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水俣から始まるエコツーリズム

白黒写真の水俣
 私が「公害」について学んだのは、たしか小学校六年生の社会科の授業だった。教科書の片隅にあった白黒写真の少年たちが煙の中をマスクで登校している様子はまだしも、なにより衝撃的だったのは手の節が折れ曲がった人の白黒写真だった。工場が水銀を海に流してそれを魚が飲み込み、それを人間が食べたらこうなった、というような解説だったと思うが、それは私の語彙に「水俣病」が加わると同時に暴力的なまでの強さで「折れ曲がった手」が脳裏に焼き付く瞬間でもあった。
 1971年生まれの私にとって、自分の生まれる直前に「公害」という恐ろしい問題があったことは衝撃ではあったが、山紫水明の奥出雲の少年にとって、これはどこか遠くの昔話だった。そもそも80年代の日本はどんな田舎でもカラー写真だったはずだが、教科書でみた白黒写真というのは私が生まれた直前でありながらも何やら戦時中のことと同じくらい昔のことと感じていた。同時進行で苦しむ人々がいるという現実もしらず、ましてや同い年の子どもの中に胎児性水俣病患者がいたことなどは知る由もなかった。
 大学時代、熊本出身者に出会った。熊本のどこかと聞くと、「南のほう。」と答えた。もしかしたら水俣ではと思ったが、それ以上はあえて問わなかった。思うに「水俣病」とは水俣市民にとってあまりに残酷な「病名」ではないか。まるで市民全員があの白黒写真のように手足が折れ曲がっているかのような誤解を生じかねない。
 しかし「水俣」というのは地名であると同時に、「強い」人間が自然を破壊し、それが「弱い」人間の命を奪う公害のむごさを世界に訴える普遍的な事象の代名詞でもあるのだ。そしてそれを世に訴えた作品が地元の主婦、石牟礼道子の「苦海浄土」だった。
 実は私はこの作品を読むまで、環境問題に対して人並み程度の関心しかもっていなかった。しかし読んでからは可能な限り日本各地の環境問題の現場を歩くようになった。そして「苦海浄土」とほとんど同じ現象が手を変え、品を変え行われてきたことに気づいた。今回はこの「苦海浄土」の名言を散りばめながら、水俣から始まって約五年間かけ日本中を歩た紀行文である。

 水俣へ
 水俣を初めて訪れたのは、いわゆる「四大公害裁判」からちょうど半世紀たった2017年の暮れのことだった。鹿児島から山道を通って水俣の中心部から南東に10㎞ほど行った湯の鶴温泉で宿をとった。この鄙びた温泉街は公害のような「近代的現象」とはかけ離れた別天地だ。おそらく昭和のころは栄えたのであろうが、投宿した温泉旅館だけでなく周囲もくたびれきっており、朽ちかけた建物も多数あってキツネかタヌキでも化けて出そうだった。私の部屋にいたっては雨漏りが激しかった。
 翌朝霧雨たちこめる中、その温泉街を出発し、棚田や段々畑の間の山道を下っていくと水俣の市内についた。いたって普通のどこにでもある小都市だ。ここが戦前1932年から40年近くも有機水銀を垂れ流し続けたチッソ水俣工場の企業城下町としてあまりにも大きな代償を伴った、というにはあまりにあっけないほど「くたびれて」いる。
 水俣病がなぜ起きたか。それはこの企業のもつ人権無視、環境無視、そして利益追求を極めた結果だというのは大前提だが、話はそこまで単純でもない。チッソがなければこの僻地の漁村を活性化させることができないという行政側の大企業追従の在り方と、公害におかされる故郷に目をつむってでもそこで働かねばならない地元の人々の暮らしもあった。さらにはプラスチックという当時最先端の素材を作る当時のチッソはそれこそ東大卒のエリートでも入社が難しいとされている「超優良企業」だったからだ。そんな企業が「おらが村」にあるという誇りも問題の本質を見えなくしてしまったようだ。 
 「不知火(しらぬい)海」とも呼ばれる八代海沿岸のエコパーク水俣についた。広く清潔で日本庭園などもあるこの大型公園は、かつて有機水銀を含むヘドロで汚染された場所を埋め立てて造成したところで、市民の憩いの場になっている。この公園の広さはそのまま汚染面積の広さを示している。人工的なまでに無味無臭のその公園の周辺には、かつて豊かな海の幸に感謝しつつ生きてきた漁民たちの家が連なっていたはずだ。

「怨」の字の幟
 水俣市立水俣病資料館に入館した。内容は事前に知っているものがほとんどであったが、やはり壁一面のパネルが延々と続くとその重苦しさが違う。なによりこの場所の下が有機水銀で汚染された魚だらけだったことを思い起こすと、不快感が沸き起こる。本で読むだけではこうはいかない。
 展示品のなかでも最も強烈だったのは縦長の黒い布地に「怨」の一文字が白く染め抜いてある抗議用の幟である。たとえば「工場閉鎖!」「汚染水放出反対!」「子どもの命を返せ!」等の具体的な要求であれば人のこころの奥深くまで届かないかもしれない。しかし「怨」の一字にはそこはかとない不気味さがある。これは要求ではなく「呪い」だ。「苦海浄土」の一文を思い出す。
 「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、四十二人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか。」
 四十二人というのはその時点での水俣病による死者数、六十九人というのはその時までの胎児性水俣病患者、すなわち生まれたときからの水俣病患者の数である。これが被害者の「要求」、いや「呪詛(じゅそ)」なのだ。身震いがしないはずはない。被害者の人間性まで奪わんほどの残虐性が水俣病の本当の恐ろしさであろう。
 一方でこのような被害者の言葉も印象的だ。
「いままで仇ばとらんばと思ってきたけれども、人を憎むということは、体にも心にもようない。私たちは助からない病人で、これまでいろいろいじわるをされたり、差別をされたり、さんざん辱められてきた。それで許しますというふうに考えれば、このうえ人を憎むという苦しみが少しでもとれるんじゃないか。それで全部引き受けます、私たちが。」
 チッソ側からすればこれほど都合の良い、おめでたい人たちはいないことだろう。一方でこのような意見は公害の責任の所在をぼかし、免罪にしかねないと批判される。しかし結局は「怨」のこころを持ち続けても自分がつらいだけだろう。だからといって「許し」「背負う」という不条理なみちを歩むしかないのもかなしすぎる。公害はあまりに多くの人の人生を破壊したのだ。

海の向こうの「浄土」
 エコパークは不知火海を埋め立てたものなのですぐ外に内海が見える。向こうに見える島影は、石牟礼道子の生まれた天草諸島だ。彼女は「苦海浄土」で自らの生い立ちをこう述べている。
 「そのときまでわたくしは水俣川の下流のほとりに住みついているただの貧しい一主婦であり、 安南、ジャワや唐、天竺をおもう詩を天にむけてつぶやき、同じ天にむけて泡を吹いてあそぶちいさなちいさな蟹たちを相手に、不知火海の干潟を眺め暮らしていれば、いささか気が重いが、この国の女性年齢に従い七、八十年の生涯を終わることができるであろうと考えていた。」
 海の向こうの「安南、ジャワ、唐、天竺」に、浄土を想っていたのがいかにも天草人らしい。彼女より上の世代の天草は貧困の島々で、 東南アジアや中国等に身売りする女性たちが多数いたという。「からゆきさん」と呼ばれた彼女らを取り扱った山崎朋子の「サンダカン八番娼館―望郷」が執筆されたのは「苦海浄土」発表の数年後、1972年のことだった。近代日本の片隅であるがゆえに海の向こうに活路を見出そうとした彼女らも、海の東の九州本土、水俣の地に活路を見出そうとした石牟礼道子の両親も島では暮らしてゆけず、「ここではない、どこか」を求めた天草の「流れ者」だったのだろう。
 天草から来た石牟礼道子にとって、水俣の地は「浄土」であるべき土地だった。そしてそこは「天にむけて泡を吹いてあそぶちいさなちいさな蟹たち」とあるように、人間もカニなどの魚介類も等しく幸せに生きていくべき場だったのだろう。怒りとかなしみに満ちた作品ではあるが、そこはかとなくやさしさも感じられるのは、小動物に対する思いからに違いない。

民俗学者、谷川健一
 同時代の水俣が生んだ在野の行動する学者たちのなかに、谷川健一・雁兄弟がいる。弟の雁は在野の文学サークルを主宰し、石牟礼道子を文学の世界にいざなった。
 一方、兄の健一は在野の民俗学者であり、一時代を築いたが、どうしてもふるさと水俣に戻れなかった。「水俣=公害病」としてしか見ず、被害者以外の「普通の人」がどのように暮らしてきたかには重きを置かない「一般人」に、「そんなんで被害者の気持ちがわかるか!」とでも言わんばかりに水俣を意図的に避けた兄、健一だったが、それはふるさとへのあふれるまでの想いの裏返しなのだろう。石牟礼道子には「水はみどろの宮」という児童書がある。それにこのような一文がある。
「不知火海という美しか海が、ここからほら、雲仙岳のはしに見えとろうがの。
六十年ばかり前、海に毒を入れた者がおって、魚も猫も人間も、うんと死んだことがある。
五十年がかりで、自分たちの立ち姿だけで、海に森の影をつくってな、その影の中に魚の子を抱き入れて、育てた木の精の代表が、一の君の位に上がった。
命の種を自分の影の中に入れて育てて、山と海とをつないだ功労により、一の君と申しあげる」
 この世界観は民俗学を「神と人間と自然の交渉の学」と定義した谷川健一のことばを子どもにわかりやすくしたようでもある。少年時代はあんなにきれいだったふるさとが穢されたことへの憤り。それに対する自分の無力感。さらに水俣に対する世間のまなざしに対する違和感をつきつめて紡ぎたした民俗学の定義が、「自然を崇め、畏れながらも略奪する人間と、それを回復しようとする人間。そしてそれをじっと見ている八百万の神々との関係」であり、一生をかけてそれを解き明かそうとしたのだろう。
 谷川健一は沖縄などの南島を主たるフィールドワークの場として来たが、彼が南洋に見たものも「ニライカナイ」という名の浄土だったのかもしれない。「浄」というのは水銀によって穢され、失われる前のふるさとの姿にちがいない。そして「神と人間と自然の交渉の学」という見方はその後の私の環境問題に接する際の基本的な見方となっていった。
 水俣を去って一ヵ月半後、石牟礼道子の訃報を聞いた。私の環境問題の旅は始まったばかりだった。

