自己紹介〜なぜ私は農家から再びランニングを始めたのか
原口孝徳
現在は長距離ランナーをメインとしてランニング・コンディショニングの指導を行っています。
ジュニア(学生)から実業団選手、市民ランナーまで層は幅広く、トータル人数は数十人とすごく多いわけではありません。
指導形態も様々で、直接メニューの提案から現場でのランニング指導というのもあれば、身体作りのためのコンディショニング指導のみに特化するだけだったりと相手と状況によって変わります。
シンプルに言えば以下のような形です。
・パーソナル指導(ランニング指導)
・世田谷区スポーツ振興財団 ランニングクリニック(ランニング指導)
・ハイアルチ三軒茶屋(コンディショニング指導)
・花王陸上競技部(コンディショニング指導)
競技を終えて一度は離れたランニングにまた戻ってくる経緯にハワイ州マウイ島での農場生活があります。
ここにはハワイでの日々について書いています。興味ある方はこの先を読んでみてください。
ニュースレターも行っています。
マウイ島と農場生活
ランニングは幼少期から兄、祖父の影響で始め、長いこと取り組んでいて競技としてのランニングは長いことやっています。今は大会などにはあまり参加してませんが走ることは日々続けています。
こう話すと、ずっとランニングの分野に携わってきた人間かと思われますが実はそうではなく一旦競技としてのランニングは大学卒業後に終了して、その後はハワイのマウイ島で農業をやっていました。
スポーツ推薦により東京農業大学に入学したものの、特にこれといって農業について詳しくなったかというと全くそうではありません。
ただ学生時代、長距離走にのみエネルギーを注いできて、いざエネルギーの向けどころがなくなると何をしたいのかさっぱり分からない状況でした。
正直、農業がやりたかったわけでもなく特にアメリカで何かをやりたかったわけでもありません。
一番の理由はただ就活から逃げたいというのが本心でした。
この道を選んだきっかけは大学4年になって学内で行われたアメリカ農業の説明会に参加し担当者の話を聞いたことです。農業に興味を持ったわけではありませんが、
「アメリカで働いたことがある」
将来こんなこのセリフ言えたらなんかかっこいいのではないのか、というちょっとした憧れが芽生えたくらいでしょうか。
しょうもない理由と就活からの恐怖でこうやってアメリカに行くことを決意し、大学4年時は早々に就活をストップしました。
周りが次々と就職先を決める状況に不安がなかったわけではなく、むしろ自分の決断を疑う気持ちは常にあったと思います。
卒業式が終わり、5日後にはアメリカへの出発しなければいけません。配属先が決まったの出発の前日です。場所はハワイ州マウイ島の野菜農家でした。
待っていたのはビーチの近くで過ごす憧れのハワイの生活ではなく、標高1000m程の火山中腹部の小さな町での生活でした。ほとんどが農場と家の往復ばかりで、休みの日に町に出かけようにも近くにバス停までは家から3km程で標高で500mも下る必要がありました。
当時の英語はひどく、仕事の時間や昼ご飯はどうるのかについて質問ができないようなレベルで、到着2日目で人生最大の失敗をしたのではないかと思うほど絶望的な状態でした。
高校時代の夏合宿は高原で行われ、宿舎とグランドの往復をする修行のような日々が蘇ってきます。1週間弱の期間ですら果てしなく長い期間に思えた当時ですが、今回は1年と絶望すら感じる瞬間でした。
部屋が2つしかないボロ小屋でブラジル人、フィリピン人、カンボジア人の労働者達との共同生活は育った環境が違いすぎるため色々と価値観の違いでぶつかることもあり日々戸惑いの連続です。
から元気を出して楽しそうなふり、たまには楽しい時間もありましたが、する日々は多かったです。
ではなぜまたハワイの地で走ろうと思ったのか?
