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母になる

私は地方の中流家庭に第一子の長女として生まれた。
父は会社員で、母は私が小学校に入るとパートに戻って働く主婦、今の日本では一番多い家庭の形ではないだろうか。父は短気で、柔軟性に欠ける性格だった。母は思い込みが激しく、感情的でヒステリックだった。両親で共通するのは世間体をものすごく気にするし、とにかくプライドが高く、楽をして人生逆転したいと夢見ていたということだ。

私は妹が生まれるまでは、自分でも覚えているくらい性格の良い子どもだった。幼稚園の友達からなんでそんなに優しいのと聞かれたことをいまだに覚えている。妹が生まれてからは徐々に心に変化があったと思う。妹が幼稚園に入ると、私は小学生になり、両親の関心はすでに私ではないと知った。

妹の送り向かいに付き合ったり、母のパートが終わるまで家で一人留守番をしたり、小学校の途中で車の送迎なしでは通えない距離に引越しをしたので、公園で母のパートが終わるのをひたすら待って家に帰る毎日だった。残業のせいで夜7時ちかくまで公園で待たされたこともあった。携帯なんてない時代だから、同年代の子どもがそれぞれの家へ帰っていくのをひたすら眺めていた。

90年代はすでに共働きではないと二人の子どもを育てられない時代だったし、両親もきっと子育てにこんなにもお金がかかると知らなかったのだろう。両親は常に何かにイライラしていて、夜中にしょっちゅう怒鳴り合いの喧嘩をしていた。長引いたときは昼夜問わないで争っていた。母は私と妹を連れて実家に帰ったこともあったし、夜中に車に乗せられて家を出たこともあった。よく分からないけど、自分のせいだと思っていたし、自分のせいでいいから喧嘩をしないでほしいと祈っていた。

なにをしても満たされないし、自分は不十分だと感じていた。
唯一両親からの注目を得られたのは、学校での成績がよかったときだったので、勉強を頑張ったし、それしか私が生き残る道はないと思っていた。それでも、与えられた本を読まなかったり、両親の気持ちに寄り添うことができないと、集合住宅の同い年の女の子たちと比べられた。「お前が読まなかった本は〇〇ちゃんにあげる」と言われると、プライドが高い私はひどく傷ついた顔をしていたに違いない。両親もなにが私を本当に傷つけるか、わかっていたんだと思う。

小学校に入る前から、私はたいして欲しくもない物を欲しがったし、褒めてもらいたくて両親にたくさん話しかけた。物を買ってもらったときだけ、自分の存在を感じることができたし、褒めてもらえなければ自分はいないものだと思っていた。ただ、服やおもちゃは母の趣味に沿わないものはNGで、基本的にはピンクでなんでもいいから可愛いキャラや花がついているものではないといけない。もしも母のポリシーに反するものを気に入っていると口を滑らせると、「そんなものが好きなんて頭がおかしい」と言われたので、自分の好きな色や形、キャラクターがあっても、両親には言わないで学校の同級生にゴリ押ししていた。勉強以外でクラスで目立てることがあれば、注目欲しさになりふり構わないで嘘をついたし、他人に意地悪、嫌がらせをすることでストレスを発散した。

そんなことをしているのに、当時私は自分がどうして嫌われているのか、そもそも嫌われていることに気がつかなかった。家庭はすでに私の居場所ではなくなっていたけれど、自分は愛されていて幸せだと思っていたし、きっと自分が周囲から嫌われているのは勘違い、空想の世界、違う世界線だと思い込もうとしていたのだと思う。思い込みは案外効果があって、小学生のときに夢から覚めることはほぼなかったが、自分の気持ちを表現、解放する方法は知らないままだった。

母はこだわりが強く、物事に異常な執着をするタイプで、特に私は彼女にとって最初の子どもだったこともあり、とにかく制限が多かった。妊娠中に親知らずを抜いたときは、絶対に私を障がい者にしたくなかったので、痛み止めを飲まなかった。私が癇癪をおこしたり、嘘をつくと、烈火のごとく発狂し、文字通り家を追い出された。5歳で最初の引っ越しをする前のことなので詳細な記憶はほぼないが、向かいのおばさんが「また追い出されたの」と家にあげてくれたことだけは鮮明に覚えている。