とめられなかった新潟水俣病
 水俣の悲劇は水俣だけでは終わらなかった。九州南西の水俣とほぼ同時進行で日本海側の北東、新潟でも同様の水質汚染が起こっていたからだ。しかも1950年代終わりには水俣の「奇病」のことがスクープされていたにもかかわらず、会津から新潟市に向けて流れる大河、阿賀野川に位置する昭和電工鹿瀬工場は大量の有機水銀を清流にまき散らし、多くの魚を死滅させていたのだ。
 水俣を訪れた翌年、2018年9月に新潟を訪れた。深い緑色をたたえた阿賀野川は今、カヤックやSUPなどに興ずる人々でにぎわっており、水銀が垂れ流されたことなど嘘のようである。水俣のチッソと同じく、プラスチックや合成ゴムを製造するもととなる「アセトアルデヒド」の製造過程で触媒として使用されたのが水銀だが、これをこの清流に流すとどうなるか。科学者なら当時だれでも知っていたはずだが、みなが見て見ぬふりをしたのだ。「苦海浄土」には被害者のこのような話が載っている。
「自分は水俣病患者だが、自分がもしチッソに勤めていたら、自分も同じことをしただろう。」
被害者にしてもこうである。ましてや従業員は食い扶持を守るために、また「仲間」を裏切るわけにはいかないため、科学者としての良心に蓋をしてしまわざるを得なかった。それがチッソであり、昭和電工の空気だったのだ。最初に被害者の漁民たちが声を上げたのは阿賀野川が日本海に流れ出る河口周辺である。工場から60㎞ほどもあるため、昭和電工は自分たちの責任であるとは考えもせず、有機水銀を垂れ流し続けた。現在「新潟昭和」となった工場跡地近くには、今なお当時の排水溝の跡が残る。

「黄門様」なしで「悪徳商人」「悪代官」と戦う人々
 さらに悪いことに、国による「事実の握り潰し」が起こってしまった。政府は水俣病総合調査研究連絡協議会を発足させ、通産省が昭和電工に対して水質調査を行わせた。その分析結果としてチッソと同等かそれ以上の水銀が流出していたにもかかわらず、その結果を公表せず、あろうことに協議会を消滅させた。国ぐるみの犯罪である。
 私の脳裏に「昭和電工=悪徳商人」「政府=悪代官」、という単純明快な「水戸黄門」の構図が浮かんだ。それが水俣でも新潟でも繰り返されるのだが、問題は彼らの悪事を暴く「黄門様」はおろか、助さん、格さんも被害者たちにはいないことだ。そういえばこのご長寿時代劇が始まったのは1969年、まさに日本中公害に悩まされていた時代だった。
 科学は口をつぐまないが、政治家にとりこまれた科学者は口をつぐむものだ。知識はあっても知恵のない者が科学知識のみを身につけると、社会に甚大な被害をおよぼすことを、公害問題は証明している。

貧困と被害者と浄土真宗
 また、貧富の格差の問題もこれに輪をかけた。「苦海浄土」には漁民の言葉として
「水俣病は、びんぼ漁師がなる。つまりはその日の米も食いきらん、栄養失調の者どもがなると、世間でいうて、わしゃほんに肩身の狭うござす。」
とある。熊本の水俣病患者のほとんどが漁民だったことと同じく、新潟とはいえ越後平野から隔たっているため稲作にはそれほど適していない阿賀野川沿いの漁民の中には、川魚を「主食」としてきた人々が少なくなかったという。「栄養失調」の対策としてたんぱく質を川魚で補おうとしたのが裏目に出たのだ。
 ちなみに新潟に限らず、漁民には浄土真宗門徒が多い。昔から「殺生をする」とされた漁民に救いの手を差し伸べ、極楽浄土にことを説いたのが浄土真宗だったからだ。興味深いことに四大公害病とされる地域は、四日市でも富山でも真宗門徒が多いのは何かの偶然だろうか。水俣病のために話ができない孫、「杢(もく)」を育てる老夫婦の言葉には、真宗門徒らしい苦悩が現れている。
「なむあみだぶつさえとなえとれば、ほとけさまのきっと極楽浄土につれていって、この世の苦労はぜんぶち忘れさすちゅうが、あねさん、わしども夫婦は、なむあみだぶつ唱えはするがこの世に、この杢をうっちょいて、自分どもだけ、極楽につれていたてもらうわけにゃ、ゆかんとでござす。わしゃ、つろうござす。」
 真宗の教えでは「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土に往生できるという。しかしそれでは親のいない孫はどうしてこの「苦海」を泳いでいけるのか。政府やチッソが見てくれるわけではないのだ。

「新潟水俣病資料館」の呼称
 水俣市の水俣病資料館はかつての汚染地域を埋め立てて造られていたが、新潟水俣病の資料館は阿賀野川沿いではなく、汚染地域から離れた福島潟に建てられている。しかも施設名は「新潟県立環境と人間のふれあい館~新潟水俣病資料館~」であり、「水俣病」という言葉が目立たないように気を使っているのが逆に気になる。また、内容も水俣市のものと比べると公害に対する怒りよりも、清らかな阿賀野川の豊かな生態系を再現したものや、漁民の小舟など、生物学的、民俗学的視点からみた阿賀野川の紹介が半分以上で、水俣病に関してはその残りのスペースといったところか。
 小学生の作成した壁新聞や語り部のコーナーなど、目に見えるところに水俣病を置かないだけなのかもしれないが、昭和電工からの寄付を原資に2001年に開館したこの資料館の建設には紆余曲折があった。被害者集住地域に建てようとしても、水俣病患者であることがばれる、または患者だと誤解されると思う人々が多かったからだ。
 先ほどの熊本水俣病患者も「わしゃほんに肩身の狭うござす。」と言っていたが、被害者でありながら貧困のため肩身の狭さを感じねばならないだけでなく、「水俣病は伝染病だ」と思っている人々からの偏見もひどく、水俣病患者としての症状が明らかにあっても子どもの結婚のことなどを考えると水俣病患者として申請をしたり、原告として争ったりなどということはできなくなるのだ。

「厄介者扱い」
 さらには水俣病患者の惨状が新聞や雑誌などに載り、テレビなどで放映されると、それに拒否反応を起こす住民も少なくなかったようだ。「苦海浄土」では被害者の言葉がこのように表現されている。
「う、うち、は、く、口が、良う、も、もとら、ん。案じ、加え、て聴いて、はいよ。う、海の上、は、ほ、ほん、に、よかった。」
 このような表現は文学としてなら哀れをさそう。しかし自分の娘の舅や姑がこのような人であれば、かわいい娘の苦労が初めからわかっている。また、就職差別も受けたというが、親がこのような病気だと、雇用者からすれば仕事に支障をきたすことも目に見えている。偏見とはまた違う、現実的視点から「厄介者」あつかいされたくはないので、自分の地域にはこのような施設を建ててほしくなかったのだろう。
 さらに大々的に「水俣病資料館」としないのも、決して昭和電工を許したからではない。その矛先が改めて自分たちに来るのを避けたいという、「寝た子を起こすな」とでも言わんばかりの悲痛な思いがそこにはあった。結局新潟水俣病裁判から三十数年たってからでなければこの施設が開館しなかった理由は、昭和電工側というより周囲からの無理解、偏見に起因するものだった。

水質汚染より治りにくい人のこころ
 私は水俣に行くまで、公害被害者に対する補償は終わっているものと勘違いしていた。新潟でも同様だと思い込んでいた。しかし昭和を通して補償を勝ち取った人はごくわずかだった。その原因には、水俣病患者としての症状はもちろんのこと、居住地区やその期間、魚を中心に食べていたことの証明など、認定が極めて厳格だったからだ。
 それに加えて前述のとおり、結婚や就職など、家族に対する世間の目と補償金を天秤にかけ、補償金をあきらめた人も少なくなかった。また同じ漁村から患者が続出したらその漁村でとられた魚が売れなくなることを気にして村中で箝口令が敷かれたことなど、水俣病患者でありながらそれを認められない人も少なくなかったのだ。
 さらに患者申請をして補償金をもらった者に対して「ニセ患者」呼ばわりする者さえいた。2009年には環境省の担当部長さえ「ニセ患者発言」をしてしまうほどだった。昭和の話ではない。環境は改善されても人権感覚は旧態依然としているのがこの国なのだ。
 そう考えると「環境と人間のふれあい館」という名称、特に「人間のふれあい」という表現にはそのような裏の意味がこめられているように思われる。公害病は直接的には汚染源である昭和電工の、間接的にはそれを食い止められなかった国や県の責任である。しかし患者が自らの病を隠さねばならないような状況を看過したことについては我々一人ひとりの責任である。公害問題に関する無関係者はまずいないのだ。
 今は美しく清らかな深緑色をたたえて流れるこの阿賀野川にはカヌーを楽しんだり川沿いをサイクリングしたりする人々もよく見かける。環境は戻っても、もしかしたら「人間のふれあい」、もっと言うなら分断された人々を元に戻すことのほうが難しいのかもしれない。公害問題は我々にこのような課題を我々に残していった。