理由の一つは単に仕事以外の時間が暇だったということ。家ではネットもつながらなければ、携帯電話もありません。持ってきた英語の本で勉強するか、散歩するかそんなことばかりでした。
ランニングシューズを持参していたことは幸いでした。アメリカに来てからはあまり走っていなかったので、仕事後には20-30分程度走りに行くのがちょうどいいくらいで、それが自然と日課になりました。仕事後に走ると疲れると思っていましたが、直感に反して気分はスッキリしかえってリフレッシュになっていました。
もう一つは毎年9月にマウイ島で行われるマウイマラソンへの出場を決めたことです。私がランニングをやっていたことを知って農場主が教えてくれたのでせっかくだから気軽に出てみよう参加を決意しました。
いざ出場を決めるとリフレッシュだけのランニングではなく、少しでも体力を学生時代の時に近づけたい欲は生まれます。
フルマラソンに出ようと思いましたが、さすがに42kmも走れる自信はなかったのハーフマラソンへのエントリーに変更することに。
マウイマラソン出場へ
上位3位まで賞金が出ることを知り、低賃金で働いていたため優勝賞金があることはさらにモチベーションとなりました。
昨年の優勝タイムを確認すると1時間15分程で、頑張れば届かない記録ではないと思うとやる気も一層に高まります。それにより週に1回はペースをあげたきつい練習も取り入れ始めました。
また農場から家までの約10km、さらに標高500mをひたすら登る帰宅ランも導入します。農場からの帰りは農場主のトラックの荷台に労働者が乗り込みます。当時働いていたブラジル人と仲が悪くなっていて、帰宅の時間が苦になっていたのも帰宅ランの理由の一つでした。(振り返るとくだらない理由での喧嘩だったなと思います)
仕事、人間関係のストレスに四苦八苦する日々は当時の自分からすると本当に苦しいかったです。今振り返ると大したことないと思えますが。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とはこのことでしょうか。
20-30分だったジョグの時間も徐々に70-80分、最長で100分まで延ばしていきます。ハーフマラソンなら十分に対応できる自信もついてきました。
大会が近づくにつれ、レースのシミュレーションも具体化していき優勝する自信(去年と同じレベルなら)もみなぎります。
しかしここで一つ問題が発生します。スタート時間が5時半と早く、公共の交通機関では間に合いません。貧乏でドケチになっていた当時の状況でホテルに外泊という選択はありませんでした。そこで農場主にスタート地点まで送ってくれないかとお願いするも、ただ一言
「Nope」
(Noの俗語ですが農場主はよく私たちにはNopeばかり使ってました。これが実に腹だだしかったです)
仕方がないので近くのビーチで一夜を過ごす計画を立てます。幸いにもハワイの温暖な気候、スタート地点はリゾート地帯で、一度知り合いにビーチでのキャンプに連れて行ってもらったことがあったので、不安はややあるものの大丈夫だろうと自分に言い聞かせて実行することにしました。
レース前日に受付会場へゼッケンを取りに行きます。受付会場はハーフマラソンのスタート・ゴール地点と同じだったのでそのままビーチで寝床を探す予定でした。
壁にスタートリストが貼られていてそこから自分の名前を探し受付に伝えゼッケンをもらうシステムだったが何度探してもハーフマラソンのリストに自分の名前がありません。
不安なので受付のスタッフに尋ねます。しかし私の名前がエントリーリストにないとのこと。
そんなバカなことはないと思い、名前のスペルを一文字づつ伝えるも見つかりません。
ここでふと嫌な予感が頭を過ぎります。まさかフルマラソンにあるのではと。念のため隣のフルマラソンのリストを見ると不安は的中してフルマラソンのリストに私の名前がありました。
ハーフマラソンエントリー完了メールを見せるも認められず、こうやってまさかのフルマラソンデビューに。
