シン・エヴァンゲリオンを観た(ネタバレ)

隙自語

 2000年代中盤、14歳の時に後追いで旧劇まで視聴し衝撃を受け、ネット上の二次創作SSを読み漁った結果として痛LASの者となり、新劇Qまで観た段階でああこれは惣流じゃなくて式波なんだなあ、彼女が別人であるなら自分が見たかった2人の結末はやっぱりあの赤い海以外にないんだ、この先何があっても我々(誰?)が求めていたところのLASを劇場で観られることはありえまい、と納得して以降はそれほど入れ込まずに素朴にシンを楽しみにできていた感じのおっさんです。TVシリーズから続く物語としてのエヴァの呪縛は個人的には約10年前にあらかた終わっていて、エヴァというIPをどう終わらせるのかについての興味だけが残っていたような心境。
 多少気をつけていてもネタバレを踏まされそうになる局面が増えてきたので自衛のために先に観ておくかと思って視聴したものの、もうちょっと設定をおさらいしておけばよかったなあと後悔している程度には設定面の理解が追いついていません。なので全体的に絵とかキャラの感情とか周りにしか目が行っていないはず。

 以下、各論。

総括

 面白かった。いやほんとに。

 執拗に繰り返される旧劇への捻れた参照には変な声が出そうになり(シンジに馬乗りになるアスカ、ゲンドウを射撃し命中させるリツコなど枚挙に暇がない)、冒頭から一貫して異様な存在感を示すマリにお前結局なんなんだよと思わされ、そっくりさんの振る舞いにここ17年くらいで初めて綾波レイかわいいじゃん……と思わされたりしていたらシンジくんが自分の意思で落とし前をつけに行く話が展開されつつ、昔から明らかにされてはいつつも、常に描写の対象外にされ続けていた碇ゲンドウの内面がようやく詳細に語られ、親子の対話が成った時にはああ観てよかったなあと思えた気がした。
 新劇で釣りエンド@エヴァ2が観られたら成仏する宣言をどこかでした気がするけど、まあ広義の釣りエンドといってもよかったのではないか(?)。

 旧劇で一番好きなのがミサトさんとの別れのシーンで、次いで好きなのがゲンドウ補完時の「すまなかったな、シンジ」の一言だったオタクなので、この2人とのコミュニケーション全般に関してはまあブチ上がったよね……。俺と同じものを好きな人間がエヴァ作っとる!!!! というシンクロ感。

 上記2人を筆頭に、全体的にこれが観たいのになあとQで思っていたキャラ / 展開を丁寧に拾っていた印象があって良かった反面、丁寧すぎて3割くらいQ解説編みたいになってしまっていたきらいはあったな……。
 構成的には、やっぱりQの尺を増やしてシンを削るのがよかったのではないかなー、とは……。もちろんQの反応を見てからシンで調整した部分は大いにあったんだろうけど、Qがひたすらダウナーに突き進む話だったのはやっぱりキツかったよな。もちろん三人が歩んでいくラストシーンに希望は示されていたんだけど、第三村をチラ見せするくらいしてくれていれば、もうちょい感覚的によい後味を残せたのでは、という……。

 CP周りはどうなんですかね……。またアスカが貧乏くじを引かされているなあ、という感覚がありつつ。正直ヒロインなしで終わると思っていたので、マリがあのポジションに滑り込んできた時にはめちゃくちゃびっくりしてしまった。

 冒頭でも書いた通り設定面が全ッ然拾えていないので、ユイやカヲルをどう扱えばいいのか解らない。ここは解説とか頼って補完しつつ、そのうちBDか何かで改めて拾い直そうかなと……。

成長 / 大人になることについて

 オタクは大人になれ、というメッセージが込められているのだという趣旨のネタバレというか示唆というかを各所で見た気がしたけれど、個人的には全然そういう印象はなかった。結構危惧していた(やらないでほしかった)要素なので、肩透かしに感じつつも安堵。

 作中における「大人」という言葉のニュアンスが使う人物(の立場)によってずれていることには注目すべきだと思う。トウジが遣う時のそれは「過酷さを増した世界においてそれでも生きるための覚悟を持つ、被保護者でない者」くらいの意味だし、アスカが遣う時のそれは「(シンジの理想を夢見ながらも責任を放棄しようとするさまを『ガキ』と称しつつ、その対義語として)現実を飲み込んで自分がやれることをやる者」だし、ゲンドウが遣う時のそれは「他人から向けられた想いを拒絶せず、受け取る能力のある者」くらいの意味だ。
 オタクは(オタクをやめて)成長しろ、と庵野秀明が本当に映画を通して主張したかったのなら、シンジがアスカの成長を後追いして2人が同じ目線を持たなければならない。夢想し、現実を拒絶する者としてのオタク像と対置されるような意味における「大人」概念を用いていたのはアスカだけだからだ。しかし実際にはアスカの振る舞いもまた歪みを抱えたものであることが示され、シンジはアスカとは別種の強さを内面化し、ゲンドウと対峙する。これでオタクやめろメッセージを汲もうとするのは結構厳しいものがあるんじゃないかな。

 冒頭の大地に根を張り暮らすシーンは尺の長さと絵の美しさとでやはり印象的ではあるけれど、あそこで育まれた営みの美しさそのものがシンジを「成長」させた印象は特になくて、あの懸命に生を紡ごうとする営みがそっくりさんを人間にして、そんな彼女の変化そのものがシンジの変化の契機になった……って話だと思っていて。そういう(トウジの語ったような)意味でも、「大人になれ」という話ではなかった気がする。

補遺

 なんか思った以上に書くことあんまりないな……。感覚的には割と旧劇を飲み込みやすくしたもの + 二次創作におけるアフターEoE的な想像力の排除(本当の意味での「終劇」の実現)が目指されていたものなのかなという第一印象があって、でも設定周り全然わかってないので色々見落としているんだろうなくらいのあれです。やっぱりもう一回観る必要はあるか……。

 そういえばちょっと『からくりサーカス』を思い出すところはあって、やっぱり妄執を断ち切るのは共感であって正しさではないんだよなー、という。アスカの正論がシンジに全く響いていないこと、なんかも併せて。

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