四日市へ
 新潟を訪れた翌年、2019年8月に四日市を訪れた。四日市というと「四日市ぜんそく」が思い浮かぶが、ぜんそくは公害の一部に過ぎず、当時を生きていた人々は、大気汚染はもちろんだが鼻が曲がるほどの悪臭に閉口したという。
 名古屋から向かった車が木曽川、揖斐川を越えて伊勢湾を南下するうちに、四日市市内の中心地の駅前についた。三十万都市として大きくも小さくもないサイズである。駅前すぐのところに「四日市公害と環境未来館」があるので訪れてみた。内部は壁一面の白黒のパネルの連続である。まるで「不幸な水墨画」を見せられているかのようなこの空間に「主人公」がいるとすると、高い煙突の群れと、そこから白くもくもくと吐き出される煙である。
公害がどのように起こったか、一通り見ればわかるようになっているが、熊本県の水俣病資料館に比べると公害問題を起こした張本人を糾弾してやろうという「パンチ」が弱い。そもそも四大公害関連の資料館としては最も遅い2014年に開館しているだけでなく、被害者集住地域に開館しなかったという点からしても、被害者とその他の市民と行政と工場側のあいだの半世紀にもわたる争いと忖度が想像できる。
 土地鑑がないのでわからなかったが、被害者が集住する地域はこの駅前ではなく、5,6㎞南下した海沿いの塩浜地区や磯津地区が最悪の被害地域である。塩浜に向かって車を走らせると、工場の煙突だらけである。たまたまかどうか分からないが、煙はちょろちょろとしかたなびいていない。もしこれだけの煙突から処理されていない煙が四六時中で続けていたら、と思うと身震いする。

「臭い魚事件」
 ここも戦前はのどかな漁村だったはずだが、今はコンクリートの護岸でかためられており、その片鱗さえうかがうことはできない。伊勢湾の豊かな漁場で海に感謝しつつ暮らしていた漁民たちの生活が一変したのは1950年代に石油コンビナートが誘致されてからだった。人々はコンビナートで「勤め人」として働いて現金収入を得ることでより豊かで近代的な生活ができると信じていた。しかしその夢は工場運転開始直後にはもろくも崩れた。
 水俣で最初の「被害者」となったのがプランクトンや魚であったのと同様、ここでも最初の被害者は魚だった。あれだけ豊かだった魚介類もとれなくなり、とれても臭くて食べられないものになったのだ。コンビナート完成の翌1960年に起こったこの「伊勢湾臭い魚事件」は日本中に衝撃を与えた。
さらに東京五輪で日本中が沸いていた1964年、水質だけでなくあまりの煤煙のひどさに四日市市内では全小学校および幼稚園に空気清浄機を設置した。「苦海浄土」では著者石牟礼道子が
「すこしもこなれない日本資本主義とやらをなんとなくのみくだす。わが下層細民たちの、心の底にある唄をのみくだす。それから、故郷を。それらはごつごつ咽喉にひっかかる。」
と述べるくだりがある。
 水俣でも新潟でもそしてこの四日市でも、高度経済成長を国是とした当時、「日本資本主義」とやらの論理に従い、資本家が下層細民のふるさとを奪ったうえで彼らを使い、この新しい激変を「のみくだせない」人々をも巻き込んで経済発展至上主義を達成させようとした。人間は二の次、環境は三の次だったのだ。

公害被害地区は四日市だったのか?
 石牟礼道子は日本における公害問題の原点として、当時から見て70年前の足尾銅山鉱毒事件を研究し、鉱毒を沈殿させる場所として選ばれた栃木県谷中村を訪れたりした。日本資本主義とやらと民衆と公害との関係を追い続けつつ、彼女はまとめる。
「水俣病事件もイタイイタイ病も、谷中村滅亡後の七十年を深い潜在期間として現われるのである。新潟水俣病も含めて、これら産業公害が辺境の村落を頂点として発生したことは、わが資本主義近代産業が、体質的に下層階級侮蔑と共同体破壊を深化させてきたことをさし示す。その集約的表現である水俣病の症状をわれわれは直視しなければならない。」
 このくだりに「四日市」という言葉はない。「資本主義近代産業」が「産業公害が辺境の村落を頂点として発生した」という「辺境」に、中京工業地帯の一大中心たる四日市がふさわしいかいなかは疑問だからであろうか。しかしビルやホテルの連なる四日市駅前から川向こうの工業地帯は、駅前の住民からどのようなまなざしを受けてきたのだろう。
 「四日市公害と環境の未来館」と同じ建物内にあった市立博物館の「時空街道」という江戸時代の四日市を再現した展示を思い出した。五街道の大動脈のなかの大動脈、東海道の宿場町であり、将軍家直轄地の天領でもあった四日市の人から見ると、塩浜地区は生活圏ではなかったかもしれない。
実際塩浜地区が「塩浜村」から「四日市市」に編入されたのは1930年である。60年代になっても四日市の中心部の人々にとって、ここは新参者の辺境だったことは容易に想像できる。四日市駅前の人々にとって、公害で苦しむ人々は同じ市民ではなかったのだろう。

コンビナートの夜景はあだ花
 現在は大気汚染問題も過去のものとなりつつあり、四日市観光において最も人気なのが夜景のクルーズだという。武骨な工場のコンクリートや高い煙突、むき出しのパイプ等が赤や緑の光に彩られたここの夜景は確かに「インスタ映え」する。しかしここに至るまでどれだけ多くの人々が苦しんできたか、そちらのほうに思いをはせないではいられない。
 四日市の煙突を見ると子どものころに見た「タイガーマスク」の再放送を思い出す。1971年に放映された「煤煙の中の太陽」という作品で、四日市でタイガーマスクたちがプロレスの興行を行った。ちょうどその時ぜんそくに倒れる幼馴染を助けようと、孤児院の少年が工場の煙突にのぼり、大人たちに操業停止を約束するまで下りないと言い張る。タイガーマスクが少年を助けるために一人煙突を登っていき、少年をなだめ、工場側にも改善を求める、というような話だった。
 工場の煙突というと、塩浜小学校に1961年に作られた校歌は次のようなものだった。
「港のほとり並び立つ 科学の誇る工場は 平和を守る日本の 希望の光です」
それが1972年には次のように変わった。
「港出ていくあの船は 世界をつなぐ日本の 希望のしるしです。」
これは1960年代のわずか十年ほどで、工場の煙突に対する人々の想いが180度変わってしまったことを表している。四日市の煙突を見ても、つい「タイガーマスク」のくらい灰色の絵コンテや、この校歌を思い出す。インスタ映えする夜景など繁栄のあだ花にしか思えないのだ。

漁民一揆―一向衆の子孫たち、立ち上がる
 コンビナート建設前、ここには二千数百人の漁師がいたが、二十年で半減した。漁場を死の海にされた漁民たちは、先祖代々海の恵みのおすそ分けをもらってきた普通の暮らしを取り戻したい、という思いから、1963年に立ち上がった。そして工場側に対して実力行使の「漁民一揆」を行い、排水溝に廃船や土嚢を突っ込もうとした。
 この話を聞いてすぐ思い起こしたのは、一向宗門徒たちだ。その四百年まえ、二万名以上の真宗門徒が信長の侵攻に逆らって伊勢長島で大虐殺されたというが、彼らの末代がこの地区の漁民かもしれない。敵がどんなに巨大でも立ち向かっていくのは、「先祖の血」が騒いだのかもしれない。それを調停にきた県知事さえもここの魚を「臭くて食べられない」といったが、コンビナート側の職員は「うまい」という。どんなにまずくてもうまいとしか言えない職員は「王様は裸だ」と言えない大人のようで、滑稽ながら哀れでもある。
 大した進展もないまま、どうせ空気と水に殺されるなら一度法廷で決着をつけよう、という思いから、九名の被害者が立ち上がり、中部電力、石原産業、昭和四日市石油、三菱系グループ三社の合計六社を訴えた。素人集団が天下の大企業相手に勝てるとは、だれも思わなかったろう。現実にはタイガーマスクも水戸黄門も来なかったが、手弁当の弁護団と公害問題に目覚めた日本中の人々の応援が原告を後押しした。
 この「被告六社」としては水俣病のような因果関係がはっきりしたものと一緒にされてはたまらない、という思いもあったろう。水俣病やイタイイタイ病で死ぬ人はいても、ぜんそくを直接原因として死ぬのではないという傲慢な考えもあり、また水俣病やイタイイタイ病と異なり、汚染源が単独でないため賠償額に納得いかないこともあったろう。三菱グループのようにすんなり和解する道を選んだところもあれば、中部電力のようにふてぶてしい態度のところもあった。

