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多様性におけるアノマリー

たまにはキュレーションブログではない記事

ADHD・アスペルガーなどの障害
最近できたこれらの障害
言葉自体は2008年から使われ始めている

昔は”ちょっと変わったやつ”くらいの認識だったものが
今や列記とした障害と言われている

自分も軽いADHDを持っている
特に自覚したこともないのだけれども

これらの障害がない”普通”とは何なのか?

ひとつ例えるならば
RPGなんかの”ゲームのパラメーター”何じゃないかと
たまたま初期パラメーターが偏っているということ

通常RPGではレベルが上がったときのスキルポイントが付与され
それぞれ攻撃力やら防御力、魔力やすばやさなどのステータスに振り分けることができる
”レベルが上がる=経験を積む”という行為

そしてRPGであれば戦士や魔法使いなどで得意分野に振るのが定石だ
戦士であれば攻撃力特化 魔法使いであれば魔力特化といったように
それぞれのカラーを出すことがパーティでの各々の役割だ
なので戦士に素早さを期待しないし、ましてや魔法使いに斧で攻撃できる攻撃力を期待してはいない

ただ、現実ではそのステータスの強みを伸ばすことはせず
弱みを埋めなさいという教育がされているし、そこを埋める努力が推奨されている

なぜだろう?
ヒントは第2次産業革命にあるのかもしれない
日本では戦時中の軍隊での規律制度から戦後の工場生産モノづくりにて
一気に第1次産業革命を経ずに第2次産業革命にリープフロッグした
大規模工場生産下では突出した個性は不要
”平準化”という言葉も工場から生まれている 
上も下もいらない
”粗悪品””コスト高いもの”はいらないという考え
これは戦後のモノづくり産業では王道であり決して間違ったものではない
バブルの中で同一のクォリティで同じ経済成長曲線で未来へ進むと考えられていたからだ

バブルが崩壊し、”個性”へのフォーカスがされゆとり教育が始まった
ビジネスモデルが崩壊したので個人主義に移行しようという試みだ
時間を与えるので自分を見つめて得意分野をみつけようということだ

自分を見つめて本当を知ることなんざ禅の境地
それを子供にやらせるのは酷なのではないかと思う
せいぜい持て余した時間で游んでしまうのが関の山だ
当然学力低下を引き起こし、さらに模範を示せる大人もいない

時代は流れ
”個性”はある程度の人権を持った
たしかに過去から比べれば”個性”の捉え方が寛容になっている
ただ、先に挙げた”一部の個性””障害”と言い”没個性を推奨している一面”もあり
とても気持ちが悪い

”多様性””ダイバーシティ”という言葉が声高に言われだし
猫も杓子も多様性だ
私はこの言葉たちにも違和感を感じている

多様性の意味を把握していない使われ方をしているからだ
多様性とはその前提の範囲を決めておかなければならない
多様性は決められた共通認識のレギュレーションの範囲でなければただのアノマリーでしかない
しかもアノマリーの境界線が曖昧になっているので両方が混在している

この違和感は多様性、ダイバーシティという言葉がもたらした
ただのムーヴメントなのかもしれない

ということを今朝通勤で歩いている時に考えていたという話

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