものを、神さま的な存在は、その人のところにちゃんと連れてくるんだな」と確信したのだ。

それから、私は自分が何を求めているのかを知ろうと思った。そもそもパートナーを必要としているのか、結婚はしたいのか、恋をするとしても相手は異性か、同性か。自分に創作の刺激をくれる人がいいのか、それとも生活に密着した人がいいのか。家族がどんどん減っていく中で、私がこれから生きていく中でほんとうに欲しいものはなんなのか。いろんな人に会って、自分がその人に持つ感情はなんなのかを見極めた。「好き」でも、近くで見ていたいのか、遠くで見ていたいのかによって距離感は変わってくる。織姫と彦星のように、一年で一度だからこそ安定する距離感だってある。身の回りの大切な人の、私にとって適度な距離感はなんなのかを一生懸命考えた。そして、私がこれからの人生で必要とする人は、どんな人なのか、次第にだんだん見えてきたのだった。

食卓の器はどうだろう。
最低限譲れない条件は心に留めつつも、あとは時の運と気まぐれ任せがいい。
たとえば、絶対に白磁の小鉢でなくてはならないと願い過ぎると、かえって出合えないものだ。
忘れた頃にふと入った店で、淡い卵色の蕎麦猪口を見つけ、これを小鉢にしてみたらどうだろうーーこっちのほうが余分な力が抜けていて、自分をいつもと違う場所に連れていってくれる遊びがある。
迷ったら買わない。これも大切なこと。
強く求め過ぎることなく、でも、決して探すことを諦めないこと。いつ出合ってもいいように、小さな兆しや変化をメモして準備しておくこと。ピンときて初めて、近寄ってみて、触れて、迷う余地のないものだけを自分のもとへ招き入れたらいい。
身の回りのなにを選ぶにしてもーー友人やパートナーを選ぶときなどは、とくにーー同じことが言えるのではないかと思うのだ。

「器をさがす」ーー寿木けい『閨と厨』より

「あなたはよくばりだ」と友達に言われたことがある。人一倍怖がりで、変化を嫌っていた私は、あらゆる可能性を抱え込むことで安心したかったんだと思う。誰かを好きでも、他の誰かに気持ちを残したり(世間的にはキープ、というんだろう)そうしていないと怖くてしかたなかった。仕事だって、ほんとうに好きで好きでしかたないものに真正面から挑むのが、ずっとずっと怖かった。
でも、自分自身に向き合い、人に会って見極めているうちに、迷いがなくなってくるのがわかった。自分がどんなタイプに欲情し、好きだと思い、大切に思うのかが明らかになってきたころ、友達から「なぜかわからないけどどうしてもあなたに会わせたい人がいる」と話された。私はその人の話を聞いて、好きになるだろうと思った。神戸の人だときいて、よけいに確信した。その人も、私のことを好きになるだろうと自然に思った。見たこともないし、写真もなく、話しか聞いていなかったけど会いたくなった。そうして初めて会ったとき、もう何も迷わなくていいと思ったし、怖がることも不安になることもなく、誰かに大仰しく話すこともなく、それから一度も会ってはいないが気づいたら一緒になっていた。

今朝、夢を見た。毎日夢を見る私は、毎日見る夢の内容も決まっていて、それはいなくなった家族たちがみんな我が家の食卓に集っているものがほとんどだ。集まれば騒がしく、そして母の姉妹はよく喧嘩もしていて、それを祖父と伯父がほろ酔いで見ている、そんな風景がいつも夢に出る。私は、この世界にはいくつかの並行世界があり、どこかで行われていることが夢に出てくる、そう思っている。今もどこかでみんなが生きて、お笑い番組を見て大爆笑して、おばあちゃんの作った大量の揚げ物を食べて、そして喧嘩したりしているんだろう、と。
今朝の夢は、そんな中、私が伯母に叱られて泣いていた。泣いている自分は部屋に駆け込んで、すぐに電話していた。一度しか会っていないその人に、まるでずっと昔から知っている人のように電話していて、そこで目が覚めた。でも私は驚かなかった。私の中では、そういう人なのだ。

いつか淡路島にも行くんだと思う。あのとき、小さな私の胸を痛めつけた遠ざかる景色の中にまた足を踏み入れるんだろう。もう二度と、自分にはやってこないと思っていた景色や気持ちが、これからの人生でたくさんやってくるんだろう。自分を待ってくれる人がどんどんいなくなる人生だったけど、こうして増えていくこともあるんだな、と思うと、うれしくて胸がつまる。

ひとりで歩くことができなくなって、5分に一回私を呼びつけるおばあちゃんの切ないくらい大きな声を聞きながら、いつ伯母が鍵をこじ開けて侵入してくるかと怯えて、着替えることもできずに毎日泣いていた去年の私の背中をさすりたい。捨ててしまったものは戻ってこないけれど、なくしてしまったものなら急に返ってくることあるんだぜ、という歌詞を噛みしめる。みっともなくても、周りから見て不思議でも、幸せになることを諦めずにもがいているうちは、こういうことも起こりうるのだと、かつての私と、かつての私みたいな人に見せたい。

伯母を亡くしてからの6年、いつ死んでもいいと本気で思っていたけれど、今はあんまり死にたくないなあと思い始めている。

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