「当たり前の生活」を送るのが生存権
 石牟礼道子の「名残の世」には彼ら被害者の想いが代弁されている。
「自分たちは、あるいは死んだ者たちは、生きてあたりまえの人生を送りたかったのだ、ということをおっしゃりたいのですが、なかなか相手にも世間にも、それが伝わりません。金をゆすりに来たぐらいにしか受けとりません。あたりまえに生きるとはどういうことか。この世と心を通い合わせて生きてゆきたいということなのです。」
 「当たり前の人生」が破壊された。よってそれを取り戻したい。それだけのことなのだ。恥ずかしながら最近まで「公害」とは「公的生活妨害」の略ということを知らなかった。「公的生活」とはつまり憲法第二十五条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」という生存権である。これを漁夫たちに当てはめると、一生懸命海の上で働いて海の幸をいただく健康な「当たり前の」毎日、となろう。そしてそれを脅かされていることが判決で認められたのだ。四日市公害の判決が守ったのは、殺された海や空気だけではない。「日本資本主義」とやらに殺されようとした日本国憲法の精神も守ったのだ。 
 改めて思う。やはり四日市公害と環境未来館は塩浜や磯津にあるべきではなかったろうか。利便性でいうと四日市駅そばが良いかもしれないが、今なお工場だらけのこの地区にあってこそ事件の恐ろしさをひしひしと感じることができるからだ。ここにあれば目の前の工場の煙突やコンクリートで護岸された海の見え方も変わってきたはずだ。その場にあってこその説得力というものに期待したいのだ。
 また、「四日市公害と環境未来館」というネーミングにも苦労の跡が感じられる。「公害」というネガティブなフレーズを「環境」というニュートラルな言葉で中和しようとしたのかもしれないが、今なお市の税収を各工場から得ている四日市市としては、工場および公害病とつかず離れずでなければならないと思うのはうがった見方だろうか。
 四日市市民の守ったものの大きさと、現実的に企業と付き合わねばならぬ行政の小ささを感じつつ、煙突のもとを去った。

直島と豊島は「アートの島」か?
 四日市を訪れた翌2020年9月に瀬戸内海の「アートの島」として名高い直島と豊島(てしま)を訪れた。直島はそれ以前にも訪れたことがあったが、直島からフェリーで豊島に行ったのは初めてのことだった。
 初訪問時には「とりあえず」メインとなる観光拠点をぐるりと回ってみた。「泊まれる現代アート美術館」ベネッセハウス。瀬戸内の海や空を背景にタレルやモネ、ウォルター・デ・マリア等の作品を展示した安藤忠雄設計の地中美術館。九軒の古民家再生をとおして地域再生とアート創造を同時に行った「家プロジェクト」など、いずれも見ごたえのあるものばかりだ。
コロナ禍に見舞われる一年前のこの時は、観光客の過半数がアートに関心のある欧米からの訪日客だった。私も現代アートには興味はあった。しかしそれ以上に関心があったのは島の人々の暮らしだ。もっと言うならこの島の人々にとっての関心ごとは何かということだった。なぜならこの島の20世紀のほとんどがアートとは無関係だということを知っていたからだ。直島町のホームページに町の沿革がこのように書かれている。
「大正6年になると三菱鉱業、現在の三菱マテリアル株式会社 直島製錬所が設立され、以来、島は飛躍的な発展を遂げてきました。さらに、平成元年には、福武書店、現株式会社 ベネッセホールディングスが直島文化村構想の一環として国際キャンプ場をオープン。その3年後にはベネッセハウスを開設するなど、文化性の高い島としても発展してきています。」
これだけの情報からわかることは何か。「大正・昭和の直島は三菱の企業城下町。平成はそれに加えてベネッセの文化的コロニー。」そのようにしか読めない私は相当ひねくれているのだろうか。人々はこの両大企業をいかに受け入れ、利用し、利用されたかについては言いたくないのか、言えないのか、そこが気になり、香川せとうち地域通訳案内士の講師として香川県に招かれた際、研修コースにはなかったが直島を再訪することにした。

直島を山手線にたとえると…
 高松港を出港したフェリーが直島の表玄関、宮浦港に着いた。草間彌生の赤かぼちゃが迎えてくれる。下船してSANAA設計の「海の駅なおしま」を歩いてみる。機能第一で開放感あふれる建物だ。小雨は降っていたがレンタサイクルで地中美術館を再び巡り、韓国を代表する現代アーティスト李禹煥(りうふぁん)のミュージアムもはしごしてから町役場もあり、家プロジェクトの中心地でもある港町、本村地区についた。
 家プロジェクトとは空き家を内外のアーティストがここに滞在しつつ、島の人々とともに作った作品群であるが、スタッフの方々が明るくおもてなしの精神にあふれている。聞けば英語を話せるスタッフも少なくないという。「アートの島」として知名度が上がった町を誇りに思う人も増え、島に若者がUターン、Iターンで戻ってきて喜ぶお年寄りもいるという。
 直島は周囲が28㎞ほどの縦長の島である。周囲約35㎞の縦長の山手線より2割小さいとしておこう。その場合、宮浦港の位置が新宿あたりだとするとベネッセの美術館群は恵比寿から品川、そして家プロジェクトの本村地区は神田から秋葉原あたりになろう。そして私は本村地区からスタート地点の宮浦港、つまり秋葉原から新宿に戻った。

アートとゲートボール
 出航時間まで40分ほどあったので、港近くの「I♡湯(あいらぶゆー)」という「入浴できるアート作品」に浸かってみることにした。外観も内部もオブジェだらけで落ち着かない。ただ刺激的ではある。観光客以外にここで入浴する島民がどれくらいいるのかと思って脱衣所に置いてあった資料を見てみると、島民の利用者は2%ほどという。つまり98%が観光客であったという現実にもかかわらず、ベネッセアートサイトのホームページによると
「直島島民の活力源として、また国内外から訪れるお客様と直島島民との交流の場としてつくられた…」
とある。本来の目的として、島民の活力源というが、その島民はほぼ来ない。また観光客と島民との交流というが、観光客ばかり利用するため、その機能を果たしていない。
 この銭湯風アートの近くにはゲートボール場があり、そこでようやく地元の元気なお年寄りたちの会話を聞くことができた。よそ行きの東京言葉や準よそ行き言葉の関西共通語ではなく、島の言葉を生き生きと話していた。やはりアート作品はベネッセや町や観光従事者が言うほどこの島には普及していないのだ。アートに関心の高い層にとっての「島民の声」というのはしばしば観光関連者や「意識高い系」に偏りがちだが、このゲートボール場のお年寄りたちにはアートなどあずかり知らぬ話なのかもしれない。
 偶然、住宅の庭が塀越しに見えた。内部の和室が外からもよく見え、掛け軸がかかっていた。これがこの島の飾らない「アート生活」なのだ、と安心した。水俣出身の民俗学者、谷川健一がふるさとをフィールドワークにしなかった理由が、「水俣=水俣病」という短絡的な思考回路を嫌い、「ミナマタ」以前の人々の営みに基づかない「水俣学」を認めなかったように、私も「直島=アート」で終わるのではなく、昭和以前の島民の営みに目を向けたかったのだ。
 時間が来たので船に乗り、直島の北側沖合を通って東の豊島に向かった。

「瀬戸内の足尾銅山」?
 直島を山手線にたとえると、新宿駅あたりにある宮浦港から西日暮里駅あたりにある北東部までの海岸線は立ち入り禁止だ。そこは三菱マテリアルの精錬所があるからだ。直島町はアートの島ということになってはいるが、税収でいうと三菱に足を向けて眠れないのが現実だ。現在ここには全国の「都市鉱山」に眠っていた貴金属をリサイクルする世界一の技術がある。しかし銅の精錬をしていた大正時代からはすでに亜硫酸ガスのひどさのために木々は枯れてしまった。これではまるで「瀬戸内の足尾銅山」ではないか。
 北部の沖合をフェリーで移動すると見えるのは土がむき出しになったはげ山と「プチ四日市」とでもいうべき工場の煙突群である。殺風景この上ないこの光景は、ベネッセによるアートリゾート化された南部とは全くの異世界だ。この島にいると、この光景すらシュルレアリスムのアートに思えてくる。しかしこれは厳然たる環境破壊の結果なのだ。
 直島町のホームページの「沿革」にこのようなことは書いていない。大正時代から鉱石を溶錬する際に発生する亜硫酸ガスがいかにひどかったか、島民たちはいかに苦しんだか、それをどのように克服したかなどは隠されている。三菱側は行政指導により大気汚染の測定器を設置しはしたが、敷地内で最も低い測定値が出る場所を選んで設置したため意味がない。健康を害したり、漁獲高が減ったりした島民の声はそこにはない。
三菱という「大旦那」の前に島民たちは雇用してもらうことで環境面には口をつむぐしかなかったのだろう。役場が島の環境保全よりも大旦那のほうを向くのは、水俣や阿賀野川と全く同じ構図である。「苦海浄土」にはこのような一文がある。
「私どもが現世と見ている世界は、そんなふうに苔一本でも、石ころ一つでも、岩でも、木でも、草でも、風にさえも命や性格やがあって、雪にも雨にも全部そういう命があって、それを私どもの地方では、命とはいわないんですけれども、神さまというんです。」
 日本でおそらく縄文時代以来続いてきた典型的な古神道の生命観であり、自然観である。木の命、草の命、風の神…それらを踏みにじってまで大資本家の自然破壊にさほど抗うこともなく、受け入れてきたことの証人がむき出しのはげ山と煙突の煙なのだ。

