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一枚の自分史:おばちゃんの終活

2018年10月、68才の秋
室生の龍穴神社での友人のアーシャの点描マンダラのプロジェクションマッピングからはじまった二人のルーツを訪ねる旅、福井県勝山市の白山神社を廻ってから覗いた母の故郷の家には叔母が住んでいました。突然訪ねて驚かせました。
相変わらず、田んぼが大好きで、いつものファッション、手ぬぐいの姉さん被りでした。 アーシャが写真撮ってあげると言うので、写真嫌いのおばちゃんが逃げられないように無理やり抱きしめてます。

88歳でした。
働きものの現役のお百姓さん、田んぼが好きで好きで、自他ともに認めた草取り名人。腰も曲がらず、髪も染めずに黒々として「何でも食べるよ~美味しいんにゃ~」と、あの日は明るく笑っていました。

「この子はなあ、わたいの娘みたいなもんやぁ~、え~子なんやこの子~。これからもこの子のこと頼むわな~」と、70歳に近い私のことを、88歳のおばちゃんが、若いアーシャに対して何回も・・・。

今でも信じられません。
あの日、100歳まで生きると本人が言っていたし、そうだと思っていました。

その翌年の2月14日、記録的な大雪で除雪中の事故であっけなく逝ってしまいました。福井県では大雪の被害者は12人に…。

おばちゃん、雪、冷たかったやろね、重かったやろね。
事情を知った市の業者の人が気を利かせてくれて、すぐ来て除雪車を回して、いち早く道の雪はどかしてくれていました。みんな優しいね。

私はあの日、おばちゃんに別れを告げるためにあの旅をしたのかもしれない。あれだけお世話になったから・・・。

私たち兄弟は、学校の長期の休暇をいつも田舎で過ごしていました。
半分街の子で、半分田舎の子で育ちました。
おばちゃんの作ってくれた田舎料理が大好きでした。

素朴で可愛い人でした。
「ゆうちゃん、よう来ておっけたな~、ありがと」いつもそう言って迎えてくれました。

本当に田舎の人そのものでした。
だから、しっかりと終活していたことにちょっと驚きました。

おばちゃんの終活で立派だったのは、どうしたいかのすべてを書き残していたことでした。
葬式の手伝いとして、だれだれさんに頼んでほしい。4軒の隣組の名前と実家を書き残していました。
誰にお手伝いをお願いするか、この雪があるから、一人では生きてはいけないからこその村コミュニティ、これまでもお手伝いをしてきたのでしょう。さすがの連携に感動しました。古き良き日本人の姿が残っていました。

葬式は白山苑にてすること、遺影はこれを使うことと、封筒に入れて書いておいてあったのです。その写真が・・・、どう見ても、40代かな?
え~!おばちゃん、半分です!サバを読むのも大概です・・・。

50年来のお付き合いのお寺のご住職が思わず笑って、
「そうかぁ~、このころが、一番幸せな頃やったんにゃなぁ~」
っておっしゃって、その時は、暖かな春のような空気に包まれました。

その写真のおばちゃんは桜の背景で恥ずかしそうに笑っていました。

母を見送るとき、孫たちが弱るだけ弱った、変わり果てた近日の写真では嫌だ。大好きだった元気なころの子供のころに見ていた祖母の姿がいいと言う。20代の孫たちが子供のころなので10~20歳は、若い頃の写真を選びました。

そのとき、おばちゃん
「ね~さん、なんた若いんにゃ~!そうかぁ~」
とニヤニヤしてましたよね。
やってくれましたね。その上を行きましたね。いい写真です。みんなの心にどう残したいかやもんね。ふふふ・・・。

決して休むことのない農業者でした。働いていないと、じっとしていられない人でした。そのことが徒になってしまいました。
仕事から戻っても、雪かきをしないといけない息子のために出来るところをと思って雪をかいていたそうです。そのように言うのをその日通りかかった村のお寺のご住職が聞いて下さっていました。
おばちゃん、やっぱり最期まで働いていたんだ・・・。

何にも心配しないで、もう、ゆっくりしてね・・・。お願いだから。

私達いとこ同士はこれからもきょうだいのように仲良くしていくからね。
もう少ししたら私たちもみんなそちらに行くから、ゆっくりして待っていてくださいね。

「白山の麓に生まれし人はみな山神の子か心うるわし」

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