母親としての素質は、実際に子どもが生まれてからではないと分からないのではないかと思う。自分がどれだけ辛抱強いか、犠牲を厭わないか、気丈に振る舞えるか。計画的に親になったひとでさえ、予想外で大変なことが多いのが子育てだろう。特に私の母は極端な田舎で生まれ育ち、弟がいたので両親に大学進学を諦めさせられた、あまり賢くない夢見がちな性格だったので、健康体なら育児書通りに子どもは育つと思っていたらしい。私は母の理想を裏切る加害者、母は私に裏切られる被害者という関係性はずっと変わらなかった。

私が中学に入る前に父の暴力が始まると、私の母に対する感情はより強いものになった。母親なのに、同じ女なのに、どうして守ってくれないのか。どうして私を忌み嫌うのか。当時はいろんな感情が込み上げてきて、脳内ですら言葉にできなかった。しかし、物理的に実家と距離を置き、心の整理がつき始めると、彼女も日本社会の犠牲者だったのではないかと考え始めた。

私はフェミニストで、いつだって女性の味方でありたいと常に心がけているが、母を許すことはできないと思う。生まれ変われるなら、今度は違う両親のもとに生まれたいと思っている。しかし、母の一面を理解することで、彼女の娘としての役割をやっと果たせるのではないかと思う。

母親という役割がいかに毒されているか、世間にあらぬ期待をされているか。世の中では女性芸能人が出産後すぐに仕事に復帰することを称賛したり、少し出かけるだけで完璧な身なりを求められたり、「ママにみえない」が褒め言葉になっている。子供を産むという行為は女性にしかできないし、とても美しいと思う。しかし、ときに「母親」は家庭にいて当たり前で、社会からあまりにも見えない存在、役割であって、それゆえに安易に美化されやすく、外部からの期待が膨らみやすい。いわゆるエリートと呼ばれている男性の影には必ずといっていいほど、息子を過剰にサポートする母親がいる。その母親はいて当たり前だけど一家の中心ではなく、完璧に影の存在で、父親は母親にリスペクトを表さないので子どもの尊敬は父親にしか集まらない、母親もそれでいいと思っている。周囲の協力があって社会復帰しても、以前と同様のキャリアではなくなったり、むしろ母であることがハンディキャップになっている。結局、いくら社会に出て働こうが、何人の子どもを育てようが、母という存在が現実的に理解され、妥協されることはない。

今の日本だと、望まぬ妊娠をすると父親が判明している場合でも、母親だけが責任を負わされるし、道徳的な説教がつきまとう。野生動物が育児放棄をしたときに母親のことを蔑むひとはほとんどいないのに、女性相手だと自分が聖人になったように語り出す層が必ず湧いて出てくる。子供の保護を目的とするなら、母親に必要なのは罰ではなく、保護だ。動物と違って、妊娠しないように努めることは可能でも、それは女性だけの問題ではないし、出産を経て誰かの事実上の母親になったとしても、母性は勝手についてこない。押しつけられて芽生えるものでもない。人間も所詮動物で、それが本能であり、事実だ。結局、その人を母親にさせるものは覚悟しかない。

私の母は、結婚前から「良き娘」の母親になることを夢見すぎて、生々しい覚悟が足りなかったんだと思う。女の幸せは結婚だけ、家庭だけと主張するメディアや世間を信じ込んでいた。彼女にとって不都合なことがあっても見て見ぬ振りをし、私から感情や自我を取り上げることで、なんとか崩壊しかけている夢に向き合わないようにもがいていたのかもしれない。それは私の母だけに起きることではなく、母親の存在を透明化する男性社会が関係しているのではないか。

そう考えれば、私の母絡みの嫌な思い出も、忘れらない出来事も、少しは成仏するような気がする。


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