見出し画像

小林賢太郎、芸能界引退するってよ

私はその時、会社のトイレにいた。

その日はとても忙しく、昼休憩もままならなかったため全くネットを見ておらず、15時頃ようやくトイレに入ることができ、便座に腰を下ろして用足し兼小休憩と、ポケットからスマホを取り出した。

一瞬思考が停止した。

記事の意味は瞬時に理解していたが、まったく飲み込むことができなかった。頭を殴られたような感覚とはよく言ったもので、まさに私の頭はこの見出し一つでぐらぐらと揺らされたのだ。

小林賢太郎 芸能界を引退

年若いころから色々なものや人に傾倒してきた。今でも売れないバンドマンが大好きだし、漫画や海外ドラマも好きだ。でも、この人だけは別格だった。私は誰しも、一人は崇拝の対象がいると思っているが、私にとっては小林賢太郎その人がそれである。

彼に対しての思いはそれはそれは語りつくせないほどだから、もはや語ることはすまいと思っているので、今日はこのことで取り乱した私が周囲との関わりについて感じたことをまとめようと思う。

すっかり心を乱された私は、トイレから出てすぐに見かけた同僚にこの話をした。私はもう生きてはいけないと。するとその同僚は「大丈夫だよ!きっとまた会えるよ!」というようなことを言った。

そうじゃない。と私は思った。

また別の同僚に、同様に話してみた。この同僚は音楽への造詣も深く、アイドルから若者向けPOPSまで網羅した逸材なのだが、彼女もこう言った。「個展とかやるかもじゃん。そしたら会えるかもよー。」

違う違うそうじゃない。

なんだろう。このもやもやとした気持ちは。みんな慰めてくれるし、元気づけようとしてくれている。それはとてもありがたいことで、気遣ってくれることに嬉しさはある反面、全く理解されていない感覚がもやもやを助長させている。

悲しい気持ちを湛えたまま、なんとか残務をやりきり、帰りの車内で件の彼のコメントや相方のコメントを読んでは少し泣いた。

ちょっと考えられないような去り方なのだ。完全に、ファンの気持ちを置き去りにしたまま、彼は自分の人生をアップデートした。きっととても清々しい気持ちで、後ろなんか全然振り返ることもなく、彼の言う「真っ白な」未来の入り口で笑っているのだろう。いやだいかないでくれと駄々をこねる隙も与えてくれない。

一方でそれは当然だろうとも納得させられている。自分の、自分だけの人生だから、一回しかないから、誰に足を引っ張られるでもなく、自分で選択して、もう出ない、と決めたら出なくていい。それでいいのだと納得している自分がまた腹立たしい。よくぞここまで調教されたものだよ。

ぐちゃぐちゃに感情をかき混ぜられていても、生活はしなければならないので、帰宅して夕飯を作ったことを褒めてほしい。

そうして今日、やはりぐちゃぐちゃの心持のまま、きちんと出社して午前中の仕事を終えた。昼休憩の際にふと思い立って某国民的アイドルグループの某リーダーが最推しの同僚に、この話をしてみた。私は辛いのだと。

すると彼女は、昨日の同僚たちとは全く違った反応をした。分かる。と。上っ面の慰めは一言もなかった。

私たちは、彼らのことが好きで、そのパーソナリティまで全部含めて大好きだから、この先どうなるのか、分かっているのだ。きっと、出ないと言った以上、「出ないだろう」。活動休止とは言っているが、このまま「戻っては来ないだろう」。

致し方のないことで、受け入れる以外に道はない。

彼と仕事を共にした演者はみんな、それを門出だと言い、これからもよろしくと言う。創作=彼の存在そのものだから、表舞台から去ったってなにも変わらないさと。

そんなのは詭弁だ。

だって私たちはもう大好きな人の顔を、動いている姿を、カーテンコールで万雷の拍手に少し困った顔でほほ笑む表情を、小刻みに振る両手を、もう二度と見ることはできない。

それは小さな死だ、と私は思っているのだ。

彼女とひとしきり話して、少し二人でぼんやりして、留飲を下げた。どんな気持ちを抱えていても、私はまた午後から仕事をする。ごく普通の、一般的な働き人だから。

そして悔しいのは、またこうして文章を書いてみようと思わせたのが、もう二度と会うことはできない彼だということだ。