さらに問題はフルマラソンはスタート地点が島の中央でハーフマラソンとは違うということ。近くにはビーチがなく、予定変更をせざるをえません。
もう出るのをやめようかと何度も思います。そこまでして出る必要はあるのかと自問自答。
もう色々考えてもしょうがないので現実を受け入れて寝床を探すことにします。
大学内の敷地に広い芝生がり、門が閉鎖されることもないのでそこを寝床にすることにしました。
スーパーで寝袋を買い、人の目がつかないように茂みの裏に場所を取ります。
慣れない場所で眠りにつくのは難しいものですが、それでも横になれればまだマシと思えました。しかしトラブルは続くものです。
それでもしばらく横になっていると眠りにつくことができました。何か冷たさを感じ目を覚ますと身体が水びだしになり慌てて起き上がりその場を離れます。何が起きてるのかさっぱりわかりませんがいろんなところから水が飛んできて何が何だかわかりません。
どうやら真夜中に芝生へ水を撒くためにスプリンクラーが発動したようで、地面に埋め込まれたホースは芝生に隠れて気づきませんでした。
時計は深夜2時を周りもうスタートまで3時間程度のためちょうどいいと思い、そのまま起きていることにします。ベンチに座って準備をしているとライトを持った警備員がこちらに向かってきます。何を言っているのか聞き取ることができませんでしたが、とにかく「Marathon」を連呼するとスタートを待っているのが伝わったようで問題は起きませんでした。
こんなハプニング続きでレースのことを考える暇もなくかえって緊張せずにすみました。軽くウォーミングアップを済ませ、スタートの時間を待ちます。スタート地点はややお祭り騒ぎでした。スタートの号砲が近づくと忘れていた緊張感が押し寄せてきます。練習で走った最長距離は15km程度。当然不安はありましたが賞金への意欲、こんな散々な目にあったからスタート切るだけでもという自身への言い訳などいろんな思いが混ざり合います。
まだ夜明け前の暗い時間にスタートを向かえました。スタートすると思ったよりもペースはゆっくりで自然と先頭集団で走ることになります。小さな島のマラソンということもありエリートランナーなどの参加はなく1km4分ほどで先頭は進み比較的に余裕を持って走れていたため、「これは勝てるかもな」とまだ5kmも通過する前なのに変な自信が湧いてきました。マラソンの過酷さを知らないがあえて良かったのだと思います。
次第に集団からの脱落者は増え、10kmを過ぎる頃には2人だけになっていました。
一騎打ちになるとお互いに様子を探り合い、走りながらやや緊張味をおびます。
13km手前(8mile地点)で相手の呼吸が少し荒れているのに気づきます。
日も上りあたりは明るくなり、海岸線に出る手前に上り坂を向かえます。上りで相手のペースが極端に落ちるのを確認すると、思い切ってペースを上げて引き離すことに成功します。しかしこの早すぎるペースアップで後程地獄をみることになるとは思ってもいません。そこからは独走状態になり、どんどんリズムがよくなります。この状態になると疲れを感じず、どこまでも走り続けれるのではないかと錯覚してしまします。もちろんそんなことはなく、ハーフ手前から足がだんだん動かなくなり始めます。マラソンの30kmの壁を聞いたことがありましたが、30kmよりもだいぶ手前で壁を感じつつありました。
そこからは日が昇り気温も上がってさらに過酷なコンディションになります。。
ハーフマラソンの出場者達が前に見え始め、そして追い越していきます。するとマラソンとハーフマラソンの出場者の区別がつかなくなり、後ろを見ても誰が2位のランナーか分かりません。キツくなりペースダウンすると後ろから追われる恐怖が増してきます。
30kmを通過する頃には脚が悲鳴をあげそうで、立ち止まりたい、でも優勝したい、そんな心の葛藤が続きます。
「一旦止まって少し回復してスタートしてはどうか?いや一回止まるともう走り始めるのは難しいだろう」
アメリカのレースは1kmごとではなく1mileごとの表記となるため、次の表示少し長いです。それでも気持ちの目標を1mileごとに区切りなんとか歩を進めるしかありません。