「堂々と」隠された事実
 三菱マテリアル直島精錬所100周年特番として2017年に放映した動画を見た。99.99%の最高純度の銅を精製することを自画自賛する程度ならかわいいものだが、工場と島との結びつきが、小さな漁村しかない島と日本を支える大企業のwin-winの関係であるかのように描かれており、公害問題に関する内容は「堂々と」隠されている。
 「昭和25年ごろからずっと植樹をしてきている」という管理職の発言はあるが、なぜ植樹をしなければならなくなったかについては何の説明もない。事情を知らぬ人が聞けば、まるでもともとはげ山だった島に工場が誘致され、植樹までしてもらったかのようさえ思うことだろう。
 「創業当初から環境や地域に貢献し…」「島の人たちとともに直島の自然を守っているんです。」「いつしか両者が互いに『直島あっての三菱、三菱あっての直島』と呼び合う関係になりました。」というナレーターの声はあまりにむなしい。「これらのナレーションを訳してくれ」というオファーが来ても、断るだろう。徹底した反省に基づいていない環境保護にどれだけの意味があるだろうか。このシュルレアリスムのような光景のさらに東の対岸は土庄(とのしょう)町豊島の、これまた赤土むき出しの土地である。
確かに天下の三菱の精錬技術は世界一かもしれない。しかし石牟礼道子が感銘を受けた、足尾銅山鉱毒事件に生涯をささげた田中正造は次の言葉を残している。
「真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし 」

 直島の「南北問題」、豊島の「東西問題」
 フェリーは島の北部の家浦港に着いた。北部にはげ山が密集する直島の「南北問題」に比べると、豊島は「東西問題」を抱えている。フェリーから見えた豊島最西端のむき出しの土地は、日本史上最悪の産業廃棄物の不法投棄が行われた場所であった。見るだけでも心が痛い。
 事の発端は1975年に町内の業者「豊島開発」が住民の反対を押し切って有害廃棄物を含む産廃処理場を建設したことに始まった。それは1990年まで、ものによっては廃棄物を野焼きで処理したりまでして続けた。香川県はその間、指導監督を怠ったため、県をまたいで兵庫県警に立ち入られ、有罪判決を受けた。
 1975年といえば四大公害裁判の時代から7,8年もたっている。そして1990年といえばすでに平成のバブル経済全盛期である。それなのに瀬戸内の離島では、外部の目が行き届かないことをいいことに、このような環境破壊が平然と行われていたというのが衝撃的でさえある。しかも産廃の推定埋蔵量は当初香川県が算出した量の十倍以上もあり、訪れた2020年時点ではまだ終わっていなかった。
 島の東部には豊島美術館という雲のような形のドームの上にぽっかりと楕円形の穴が開き、瀬戸内の空を眺めることができる施設がある。降雨量の少なさに悩まされる香川県にありながら、コンクリートの床のあちこちから水滴が沸きあがり、それらが流れてオタマジャクシのような水流となって駆け抜けていく様子は見ていて癒される。水は生命の源であることを思い起こさせるからなのだろうか。
 島は狭い土地を利用して段々畑や棚田で様々な農産物を作っている。農漁業ともに盛んな、その名の通り「豊かな島」だったことがわかる。それがよもや産廃不法投棄問題に巻き込まれるとは思いもしなかったに違いない。

責められるのは業者だけか?
 家浦港まで戻って船で高松港に向かった。かつての産廃処理場をにらみながら、業者をただ批判するのは間違っていることに改めて気づいた。「苦海浄土」にはこうある。
「自分もまた、チッソが製造している工業製品を、知らないうちに使っている。自分もまた、チッソが生み出した惨事に間接的にでもかかわっている。そう考えた彼は自分が水俣病の患者であると同時に、自分もそのひとりである現代人としての生活のありようが水俣病を生む温床のひとつでもあったことに気づきます。」
 この島に産廃を投棄し続けた時期は奇しくも私の少年時代と合致する。そのあいだ私が買ってもらったもの、それを作るための工場設備、備品、車両などがここで処理されていたのだ。この日本史上最悪の廃棄事件を直接引き起こしたのは業者である。しかしその原因を作ったのは私たちであることを棚に上げておいて、業者のみを憎むことはできない。私たちは目の前のゴミさえ消えれば、その行先など考えていなかったではないか。このメンタリティはチッソや昭和電工に通ずるものがないと言い切れるだろうか。
 目の前にまた直島のはげ山が見えてきた。結局は豊島に残された大量の廃棄物を処理してきたのは三菱マテリアルである。直島をはげ山にした張本人が、隣の島を苦しめ続けてきた業者、ひいては私たちのしりぬぐいをしてくれている。そこが「絶対的悪者」を断定しにくい環境問題の複雑なところである。なかなか一筋縄ではいかないのが環境問題だ。
 
「臭いものにアート」?
 船はアートのオブジェであふれる高松港に着いた。コロナ禍にあるとはいえ、島とは比べることもできないほど栄えた大都会、いや「未来都市」にさえ見える。しかしこの繁栄の陰に直島の亜硫酸ガスや、豊島の産廃問題が隠されていたことは忘れてはなるまい。ガイドブックにあるようなアートの島々で終わらせてはならないのだ。
 とはいえベネッセという「大旦那」の資金力とセンスによって人々をひきつけるアートの島々にすることの可能性も十分可能ということが確認できる。問題は今後の自治体がいかに「大旦那」に見初められるか、ということになりそうだとしたら、それはそれで自治体間の「大旦那の取り合い合戦」になる。
 ただ、水俣の公害の跡地はアートスペースではなくエコパークとして活用したのは正解だと思う。なぜなら公害の跡地をアートで覆うのは、まるで「臭いものにふた」をするようだからだ。アートにするならば環境に関して人々に訴えるような「この土地ならではのアート」ならばともかく、「臭いものにアート」とでも言わんばかりに、単なる現代アートのコロニーとするのはお門違いに思えてくるのだ。
 翌日から香川せとうち地域通訳案内士養成講座の講師として香川県内外の人々の前に立った。ちなみに直島も豊島も研修コースに入ってはいない。それでも事前に自腹でこのようなダーク・ツーリズムを歩くのも、環境意識の高い訪日客が来た時に備えていただく必要があるからだ。旅程の表面にみえるものだけを紹介するような通訳案内士の時代はすでに過ぎ、もっと深いところまで知っていて、適宜話題を選びつつ紹介する人材が求められていることになることが分かっているつもりだ。

道東エコツーリズムへ
 直島・豊島を訪れた翌2021年8月、旅友と一緒に6歳の息子もつれてワゴン車で道東を回った。旅の一つの大きなテーマはエコツーリズムだった。それまでの数年間で水俣から阿賀野川、四日市に直島・豊島など、昭和の公害の傷が令和になってもなお癒えない諸地域を歩いているうち、何かしなければという思いに駆られた。そこで通訳案内士という観光業者のはしくれとしてたどり着いた結論が「エコツーリズムの振興」であった。
 2010年代半ばの「爆買い」ブームが一段落すると、「モノ消費からコト消費への転換」が叫ばれるようになったが、その代表的なツーリズムとしてエコツーリズムが注目されてきた。これは業界でSIC(Special Interest Tour)、つまりこの分野にアンテナを張っている人にむけた付加価値の高い少人数旅行である。と同時にガイドの技量が極限にまで試されるものでもある。
 日本でエコツーリズムが本格化したのは平成になってからというが、国内で最も広大な自然が残されているところというと道東だろう、と見当をつけて一週間あまり回ってきた。

アポイ岳で地球を感じる
 新千歳空港から南東に180㎞ほど進むと襟裳岬である。途中ずっと日高山脈を横目に海岸線を走っていく。このエリアはそのころ「日高山脈襟裳国定公園」であったが、2022年度からは国立公園となる。日高山脈沿いの様似町には世界ジオパークの中でも「地味な」知名度を誇る、アポイ岳がある。
ここは地球の奥深いところにあるマントルが地表にできた山である。ビジターセンターで学んだことだが、地球をゆで卵にたとえると、殻の部分が地殻(深さ数㎞~数十㎞)、黄身が核、その間が人類未到達のマントルであるが、ここはいわばゆで卵の白身が破裂して白身の上にはみ出たような世にもまれな場所なのだ。そこに北海道にいるというより「地球にいる」ことが実感できる面白さがある。
 ビジターセンターを見学し終わったらアポイ岳東麓の幌満川沿いに遡った。両岸はカンラン岩すなわち露頭したマントルである。途中で一車線の未舗装道路となり、なおも遡っていくと幌満川稲荷神社という小さな社があった。そこから眺めると川にカンラン岩がごろごろ転がっている。地球の内部を探検しているようで興味深い。ジオツーリズムというのは地質にこだわることを通して地球を感じる。一方、エコツーリズムは天地山水を通して地球を感じる。方法は異なっても地球を感じるという意味では親和性のある観光スタイルといえよう。

襟裳岬のアザラシ
 アポイ岳からさらに南西を目指すと、海岸で長い昆布を干しているのが見える。江戸時代から蝦夷地名物としてアイヌ人がとってきた日高昆布である。特に8月は収穫期であり、朝早くから地元の漁師さんたちは大忙しという。えりも町の郷土資料館ほろいずみでは「こんぶの町」としての郷土を誇ると同時に、特に昭和を通して山を緑化した漁民たちのことも一つのコーナーを設けて顕彰している。 
 襟裳岬についた。訪問は三度目だが、いつもながら風が強い。その名も「風の館」というミュージアムに入館した。目の前にまっすぐに岩礁が続くが、これはのこぎり状に凹凸のある日高山脈が海中に入っていき、凹凸のでっぱり部分が海上に見えるのである。岩礁には何匹かゼニガタアザラシが休んでおり、「風の館」展望台の双眼鏡で見ることができる。
 天候によるがシーカヤックで近くまで行くこともできたらしい。しかし一般的な観光ならともかく、エコツーリズムという観点からいうと、これには問題がある。人間がアザラシの世界に入っていくことで、彼らの生態に影響を与えるのではないかと気づくことがエコツーリズムの基本だからだ。見たい、と思っても時には抑えるのがエコツーリストのマインドでもあるのだ。

