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02|「ただ同じ場所にいる」ことのかけがえのない価値

この文章は、妻が週1回地方新聞で連載しているコラムに対して、夫であるわたしが感想を書くというものです。それも妻に見つからないよう、隙間を縫ってこっそりと、愛を込めて。
今回のテーマは「家族だんらん」。

家族だんらんの豊かさ

まずは例のごとく、新聞に連載された妻のコラム第二回目の文章をそのまま掲載します。

「家族だんらん」

私は今、小さな宿のおかみとして暮らしていますが、そんな日々の中に好きな時間があります。それはみんなでちゃぶ台を囲んでご飯を食べている時間です。普段は夫と2人の食卓でそれはそれで良いのですが、宿に泊まりに来てくれた方と囲むその日ごとの景色には、また違った良さがあります。それはなんだか昔家族で訳もなく居間に集っていたようなそんな懐かしさもあるのだから不思議です。

「だんらん」というと、多くは家族とのひとときをイメージすると思います。しかし、ここには年齢も職業も関係なく、友人や家族と過ごすのともまた少し違う、「ただその日に同じ場所にいる」という理由だけで集える「だんらん」の時間があります。みんなで一つの食卓を囲みながら話すその内容は旅の話、昔のことから最近のことまでさまざまですが、まるで「今日はこんなことがあったよ」と嬉々として話した家族との時間を思い出すようなひとときです。寝る頃にはみんな肩の力が抜けて柔らかい表情になっていることがほとんどに感じます。

気分が落ち込むような時も、他愛もないことを話して笑うこの時間があればまた頑張れるなあと思うのです。こんな温かい時間をこれからも大事にする場所でありたいなと思っています。

 (阿武町、暮らしを紡ぐ宿えのんおかみ)

今回もまた妻らしく、その微笑ましい光景がすぐに目に浮かぶような温かさを感じる文章です。

こんな風に実際には家族ではない人と「家族だんらん」ができるという豊かさを、わたしたちは何処に見出すのだろう?

ちゃぶ台のまるさ

「ちゃぶ台」でご飯を食べている人はどれくらいいるでしょうか?最近の住宅はほとんどがフローリングに机椅子スタイル(またはこたつ)だし、そうでなくともだいたいの方が四角いテーブルを使っているのではないかと想像されます。

それに対し、ちゃぶ台は端的に言って「丸い」。丸いと何が起きるかというと、上下関係や位置関係がフラットになります。どこに座ることもできるし、詰めれば何人でも座ることができます。

そのことが、ゲストハウスのような年齢や職業関係なく交流を深めたい場所には大いに役に立つのです。ちゃぶ台を囲んでご飯を食べると、フラットな会話が生まれやすく、距離の近さが家族のような関係性が生まれます。

そして調べてみて驚きましたが、「団欒(だんらん)」という言葉には「まるいこと、まるいもの」という意味があるそうです。

そもそも「団」「欒」の字はともに丸い意があり、「団欒」はその言葉の成り立ちからして「丸く輪になって座る」という意味があるのだそう。びっくり。

「寝る頃にはみんな肩の力が抜けて柔らかい表情になっている」のは、ちゃぶ台の丸さという物理的な形状が少なからず影響していると思います。

” 家族 ” はつくれる

またこの文章を読んだ時に、ゲストハウスを運営する友人が「家族はつくれる」というハッシュタグをつけて日々投稿していたことを思い出しました。

シェアハウスも営む彼は、血縁関係のない人と一緒に住むということや、数多くのゲストハウスのお客さんと交流を深めるうちに、そこにきっとある意味家族のような安心感を見出したのでしょう。

滞在時間が長く、「暮らす」という要素が強いゲストハウスの日常は、非日常というバカンスとはまた異なる、「異日常」とでも呼ぶべきまた別の日常を体験できます。

そこでともに過ごすのは、本当の家族ではないけれど、また別の異なる家族なのです。

血縁・地縁には基づかない、新しい家族のかたちは、いつだって誰にだって享受できる可能性があります。

「ただ同じ場所にいる」ということのかけがえのない価値

そして個人的にはこのことが最も大切だと思いますが、人は、「ただそこに存在している」というだけでかけがえのない価値があるのです。

生まれたばかりの赤ちゃんはそれだけで誰からも愛され、重い病にかかった方は生きていてくれるだけで嬉しい。

そのことを忘れ、人は多くを求めすぎではないのか?立ち止まってよく考えてみると、無駄なことに一喜一憂しすぎていることに気づきます。

人間はひとりでは生きていけないし、自分以外との関わりの中にこそ喜びを見出すものです。

話の内容自体はどうでもよく、ただ「今日はこんなことがあったよ」と話す人がいて、それを聞いてくれる人がいる、そしてそれがたまたま同じ日に集まったという途方もない奇跡の上に成り立っていること。

すべての人の存在そのものに感謝できる人でありたいなと思います。

まとめ|TO HAVE OR TO BE

最近読んでいる本に、エーリッヒ・フロムというドイツの哲学者が書いた『生きるということ』というものがあります。

原題は『TO HAVE OR TO BE』

原題に忠実に邦訳すると「<持つこと>か<あること>か」、または「<所有>か<存在>か」ということになります。

・TO HAVE:財産や知識、社会的地位や権力の所有にこだわる生き方
・TO BE:自分の能力を能動的に発揮し、生きる喜びを確信できる生き方

人が生きていく上で対照的な2つの様式について述べたこの本では、現代社会ではTO HAVEがまるで正しい道かのように教えられ、TO BEがないがしろにされている危険性に警鐘を鳴らしています。

TO HAVE ではなく、TO BE で生きること。
年齢や職業や肩書きは関係なく、ただ同じ場所にいて笑い合うということの価値に気づくこと。

エーリッヒ・フロムが述べている信念と、妻のコラムに感じる不思議な温かさに、共通するものを見たのは私だけでしょうか?

(第三回はまた1週間後程度でお届け予定。妻よ、お楽しみにね。)

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