もうどのくらいペースダウンしているのか見当もつきません。感覚では普段のジョギングよりも遅いように感じました。
このままじゃ追いつかれるという踏ん張る気持ちを底をつき始め、とにかくゴールできればいい、早くこの苦しみから脱出したい、そんな風に気持ちも変化します。
ゴール地点であるリゾートホテルが見え始めると少し気持ちも回復してきますが、体力は限界に近いような感じです。残り1mileを迎えると気力が増し、さらにホテルの敷地内に入ると、どこにその力は隠れていたのかと言わんばかりにペースが自然と上がります。
最後の直線に入り、ゴールが見えます。この時にはようやくゴールができる、苦しみが終わる喜びが強く、優勝や賞金のことは忘れかけていました。
無事にフィニッシュテープを切ります。
記録は2時間43分50秒
こうやってまさかの初マラソン初優勝を経験します。
しかしゴール後はマラソンなんて二度と走りたくない。そんな気持ちでした。
表彰式を終えて、ディナーパーティーに招待されハワイの雰囲気を実感できました。
もう脚は限界に近く、歩くのも苦痛な状況ですがここからまたあの農場へ帰らなければいけません。
夜9時すぎにバス停に到着。ここから3kmほどひたすら上り坂を歩いて帰らなければいけません。まだこの日のゴールは先にありました。
翌日はベッドから降りると今まで経験したことのないような酷い筋肉痛を感じました。それでもいつも通りの農場へ向かい、農作業が始まります。
生まれたての子鹿のように歩く私を、仕事仲間は笑います。
農場ないの移動が苦で仕方ない一日。ようやく昼休憩の時間となり昼食をとっている最中でした。農場内へ車が入ってきます。車は停車し、中からは長い白髭で顔が覆われている老人が降りてきます。新聞を片手にこちらに駆け寄ってくる彼は
「これは君だろ」
そうやって新聞を広げて見せます。
なんとそこには私の写真が掲載されていました。
新聞の存在など当時頭にもなかったのでこれにはかなり驚いきました。彼は農場主の知人のようで、農場主より日本人のワーカーがいることは聞いていたようです。
私が走っていることにはあまり興味を見せなかった農場主もこれには驚いて喜んでくれました。
農場主の友人からの提案でホノルルマラソンにも出てみてはどうかという話が持ちがり、休みを取る必要があるため私は許可はもらえないだろうと思っていました。
しかし彼が農場主を説得してくれて2日の休みをもらえました。(その分翌週は休みなし)
ホノルルマラソン
こうやって二度とマラソンを走らないと決めた翌日にホノルルマラソンへの出場が決定です。
ホノルルマラソンには大学4年時代に身体づくりでお世話になったトレーナーさんも出場するということで久々の再会をすることに。トレーナーさんの知人のとある会社の社長さんのコンドミディアム(ヒルトンホテルの34階)に泊めて頂き、地獄のボロ小屋から1日だけ天国のセレブ生活を経験できました。
マウイマラソン後、1ヶ月ほど足の痛みが消えずホノルルマラソンへは練習がほとんどできず、ただ完走するだけになりましたが二度目のマラソンは楽しく走ることができゴール後にみんなと喜びを分かち合う瞬間は素晴らしいものでした。
しかしホノルルマラソン後は燃え尽きたかのように走るのをぱったりとやめてしまいました。そんな時、マウイ島の農場を回る5日間の実習に参加し、最終日前日の夜にハワイの名物ルアウショーに参加。
舞台上でショーが行われます。会場はバイキング形式でご飯を取りに席を立った時でした。「Mr. Haraguchi」とアナウンスされます。
「名前を呼ばれた?まさか?聞き間違いだろ」
ドキッとするもまさか私の名前が呼ばれるとは思わず、まして司会者が私の名前を知っているはずもないので一回目をスルーします。しかしまた名前を呼ばれ、今度は間違いないと確信します。向こうも私の位置を気づいているようで目が合うと、前に来るように言われます。なぜ司会の方は私の名前を知っているのか、なぜ私を前に呼べれているのか全く見当もつかないままステージの前へ。