強風と百人浜の植樹事業
 風の館では風速25mという強風が体験できる。この近辺ではよくある風力らしいが、まさに飛ばされそうなほどの爆風だ。森進一の代表作「襟裳岬」で日本中に知られるようになった1974年当時、襟裳では二十年以上にわたる自然を取り戻す戦いが行われていた最中だった。それが百人浜の植樹事業である。
 百人浜は襟裳岬から北東に数キロ向かったところにある。江戸時代、南部藩士たちの乗った船がここの沖合で座礁し、命からがら上陸した百人の人々も次々と亡くなったため「百人浜」と呼ばれる。明治時代には東北地方の人々が入植してきたが、彼らは生活に必要な木材をここにあった広葉樹の原生林でまかなった。そして彼らはこのサケやマグロ等、回遊魚だけでなく良質の昆布も取れる豊かな海で仕事に精を出した。
 しかし植林をせずに伐採を続けた結果、半世紀後には「襟裳砂漠」と呼ばれるほどの不毛の地になってしまった。同時に木々の栄養が雨によって海に流れていたのもなくなり、さらにこの風速25mの激風がむき出しになった赤土を海に運んだため、青いはずの海が沖合10㎞まで赤い海に変わることもしばしばあったという。そうなると豊かな漁場だったこの海だが、魚介類も昆布も取れなくなった。
 漁師は漁をするもの、というのが常識だろうが、ここの漁師たちは戦後1958年から自ら植樹を始めた。暴風に苗木が飛ばされると、昆布のクズを地表において、防風壁とした。それでも根付かないので北海道には自生しないクロマツを植えてみたところ根を張りつつあった。クロマツの大敵である地下水が流れればそれを排出した。みな人海戦術だ。森進一が「襟裳の春は何もない春です」と歌ったのは、漁師たちが懸命に試行錯誤して緑を戻そうとしていたころなのだ。この歌のヒットで全国からここを訪れる観光客が激増した。

山の神にお伺いを立てることを知るのがエコツーリズムの「お土産」
 襟裳では伝説があった。流氷が来て、去った後は昆布がとれるというのだ。果たして歌のヒットから十年目の1984年、日本各地を豪雪が襲ったが、その時襟裳に流氷が来た。そして昆布の生育を妨げる雑海藻や砂を流氷が運んでいき、おかげで豊漁となった。
 1993年に私は自転車で沖縄から北海道まで4800㎞を走ったが、そのころ百人浜は一面のクロマツ林になっていた。ただし私はそのことに気づいていなかった。エコツーリズムはただの観光客に人間と自然の付き合い方を教えてくれる。それに最も適したのはここのような一度壊された生態系が見事立ち直った場所といえるだろう。
 「森は海の恋人」という言葉があるが、海を豊かにするのは森林の木々のおかげなのだ。直島では亜硫酸ガスで山の木々を枯らし、豊島では産業廃棄物で森をつぶした。漁場としても豊かな瀬戸内海がどのようになったかは推して知るべしである。
 百人浜は今、松の低木林の真ん中を道路が走っているが、私は息子にここが昔なんだったか推測させた。エコツーリズムはなかなか答えを言わない。ヒントを与えて考えさせる。「ブラタモリ」でタモリさんが地元の地質学者にヒントを与えられて答えさせられるようなものだ。学習塾のような知識伝達よりも好奇心の刺激。これがエコツーリズムのガイディングのやり方である。
 「苦海浄土」で石牟礼道子が幼いころ父親に言われた言葉が印象的である。
「みっちん、やまももの実ば貰うときゃ、必ず山の神さんにことわって貰おうぞ」
 木を一本切るにしても、山の神、木の神にお伺いを立てる。加えてそれが生態系を壊さないか考えるようになる。そのようなものの考え方がエコツーリズムの「お土産」ではなかろうか。

手のひらを広げれば釧路湿原?
 襟裳岬の北の町、広尾町を朝早く出て、日高山脈を背に、とにかく東に東にと向かった。行先は釧路湿原である。140㎞余りあるが、その間ガソリンスタンドがある村は二か所しかなかった。途中で給油したスタンドで十勝毎日新聞を読みながら目の前のセイコーマートが見えたときには文明の恵みに浴せることの幸せをかみしめている自分がおかしかった。
 三時間近く農場や海岸線を通りながらようやく釧路市についた。市の西側に位置する釧路湿原展望台から釧路平野の全貌を見渡した。釧路平野のほとんどが6000年ほど前の縄文時代には海だったという。いわゆる「縄文海進」である。その後水はどんどん引いていったが、それが広い泥炭地を生んだ。湿原を地質学用語で「泥炭地」と呼ぶが、これは枯草が水の中で分解できないまま残った、いわば水浸しの草原である。
 展望台から見ると湿原のあちこちに川が流れているのがわかる。釧路湿原はよく「手のひらを広げて机の上に置いた形」といわれるが、五本の指それぞれが川だとすると、指の先に屈斜路湖や阿寒湖があって、その水が手の甲という湿原に集まると考えるとイメージしやすいだろう。
 海岸沿いに高い煙突群が見えた。20世紀の釧路の工業地帯の中心、日本製紙釧路工場である。そのすぐ近く、幹線道路の国道38号線沿いに「鳥取」という地がある。20歳のころ初めてこの街を訪れたとき、山陰育ちの私は「鳥取」という地名に郷愁を感じると同時に驚いた。城の櫓を模した鳥取神社が鎮座するが、明治時代にはその名の通り旧鳥取藩士たちがこの地に入植して湿地を干拓した。つまりこのあたりこそ釧路の始まりの地なのだ。
櫓は資料館になっており、移住者たちが日本のすべての湿地の三分の二をしめるこの泥炭地を農地化するのに使用した巨大なのこぎりなどの道具が展示されており、先人の苦労が偲ばれる。

タンチョウヅルが生き残った理由
 ところで釧路湿原といえばやはりタンチョウヅルである。明治時代にはたくさん飛来していたツルも、食用として、またはく製として乱獲にあい、明治の終わりには絶滅したものと思われていた。それが1924年に再発見され、保護されるようになった。その子孫たちが市内西部の丹頂鶴自然公園にいる。柵の中にいるとはいえ、屋根はないので自由に飛び立つことはできる。ちなみにツルは一度つがいになると片方が死ぬまで一緒に添い遂げるという。
 鶴がこの湿原で生き残ることができた原因として自然環境的要因と人為的要因が挙げられる。自然環境面でいうと、あちこちから豊富な地下水が沸き上がってくるため、冬でも地面が凍らず、鶴の越冬地として最適ということが挙げられる。また、鶴がひなを育てるには少なくとも1㎢の土地が必要だが、ここにはそれが十分にあったことも理由の一つだ。
 また人為的な努力でいうと、実は戦後何度も絶滅の危機にあったのを、その都度人々が救ってきたという歴史がある。戦後まもなくは日本各地から食い詰めた人々がこの新天地に殺到したというが、足を踏み入れればずぶずぶとはまる泥炭地に退散する人も多かった。それでも釧路炭田での労働者は残ったが、1960年代のエネルギー革命により石油と電気の時代が来ると、それさえ斜陽産業となった。そのような流れが自然を保全することで観光客を呼ぼうという流れの下地となっていった。

塘路湖でのカヤック
 湿原の北東に位置する塘路湖に行ってみた。静かな湖畔に野鳥の声が響く。ここから蛇行する釧路川に出て、川を下るカヌーやカヤックのアクティビティが人気だ。以前、茨城県の取手を流れる小貝川でカヤックを息子と楽しんだことがある。国立公園とは異なり、住宅街の近くを流れる川なら環境負荷は少ないと思ったからだが、息子はここでもカヤックに乗りたがった。
が、やはり湖畔を散策するだけにしておいた。ざっと見ていくだけの物見遊山に比べて、奥までじっくり楽しむエコツアーのほうが、かえって環境負荷が大きい恐れがあるからだ。環境に関心のある観光客はエコツアーに参加しないほうが環境破壊につながらない、というのも言いえて妙なパラドックスだ。カヤックやカヌーに乗るだけでは、山を歩くだけではエコツーリズムではない。人間が自然とどう向き合うべきかスタンスがなければならないのだ。
 とはいえ本音では私もカヤックから水辺にいるタンチョウヅルを見たい。川の流れのすぐ上という視線で川辺を見ると、それまで見えなかった生態系が見えてくることを知っているからだ。
 ただエコツーリズムは美しい景色や珍しい動植物をみることよりも、見ないで残すことを時には選ぶ、ある意味ストイックなものなのだ。また「カヤック乗ったけどツルなど見なかった」という人もいるだろうが、それはツルが警戒してじっとしていたからかもしれない。専門家などは除き、人間の立ち入ってもよい場所と、面白半分で立ち入ってはならない場所があるのだ。

