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名誉男性だったころ

※この記事には性暴力が含まれます

私が直接的な性暴力、レイプの被害に遭ったのは19歳のときだった。

ありふれた話で、バイト先の20歳年上のフリーターに片思いをしていた私はその人の家に行った。最初はバイト先に近いお店でご飯を食べようという誘いだったが、直前になってその人の家で手料理を振る舞ってくれることになった。私はその人のことが好きだったし、そういう関係になってもよかったので、その夜は彼の家に泊まったが、私は途中でやっぱりやめて欲しいと言った。無理やり続けることはなかったので、安心して眠ってしまった。違和感に目覚めると、彼が私の上に乗っていた。やめてほしいと叫んだが、彼が射精するまで行為は終わらなかった。避妊はなかった。

妊娠の心配はもちろんあったので、すぐに妊娠検査薬を使って確かめたが、生理がくるまで不安でしょうがなかった。その上、行為自体が原因か、それともストレスのせいか分からないが、繰り返し細菌性腟症になったりして、散々だったが、私は彼との関係を続けていた。当時恋愛経験のない私でも、彼との初めての行為は普通ではない、と心のどこかで分かっていたが、自ら彼の家に行ったということ、あれは普通だったと思いたい願望が現実を誤魔化していた。それから私はバイト先の他の男性や知り合った男性と意味もなく寝るようになった。

Netflixドラマ『Unbelievable』は性犯罪がテーマだ。犯人の手口は共通していて、寝ている間に女性たちを襲い、被害に遭った様子や身分証の写真を撮って逃走する。ところが犯行の際に犯人特定に繋がる物的証拠を残さないので、被害者の一人である10代の少女は警察に嘘をついていると疑いをかけられる。物語の軸はこの少女と事件を担当する女性刑事たちだが、被害者は他にも登場し、そのうちの一人は事件後に担当刑事にこう言う。
「自分でも分からないけど、あの後知らない男たちと寝てしまった。」
女性刑事たちの執念が実り、犯人は逮捕され、少女は本当のことを話していたことが判明する。テーマもテーマなので、決して後味が良い作品ではないが、性被害に遭ったあとの心理がリアルに細かく描かれており、記憶によく残る良作だと思う。

世の中の大多数は直接的な性被害に遭ったことがない人だろう。私が名誉男性だった頃は自分が経験したこともないことを批判し、決め付けていた。「痴漢されるような格好をするほうが悪い」「自衛が足りなかった」「自業自得」そんなおかしなことを本気で思っていた。男性側に立てば、自分の女性性が薄らぐと思っていた。多くの女性と同じように、幼い頃から性的な目で見られると、女であることに嫌悪してくる。男性と一緒に女性を責めれば、自分は完全な女ではない、なにか違う存在になれると信じていた。

だが実際性被害に遭うと、そのダメージは発作のように一度に押し寄せるものではなく、精神はじわじわと蝕まれ、自我は時間をかけて崩壊する。まず同意のない行為だったと気づくまでに時間がかかる。自分が事実に気づき、日常に変化が出てしまうことが恐ろしかった。ただでさえ普通ではないことが起きたのに、それに反応してしまったら正気ではいられなくなると感じた。なるべく早く日常に戻り、平穏に過ごすことに必死で、自分の心の傷には見て見ぬふりをした。だが実際、私はトラウマを再演をするなどして自暴自棄になり、自傷行為に走った。性暴力はポルノや漫画でみたり、自分が想像していた生温いものではなく、自分自身を破壊・破滅させる脅威だった。私が性暴力を間接的に肯定する名誉男性だった罰だったかもしれない、とすら思った。

あれは暴力だった。そう心の整理がつくまでに、私の場合は10年かかった。私は自分の身に起きてからようやく、性暴力は単純なものではないと理解した。そして、他人が性暴力についてあれこれ詮索したり、推測することは断じて許されないことで、するべきことは性暴力やその加害者を容認しないこと、性暴力を生まない社会づくりに貢献することだと学んだ。

性犯罪に対して寛容な発言をする人々を見るたびに、私は自分の愚かさを思い出して恥ずかしくなる。私が名誉男性だった期間は数年と短かったが、それでも少なからず性犯罪の助長に関わっていたと思う。それでも、やはり人生で無駄なことはないと言うように、名誉男性から一転、性暴力を経験したことで私の子供のころから燻っていたフェミニズムへの情熱が確固たるものになった。昔から私を悩ませ、そして救ってくれたのも「性」であって、これからも人生において動力になるのだと思う。

時代とともに性暴力に対する理解は少しずつ進んでいるが、まだ懲りずに加害者を擁護し、被害者を責める人たちがいる。彼らもまた性差別社会の犠牲者であり、すべてを否定はしないが、自分の大切なひとが性暴力に遭ったときに後悔しないといいと思う。明確なことは彼ら、彼女らの後悔はとてつもなく大きく、取り返しがつかないということだ。

正しい考え方ではないが、私は性暴力を肯定した罪に対して罰をうけたと考えている。罪と罰は常に人生につきまとう。他者に対しても、そう感じてしまう。もっとも、暴力の後遺症なのかもしれないが。


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