そこでマウイマラソンの優勝者ということを紹介していただきました。なんとこれは知人の方々がサプライズで司会の方へ伝えていたようでした。
ショーが終わり帰宅の準備をしていると男女の二人組が私の元へ寄ってきます。
どうやらテキサス州から旅行できているマラソン好きの夫婦のようでこちらに興味を持ってくれたようでした。「どんな練習をしている?自己ベストは?専門種目は?」そんな質問を投げられますが、まだ英語力に乏しい私は知人の通訳なしではまともに意見を伝えることができません。これは残念な経験で、しかしこのような経験が英語を学ぶ意欲になっていきました。
アメリカのマラソンの事、またテキサスにもぜひ走りに来るように誘ってもらい、ここでまだ自分の知らないランニングの世界に興味が出てきます。
そこにはどんなランニングの文化、クラブがあり、どんなランナーがいるのか。今まで目を向けたことのないところにはどんな世界があるのだろうか。
こんなまた違った形のランニングへの興味が湧き出したのもこのあたりからだと思います。
アメリカからカナダへ
帰国まで残り2ヶ月を切っていて早く帰りたい一方、帰った後にはどうするのか答えを出さなければいけない時期でもありました。
ランニングだけでなく、もっと色んな文化に触れてみたい、そんな漠然とした思いだけは強くなっていました。
いろんな好奇心が生まれ、そして帰国したらまた就活をしなければならない恐怖感。この入り混じった感情が中、私が出した答えはワーキングホリデーのビザを取ってカナダに渡ることでした。
旅をしながらマラソン大会など出場してみたい、カナダでのテーマはそんなものだったと思います。
カナダに渡り、最初はレイクルイーズという観光地でホテルの清掃員として働きお金を貯めて、バンクーバーへ移動する計画でした。
最初に滞在したレイクルイーズという土地は標高が1600mほどあり、気づかないうちに高地環境で過ごしていました。
職場にいたネパール人の仲間と毎日ランニングに出かけ、ジョグのつもりが最後は競走を仕掛けてくる彼と競り合っていたのがいい練習になっていたのか、バンクーバーに引っ越してすぐに走った10kmでは33分20秒と思ったよりも走れたことにびっくりでした。
大会では競り合ったランナーからクラブに誘ってもらい、週一で練習に参加していました。
バンクーバーではランニングショップで働く機会に恵まれます。これも所属していたクラブの代表がショップのマネージャーと知り合いだったことから紹介してもらったことがきっかけでした。
レースを通して知り合うランナーから別の大会を教えてもらい、賞金のことや大会ごとの資格記録をクリアすればエリート枠に入れるなど、色んなこと学べました。
「この記録ならクリアできそうだと、このレースなら賞金を狙える」などを考えてそこに向けて練習するのはすごく楽しかったです。
働いていたランニングショップ「Running Room」のマネージャーがJapan Running Newsのブレット・ラーナーさんの友人だったこともあり、バンクバーマラソンにて日本選手のサポートの依頼をお願いされることになりました。通訳などできるほどの英語力ではなく、自信があったわけではありませんが、チャンスをものにするとはこのことだと思い引き受けることにします。招待選手がどのように対応されるのかを知る貴重な経験でしたし、カナダのランニング関係者と知り合うこともできました。
私自身もサポート業務を行いながら、このバンクーバーマラソンに参加し記録は2時間28分52秒とマウイマラソンの時から約15分の自己ベスト更新です。
カナダでのビザが切れる時期が近づくと、まだ冒険を続けたいというのが本心でした。同級生たちがキャリアを重ねていく中まだ就職をしない自分に対して大きな劣等感、不安はありました。それでも好奇心に勝るのはなかったのかもしれません。
通訳業務の依頼を介して知り合ったブレットさんにオーストラリアに行こうかと相談をしてみると、ゴールドコーストマラソンのレースディレクターに繋いでいただいきました。