責任ある観光
 ツルは、小動物は、植物は思いを口にだせない。だからこちらからこれら小さな命のこころに耳を傾けなければならないのだ。「苦海浄土」では水俣病のため生まれつき言葉の離せない杢という孫について祖父がこのようにいう場面がある。
「杢は、こやつぁ、ものをいいきらんばってん、ひと一倍、魂の深か子でござす。耳だけが助かってほげとります。 何でもききわけますと。ききわけはでくるが、自分が語るちゅうこたできまっせん。」
 人間として生まれて、聞こえても話せない少年のこころを聞き取ろうとしたこの老人のように、私たちも草や木や鳥や魚などの声に耳を傾けることを知る。これがエコツーリズムの在り方だと思う。このような考えに基づく旅行形態を、最近は「責任ある観光(responsible tourism)」と呼ぶ。
 こんなことを言っても六歳児には納得しない。そこで「あそこは鳥さんやつの世界だけん、人間が勝手んカヤック乗って行きたら鳥さんやつが怖がるけん。」と説き伏せた。

細岡展望台
 釧路川沿いの最も有名な景勝地、細岡展望台に向かった。山道をしばらく歩くとパンフレットでみる、原野を蛇行した川が流れる、いわゆる「釧路湿原」がお目見えした。日はすでに傾きつつあり、短い夏の終わりの夕暮れ前に滔々と流れる川は神秘的ですらあった。海のほうをみると、ここからも市街地の煙突群が見える。そしてもしかしたらこの目の前の光景も、工場群になっていたかもしれない、ということを思いだした。
 1972年に「日本列島改造論」を掲げた田中角栄内閣が発足すると、釧路にやってきた田中角栄は上空で飛行機から湿原を見て、「ここを遊ばせておくなどもったいない」といったというのだ。そしてこの釧路も土地をカネにかえる「錬金術」の方法として「開発ありきの自然保護」を進めることになった。
 国立公園指定地域のすぐ外側にゴルフ場が連なるのを見たが、当時は自然保護区域だけをサンクチュアリとし、その他は原則開発するという方向になりつつあった。しかしゴルフ場から流れる大量の農薬が湿原に流入することはだれでも想像できるではないか。湿原というのは山岳の国立公園とは事情が異なり、周辺地域も含めて考えなければならない。
 その前年、イランのラムサールでは湿原や湖沼を世界規模で保護する条約が制定された。日本はその時調印しなかったが、条約会議では世界で守るべき湿原の中に釧路湿原もあったという。釧路湿原を乱開発から守りたい市民はそれに関する記事を和訳し、発足したばかりの環境庁に訴えた。しかし日本がようやくラムサール条約に批准したのは10年後の1980年だった。

一日の消費額わずか5000円
 80年代は産業開発派と自然保護派がこの地を舞台にぶつかり合っていた。炭鉱の時代は70年代には終わり、80年代を通して全国一の漁獲量を誇った釧路港の漁業を除くと、目立つ産業といえば日本製紙釧路工場ぐらいに限られるようになった。そこで産業開発派は新たな産業を模索していたところに、自然保護派が観光業を新たな産業として提示するようになった。
 その布石として1987年に釧路湿原国立公園としてブランド化し、ただ眺めるだけの物見遊山よりも、カヌーやカヤック、観光列車のろっこ号など、お金が落ちるアクティビティで「産業としての観光」を目指すようになった。
80年代には蛇行していた釧路川の一部をまっすぐにすることで流れを早くし、水はけをよくしたが、実はゆったりと蛇行した川のほうが豊かな生態系が維持できるため、ツルの餌とするトンボやバッタ、カエル、ミミズ、川魚なども生育しやすいことが分かった。そこで2007年から2011年にかけて元通りの蛇行した川に戻した。とにかくタンチョウヅルと湿原の光景はこの街に観光客をひきつける目玉となったのだ。
 ちなみに豊富な魚介類の切り身を選んでアツアツご飯の上にのせて食べる「勝手丼」発祥の地、和商市場も、市民の台所としてスタートしたが、観光客のグルメスポットとして注目されだした。こうして観光地としての釧路が本格的に整備されたのは90年代に入ってからだった。
 釧路を去ろうと思ってあることに気づいた。釧路で息子と一日過ごした消費額は食費を合わせても5000円に満たないではないか。観光業にほとんど貢献していないのだ。カヤックに二人で乗れば、三時間で15,000円ほど。自然環境に対して破壊も貢献もしていない一方、みながカヤックなどの体験型ツアーに参加しなければ地元にお金が落ちない。それでは湿地の保全につながらない。
 また、ネット上では着地型ツアーもたくさん見た。個人客を相手にするBtoCを狙う場合もあるが、法人客相手のBtoBならば、都会のツアーの下請け、孫請けになってしまう。観光業と自然環境を考えるうえでの宿題としてとっておこう。

野付半島と阿寒湖と温暖化
 道東には個性的な湖沼も少なくない。例えば阿寒摩周国立公園に指定されているところだけでも、雄阿寒岳や雌阿寒岳に挟まれたまりもの阿寒湖。霧と透明度の摩周湖。美幌峠からの絶景で知られる大カルデラの屈斜路湖。北海道最大の湖にして長さ26㎞もの天橋立のような砂州で囲まれたサロマ湖など、湖ならより取り見取りだ。また知床半島と根室半島の間にエビのような形状で28㎞も砂嘴、野付半島なども面白い。
 しかし温暖化が問題となっている昨今、この地域の環境変化が危ぶまれている。例えば阿寒湖のまりもが水温の上昇により減少していることが報告されている。またトドワラ残る野付半島の砂嘴もサロマ湖の砂州も、海面からわずか数メートルである。このままいけば海面上昇によって22世紀には砂州ごと、砂嘴ごと消滅してしまうと予測されている。
 昭和のころは公害が人間を殺してきた。それは人々の血の出るような思いで減少してきたが、それも国内問題だったからできたのだ。しかし平成になってから問題視されるようになった環境問題は世界規模で進行中であり、一政府が法律を厳しくしたからといって即効性があるものではない。半島そのものの消滅の可能性を見せつけられつつ、知床峠を羅臼から北上した。

北海道の山陽?
 お盆過ぎとはいえ道東は涼しい。知床峠をぐねぐねと登っていき、目の前に羅臼岳山頂をいただく展望台で外に出ると、はるか国後島のほうから吹きすさぶ身を切るほどの風に震える。しかし町境をこえて斜里町に入ると急に日が差してきた。わずか数キロでここまでの天候の違いを感じたところは山陰と山陽の境ぐらいだろうか。
 「北海道の山陰」から「北海道の山陽」に入ると、目の前に明るい海が広がる。オホーツク海だ。そして下りきったところにあるウトロという集落が、観光客のイメージする「知床」であろう。
 知床自然センターに入った。シアターで知床の四季や野生動物たちをテーマにした大迫力の動画を見た。そして外部で靴に付着したかもしれない種子を刷毛で落とし、徒歩で断崖絶壁に落ちるフレぺの滝に向かう。「生物多様性」という言葉に訳されるbiodiversityという概念は誤解を生みやすい。多様な生物がいてもいいのなら外来種があって当然かというと、その反対で、外来種に固有種が駆逐されないように外来種子の侵入を防ぐことなのだ。

しれとこ100平方メートル運動ハウス
 しばらく歩くと丸太小屋のような外観のホールが現れた。しれとこ100平方メートル運動ハウスである。風光明媚な自然景観のみを知床に求める一般的な観光客は素通りするであろうこの施設だが、人間と自然とのかかわりを考えるエコツーリストにとっては聖地といえる。
 中に入るとパネル解説のほかに100平米のホールがあり、壁という壁に氏名の書いてあるプレートが5万枚近く貼ってある。実はこの一帯は1914年から60年間にわたって開拓者たちが入植していた。しかしあまりに厳しい土地条件や自然環境によって耕作地や放牧地を離れる人々が相次ぎ、1973年には廃村となった。
 東京五輪が行われた1964年、ここは高度経済成長で失われた手つかずの自然が残る最後の秘境として知床国立公園となった。翌年歌謡曲「知床旅情」の空前のヒットによって、また公害が現在進行形で自然と人間を殺していた60年代後半から70年代にかけ、自然と人間とのかかわりについて考え直したい若者たちがここに押し寄せるようになった。
 「知床ブーム」に便乗して観光客のためのリゾートホテル等を廃村になった跡地に建てようとした企業は斜里町に土地を売るように交渉を始めた。一方で自然を愛する人たちはここを国有化し、自然を保全するよう町に申し入れた。

「東京にゃ、国はなかったなあ」
 しかし政府は諸事情によりそれを断った。「国になんとかしてもらおう」という痛切なまでの願いはしばしば裏切られる。水俣病の解決と補償を政府に陳情するため上京したがたらい回しにされた人の言葉が「苦海浄土」にある。
「東京にゆけば、国の在るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ。あれが国ならば国ちゅうもんは、おとろしか。(中略) むごかもんばい。見殺しにするつもりかも知れん。おとろしかところじゃったばい、国ちゅうところは。どこに行けば、俺家の国のあるじゃろ。」
 水俣も知床も日本である。日本の問題だから「国」に何とかしてもらおうと思って政府のある東京に行っても、そこには自分たちを守ってくれるはずの「国」はなかったのだ。しかも人々を本州から知床に開拓しに行かせたのは「国」であったはずだ。一体どこに行けば自分たちを守ってくれる国があるのか?これでは見殺しだ。これは昭和の時代の話とは言い切れない。平成のフクシマはどうだったか?令和の日本でも守ってもらえるのか?

