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04|そこに正解はない、という優しさ

この文章は、妻が週1回地方新聞で連載しているコラムに対して、夫であるわたしが感想を書くというものです。
それも妻に見つからないよう、隙間を縫ってこっそりと、愛を込めて。
今回のテーマは「優しさ」。

縁側という空間

まずは例のごとく、新聞に連載された妻のコラム第四回目の文章をそのまま掲載します。

「縁側のある暮らし」

 「なぜそんな都会から阿武町へ?」と、よく移住の理由やきっかけを聞かれます。ありがたいことに、一言には答えられないほど幾重にもご縁が紡がれてここにたどり着いた訳なのですが、一つの答えとして「この古民家がとても気に入ったから」というのがあります。中でも、風が気持ち良く空に抜けていく縁側には特に心を打たれました。

 最近は少しずつ暖かくなってきたので、お天気のいい日はこの縁側でお昼ご飯を食べます。気持ちのいい空気を吸い込みながらの食事はなんとも格別です。簡単にピクニックをしているような気分になれるので、あえてお弁当にしてしまう時もあります。食事以外の時間でも、縁側で作業したり、ただただぼーっとしている時間も、私のここでの暮らしのぜいたくの一つです。

 この縁側は気持ちよく過ごせるだけでなく、晴れの日には柔らかな日差しをつくり、雨の日には建具がぬれないようにと、心地よい空間をつくってくれる頼もしい存在です。昔はこの縁側によく人が集う家だったそうで、ここを宿とさせていただけたことにもなんだかご縁を感じずにはいられません。ここに訪れた方たちと、この縁側で一緒にのんびり過ごせる季節が来たなと、胸を踊らせる春の日です。

(阿武町、暮らしを紡ぐ宿えのんおかみ)

縁側のある暮らしというものは、現代日本人なら誰でも一度は夢見る日常のひとつの風景なのではないでしょうか?
日常の象徴としての「縁側」。

そこでの風景は本当に何も変哲がない日々の営みですが、暮らしのすべてを許容してくれる包容力があります。
実際、縁側とは家の一枚外側を包んでくれる皮のようなものでもあります。

わたしたちが、心を打たれるほど縁側に豊かさを感じるのは一体なぜでしょうか?

自然とともにある暮らし

・風が気持ち良く空に抜けていく縁側には特に心を打たれました。
・この縁側は気持ちよく過ごせるだけでなく、晴れの日には柔らかな日差しをつくり、雨の日には建具がぬれないようにと、心地よい空間をつくってくれる頼もしい存在です。(コラムより)

なんでも分断・個別最適化してきた現代では、家づくりにおいても高断熱・高気密が良しとされ、いかに家の「中」を快適に保つかという視点ばかりで話が進んでいるような気がします。自分達さえ良ければよい、自分のテリトリーの外は知ったこっちゃないという思想が、環境破壊や後進国搾取や、戦争にもつながっていると言ったら言い過ぎでしょうか?

それに比べて縁側のある暮らしは、屋外である縁側を含めた環境全体を視野に入れた暮らしかたです。言わば家の「中」と「外」、もっと言えば「人」と「自然」、はたまた「生物」と「地球」までもを含めた暮らし。

そこでは自分さえ良ければ、また人間だけが良ければよいという考え方はできず、常にその先にある庭や自然、地球のことを無意識に考えながら暮らすこととなります鳥や虫やさまざまな生物と共存する代わりに、縁側は雨風や強い日差しからわたしたちを守ってくれる相互依存的な関係にあります。

家の中でもないけど、完全に外とも言えない縁側がそっと包んでくれていることで成り立つ、自然とともにある暮らし。
縁側に流れる空気が殊更のんびりしているように感じるのも、自然のリズムが作用しているからでしょうか。

心の垣根をなくしてくれる

昔はこの縁側によく人が集う家だったそうで、ここを宿とさせていただけたことにもなんだかご縁を感じずにはいられません。(コラムより)

ウチを訪れてくれた人はほとんど、この縁側と中庭を見て「いいね」と言ってくださいます。
そして一度縁側に座り、お茶でも飲みながらくつろけばすぐに日々の喧騒を忘れた和やかな会話が弾みます。

サザエさんしかり、縁側とはいつも外の人がやってきて最初に迎え入れる心の拠り所です。

縁側が内と外の境界を曖昧にするように、その空間は人と人の垣根も容易に取り去ってしまう気がします。
これは完全に想像ですが、縁側では人が喧嘩することはないのでは?

名前からして「縁側」というのだから本当に不思議です。
人と自然、人と人との「縁」を紡ぐ装置として、縁側はいつもそこにあります。

〜してもいい、という優しさ

最近は少しずつ暖かくなってきたので、お天気のいい日はこの縁側でお昼ご飯を食べます。気持ちのいい空気を吸い込みながらの食事はなんとも格別です。簡単にピクニックをしているような気分になれるので、あえてお弁当にしてしまう時もあります。食事以外の時間でも、縁側で作業したり、ただただぼーっとしている時間も、私のここでの暮らしのぜいたくの一つです。(コラムより)

近代的な家づくりにおいては、寝るところ=寝室、食べるところ=ダイニングのように、「〜だけするところ」と機能と行為がと1:1対応のいわゆる「nLDK型」の画一化されたつくりが標準化されて日本中に広がっています。そしてどこも同じような風景が続く世界になってしまいました。

また逆に近頃の都会の公園は、行き過ぎたリスクマネジメントのせいでどこもボール遊び禁止、ペット禁止、自転車禁止などなど、「〜してはダメ」というルールで縛りつけ子供が遊べなくなっていることも、何か共通した思想がそこにあるように感じます。

一方で縁側という空間は、家の空間のなかでも特に多様な行為を許容してくれる場所のひとつだと思います。
洗濯物を干す。苗を育てる。作業をする。ご飯を食べる。歯を磨く。野菜を干す。BBQをする。世間話をする。花火をする。お昼寝する。ぼーっとする。etc.
どんな行為も許容してくれるし、しかもある程度濡れたり汚れたりしても何も問題がありません。

つまり、「〜だけしてもよい」という退屈な世界ではなく、「〜しちゃダメ」と強制する世界でもなく、「〜してもいいんだよ」というぺこぱ的な優しい世界。

縁側での行動には正解や間違いなどというものはありません。
現代人が忘れてしまった大切なものが、縁側には残っている気がします。

まとめ|白か黒かなんてどちらでもいい

なんでもかんでも最短でゴールに到達することこそが良しとされてきたように思います。
そこには何か「正解」のようなものがあるように見え、「効率」こそが守るべき唯一の法であるかのように人々は振る舞います。

だけど人生に「正解」などというものはきっとひとつもないし、「効率」を追い求めると失われることがあまりにも大きいと思うのです。
そして「常識」などと思っているものは常に「偏見の塊」に過ぎません。
「当たり前」と思っていることは、あっけなく崩れ去る微妙なバランスの上に成り立っている「奇跡」です。

中か外かなんてどうでもいいし、都会か田舎かなんてどちらでもいいし、勝ちか負けかもどちらでもいい。
大切なひとを大切にするために、わたしは生きています。

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妻に前に言われた中でよく覚えていることに、

「あなたのいいところのひとつは、”絶対”という言葉を使わないところ」

というのがあります。今日の話に通ずるところがある気がします。
わたしよりもわたしのことをよく見てくれている妻。本当にありがとう。

願わくば、今日もこの縁側のように、「〜してもいい」とそっと家族を包み込む優しい人でありたいです。

(最近更新が滞っていてごめんね。妻よ、また次回も首を長くして待っていてください。)

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