そんな手助けをしていただきながら、シドニーへ渡ることを決意します。
シドニー
紹介を受けたSWEATというチームのコーチ、ショーンに連絡をとると「〇日の〇時に〇〇でお会いしましょう」と返事が返ってきて、シドニーへ引っ越し後にはすぐクラブでの練習を始めます。
待ち合わせの場所に伺うと私を含め5,6人のランナーとコーチのショーンの姿が。
気さくな雰囲気で話しかけてくれ、今日の練習は「2000m×3本」という練習だと教えてくれました。
カナダで走ったクラブでは当時の走力でも私がダントツで速く、周りからは驚かれる存在だったので、今回も実力を見せて驚かせてやろうと、そんな気持ちを内心抱きスタートを切ります。
一緒に練習するのは私含め4人でしたが他の3人は遥かに私より速くてびっくりです。
そこにいたのはハリー・サマーズ、ベン・セントローレンス、そして当時は高校生だった現オーストラリアの1500m記録保持者オリバー・ホアでした。五輪代表になるクラスの選手が市民クラブで練習していることに驚きで、日本の実業団制度が特殊だということは知ったのもこの時期です。
まだまだ自分の知らないランニングの世界がそこに広がっているということを知るとワクワクが止まりませんでした。
こんな経験が功をなしたのか、大学卒業後、就活からの逃亡から3年後、2016年の春にアディダスジャパンへ入社。初めての就職が決まりました。
初めての就職、そしてコーチングへ
アディダスでは週一でランニングのコミュニティの先導をしたのが指導への道の第一歩だったかもしれません。私の経験を楽しく聞いてくださるランナーの方々にちょっとアドバイス、その繰り返しが「もっとこうしたらどうだろう」という次の疑問へのきっかけとなっていたと思います。
個人的にパーソナル指導の依頼をされて最初は無償で始めました。手が空いてる時にやる、指導を専門にやろうとはまだ考えてもいませんでした。
しかし経験の中で疑問が生まれ、その疑問を解決するために学び、行動する、その繰り返しが次の道へとつながっていったのだと思います。
また2018年夏より母校の東京農業大学女子駅伝部のコーチとしてもスタート。
インターナショナルスクールの生徒からの依頼で英語での指導もすることになり、今でも英語学習を続いています。周りからは英語話せてすごいねと言われますが、まだまだ不自由なことは多く、アメリカに渡る前には3ヶ月で不自由なく話せるようになると思っていなのであれから10年が経った今でも渡米前に思い描いた英語力には達していないのが現実です。
2022年からは花王陸上競技部へのコンディショニング指導も開始することになります。
実業団選手への指導も目指していたわけではありません。故障に悩むランナーを目の前にした時に抱える課題解決のために学び始めたコンディショニングが結果として今になっているだけです。
大勢の前で話すことは苦手でできることなら避けたかったことも、2022年に世田谷246ハーフマラソンのクリニックイベントで講師の依頼をいただき、イベントの先導といった経験も積ませていただきました。
新しいことに挑戦して初めて、自分の課題、興味などを理解することができると思います。「〇〇の状況で自分ならこうする」ということは容易いですが、実際その場になったら自分がどう行動するかはその時がくるまで分かりません。絶対に無理と思っていたことが案外すんなり対処できたり、逆にできると思っていたことが実際にやると全くできなかったりなどはたくさんあります。
経験の中で疑問がうまれ、その疑問、課題解決への興味が「やりたいこと」になっていくのだと思い、やりたいことは流動的で固定ではないのかもしれません。
やりたいことへの挑戦が現在の結果として職業、働き方という形になっているのだと思います。
なのでこの先5年後、10年後何をしているのか、何をやりたいのかは分かりませんが、今やりたいことの積み重なった先に新たなやりたいことがあるのかもしれません。
長くなりましたが、こんな感じで一回りして今はランニングコーチ・コンディショニングコーチという名目上活動しています。