「しれとこで夢を買いませんか?」
 人々は国に頼らない道を模索した。遠くの政府より近くの他人。自分のことは自分でする。これが道産子気質なのかもしれない。そのころ英国で市民が少しずつ募金をして土地を買い上げることで環境破壊のもととなる施設を造らせない「ナショナルトラスト」という市民運動があると知った人々はその手法を導入した。つまり町が日本中の人々にここの価値を訴え、ほっておけばコンクリートのリゾートホテルが建ちかねないこの廃村に、植林をするための資金を募ったのだ。
 そのときのキャッチフレーズが「しれとこで夢を買いませんか?」であった。一口8,000円で100平米分の土地を買ったり、相応の植樹をしたりできる「夢」への反響は小さくなかった。おそらく高度経済成長の間、人間と自然の環境をも顧みず、一方的に自然を傷つけ続けたことに対する自責の念もあったのだろう。
 ここのホールが100平米であることは、これだけの面積の土地を買うことを意味し、そして5万枚近くのネームプレートは寄付してくれた方々の一人ひとりの名前が書かれているのだ。
 エコツーリズムの聖地、しれとこ100メートル運動ハウスを出てフレぺの滝に向かう。その途中にある木々は人々の浄財で植樹されたものである。断崖絶壁の滝の向こうは深い青さをたたえたオホーツク海である。振り返ると硫黄山の雄姿が雲の上に見える。本当にここにホテルが建たなくてよかったと思った。

知床五胡へ
 駐車場に向かって知床五胡まで数キロ運転した。その往来に通った際見た木々もみな植林されたもので「手つかずの自然」ではない。「手つかずの自然」も価値が高いが、人々が懸命に「戻した自然」にも別の価値があることを知るのがエコツーリズムであろう。
 知床五胡を訪問する観光客はまず十数分のビデオを見ることになっている。動植物に関する注意事項、特にヒグマ対策の基礎知識などを学ぶ。「クマが出た!」と驚くのは人間側の勝手であり、クマの立場では「俺たちの縄張りに人間どもが入ってきた!」と思っていることが改めてわかる内容だった。質疑応答時間の後はいよいよ出発である。
 「知床五胡」というが、実は水深は3m~4mだ。一般的に湖とは5m以上で底が砂や砂利であるが、この程度の水深で底が泥ならば沼である。「沼」より「湖」のほうが美しく響くが、実は生態系が豊かなのは沼のほうである。エコツーリストは風光明媚であること以上に豊かな生態系のほうに惹かれるものらしい。
 夜にはシマフクロウが飛んでいそうなこの森は、クマはもちろん、シカやキタキツネなどの野生の王国だ。以前9月後半に訪れたときは、途中の川で遡上してきたサケがピチピチはねていたのを思い出した。ここは本来人間のいるべき場所ではないことを歩きながら息子に教えた。山のふもとの数々の沼とそびえる山を見ながら歩き、最後に湿地帯の数メートル上にかけられた高架木道を歩いて駐車場に戻る。湿地を守りつつその上を歩くにはこれが最も良い方法という。
 エコツーリズムのガイドというのは文化財を中心に歩くガイドと比べてより即興性を求められることを痛感した。特に木の幹に動物のひっかき傷を見つけたり、動物のフンを見つけたりした時の対応はアドリブを利かせねばなるまい。どこでどんな花が咲いているか、どんな動物が出るか、そして天候がどう変わるかなどは大まかな予想はできてもその時でないと分からないものだ。ガイドと自然がジャズのジャムセッションをしているかのようでもある。

カムイワッカの滝へ
 駐車場に戻るとウトロ港に向かった。私たちの乗った観光船は冬には砕氷船「おーろら」として流氷の中を進む。いくつかのコースがあるが、知床五胡からさらに先に行ったカムイワッカの滝まで行って帰るコースを選んだ。海岸線は圧巻なまでの断崖絶壁が続き、ジオパークとしての知床の魅力を再発見した。
 40分ほどでカムイワッカの滝の前についた。落差約30mのこの滝は、温泉水が滝となって流れる。アイヌ語で「カムイ」とは「神」、「ワッカ」は「飲み水」を意味する。アイヌ人も和人も天地山水を「カムイ(神)」として崇め、畏れてきた。その「カムイ(神)」に対し、水俣で、阿賀野川で、四日市で、瀬戸内海で、北海道各地で、そしてフクシマで、とんでもないことをしてきたのが我々人間である。
 そのことに気づくと、日本のエコツーリズムが、そしてその上位概念であるサステナブル・ツーリズムがどうあるべきかの答えが見えてきた。それは「カムイ」としての自然ともう一度つきあうことである。
 国連世界観光機関(UNWTO)は「持続可能な観光」を「訪問客、産業、環境、受け入れ地域の需要に適合しつつ、現在と未来の経済、社会、環境への影響に十分配慮した観光」と定義している。これによると重視するのは過去ではなく現在と未来、そして配慮すべきは経済、社会、環境だという。分かるような分からないような定義だ。そこで私は私なりに日本のあるべきエコツーリズムおよびサステナブル・ツーリズムを次のようにまとめた。

日本のエコツーリズム・サステナブル・ツーリズムとは
①観光開発は自然の神々への感謝と謝罪から始まる
②観光開発は自然のメンバーだったその土地の先祖の知恵に従う 
③来訪者に自然の神々や先祖たちの声を聴いてもらうことで世界観を共有してもらう
④観光客には自然の神々と遊んでもらい地域経済をまわす 
⑤利益は自然や先祖の文化の保持のために還す 
 アイヌ人を含む我々の先祖たちは自然との付き合い方を知っていた。どこまでやれば自然の逆鱗に触れるか知っていた。だからその範囲内での開発をしていた。そして自然の恵みに感謝し、自然を傷つけたらそれに謝るために祭をしてきた。だから先祖が自然と交渉してきた道にもどるのがサステナブルというものであろう。
 またガイドの役割としては、単なる物見遊山だけではなく、観光客に自然の声、それと試行錯誤しつつ、これまで付き合ってきた先祖たちの声を知ってもらう。これはガイドというよりも自然の声を感じ取り、代弁する者=interpreterというべきかもしれない。我々通訳案内士のことを英語でGuide interpreterというが、interpretとは言語だけではなく自然の声の代弁者なのだ。
 カヌーやカヤック、サイクリングなども悪くない。しかしそれをアウトドアスポーツやアクティビティといった単なる消費活動として行うのではなく、自然の神々の世界をのぞかせてもらうという気持ちで行うのが大切だろう。ちょうど神社に参拝するときのように。こうして「自然との付き合い方」を土産にし、忘れつつあった「夢」を取り戻してもらうためのストーリ性あるガイディングと、それに付随した食事や宿泊、交通や土産物等によって地域経済を回す。その中心人物となるのがガイドではなかろうか。

政府が知床の森を伐採した話
 観光船は洋上を旋回し、ウトロ港に戻り始めた。その八か月後の2022年春に観光船KAZU1が不幸にも沈没したのはそこのもう少し先だ。件の船会社の社長は船や海に対して素人だったとのことだが、それは自然を知らず、自然と向き合う人間をも知らず、そしてカムイの存在も信じていなかったからだろう。だから無線も積まず、経費節約のために必要な部分まで改造した船で、天気予報まで無視して会社の利益のために出航を命じたに違いない。公害を引き起こした会社たちとそのメンタリティは極めてよく似ている。
 さらにこのような船舶を厳しく取り締まらなかった政府国交省も監督不行き届きであり、責めを負わざるを得ない。政府といえば、洋上から深い緑をたたえた知床の森を見ながら1987年の大事件を思い出した。100平方メートル運動で植林を懸命にしている真横の国有林では、事もあろうに林野庁が3日間で530本の「高値が付きそうな」木々を伐採したのだ。
 戦時中などの話ではなくバブル経済真っただ中の「豊かな」時代に起こったこの事件は全国紙のトップニュースになったが、当時の政府の認識はその程度のものだったろう。2005年に知床が世界遺産になる布石として評価されたのが民間の100平方メートル運動ならば、それをつぶそうとしたのが政府林野庁だったとは何たるお粗末な話だろうか。

「地上に開く一輪の花の力」
 しかし企業や政府への責任追及に関して石牟礼道子はこう述べている。
「責任を追及している間は恐ろしくないんですね。攻めるだけだから。ところが、逆転を想像するだけで、立場がぐらぐらとするわけです。それまでの前提が崩れるわけですから。」
「苦海浄土」のもつ普遍性は、単なる糾弾に終わらず、我々一人一人に環境問題の責任があること、逆に言えば我々一人一人が変われば地球が変わることを示唆しているところにある。
 ここまで考えると、いわゆる「水俣病」とは特定の病気ではないように思えてきた。自然という神々を無視し、彼らと真摯に向き合ってきた先人たちをも無視してまで利益を求めようとする企業の精神構造そのものが水俣病ではないか。そしてそれがこの知床でも引き起こされた。そのような意味での「水俣病」の存在を教えてくれたのが石牟礼道子の「苦海浄土」であり、同じく水俣出身の民俗学者で、民俗学を「神と自然と人間の交渉の学」と定義づけた谷川健一だった。そしてそれはそのままエコツーリズムの本質である。
公害、そして環境問題というのは、それを元に戻そうという人々の命がけの戦いだった。エコツーリズムを行う上でこのことは忘れてはなるまい。最後に、詩人としての石牟礼道子がフクシマの原発事故に際してまとめた「花を奉る」という詩の最後の言葉を引用して、水俣から始まったこのエコツーリズムの旅を終えたいと思う。
「現世はいよいよ地獄とやいわん 虚無とやいわん ただ滅亡の世せまるを待つのみか 
ここにおいて われらなお 地上にひらく 一輪の花の力を念じて合掌す」(了)

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