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マイパブリックとグランドレベル 田中元子

マイパブリックという言葉のインパクト

パブリックとは「公衆。大衆。公であるさま。」といった意味が出てくる。プライベート(私的な)が対義語にあたる。これは説明の必要もない当たり前のことであろう。
ところで、日本語には公私混同という言葉があるが、これはあまり良い意味で用いられることはない。おそらくこれには二つの理由があると思われる。一つはそもそも「公」と「私」には厳然たる区別がありそこは曖昧にしてはならないと言う考え方が我々に定着しているということ。もう一つは「本音と建前」の使い分けのように、やましい(ことが少なくない)私的な言葉や行為を公的なところで表出することは憚るべきであるという考え方があるからだろう。しかしながら、昨今の社会状況を見ていると、もはや公の分野を担当している政治家やマスコミが「公は(私とは違って)良識に基づいた言行をしている」という概念が当てはまらない状況になっていると思わざるを得ない。なんてことを日々ぼんやりと考えている私に「マイパブリック」という言葉はかなり刺さった。

マイパブリックとは単純に訳すと「私の公」ということになる。これってどういう意味なんだろうという疑問とともに、この言葉はきっと自分に決して小さくない気づきを与えてくれるに違いないと思い、この本を手に取った。

グランドレベルという気づき

私の塾は商店街の一角にある。朝の6:30から早朝の授業があり、最後の生徒が帰るのが23時という塾なので、私はもはやこの商店街の住人と言ってもいいような毎日を過ごしている。塾のあるリボン通りという商店街はかつて七尾の竹下通りと言われるような賑わいがあったらしいが、現在はその面影はまったくない。これはリボン通りに限ったことではなく、ほんの一握りの成功事例を除けば地方の商店街はどこも似たようなものだろう。半分以上はシャッターが閉まっていて活気はない。
話は変わるが、私の得意なことの一つに、自分の置かれた状況に常に可能性を感じることができるということがある。可能性があるところに行くのではなく、自分のいるところに可能性を感じるという変な癖だ。だから、このさびれた商店街にも可能性を感じている。しかしながら、その可能性を具体化するための方法論以前に可能性を共有してもらうための言葉をなかなか見つけられずにいた。
そんな私にとって、「グランドレベル」という言葉には私のモヤモヤをすっきりしてくれる何かがあると感じた。加えてこの本の表紙の写真のインパクトもなかなかのものだった。とにかく買って読むしかない!そんな気持ちにさせてくれる一冊だった。

マイパブリックとは何か

第一章のタイトルがこれだ。
著者はこれを「自家製公共」と訳していて、非常にうまい言葉遣いだと思わされる。彼女がマイパブリックの重要性に気が付くきっかけとなったのは、自身の建築事務所の一角に無料のカクテルバーを開設したことだという。ここから彼女はまず彼女はアドラーの幸福三原則を引き合いに出して、趣味の三原則を定義する。

アドラーの「幸福」三原則
1自分を好きである
2他者が信頼できる
3社会や世の中に貢献できる・役に立っている

これに対して、著者は趣味をこのようにとらえる

田中元子の「趣味」の三原則
1自分を満たす趣味
2他者と楽しむ、交流する趣味
3社会や世の中に貢献できる・役に立てる趣味←第三の趣味

読書や登山のように一人でできること、ゴルフやマージャンのように仲間とできることに対して、第三の趣味は自分が好きでやることと社会の交点だと定義しているようだ。そして彼女は事務所における建築カクテルバーから外に飛び出して、”野点<<屋台”のクエスチョンマークにそうとうする”ちょうどいい”カタチとしてパーソナル屋台を生み出し。公園やまちの歩道でコーヒーを振舞うようになる。

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実に見事だというほかない。「これが私のマイパブリックです。」と言われて、ここでコーヒーをいただいてしまえば、もはやわたしも彼女のパブリックスペースの住人になってしまうだろう。

そもそも「公」の役割はなんだと問われれば、それは最大多数の最大幸福の実現であるというのが教科書的な解答であろう。したがってその意思決定のためには最大多数による多数決を用いることが正しいとされている。これが民主主義と言うものである。しかし、最大多数とはだれを指すのか?最大幸福とはどんな状態なのか?多様な選択肢の中から選ぶとき多数派とはどの程度の割合を指すのか?などといった疑問に明確な答えを出すことが難しい現代においては、政治や行政が担当する「公」での意思決定のために民主主義に頼るだけで人々の幸福やそれを実現するための場を生み出すことは著しく困難である。

そうした既存の「公」にくらべて、彼女のマイパブリックは自由で軽やかだ。「愛で地球を救う」とか「恵まれない人に愛の手を」などという誰も異を唱えないが何も起きそうもないお題目とも無縁だ。そして、多数決のための合意形成を経ていない分だけ彼女の「好き」に満ちている。

自家製公共という公私混同をどこまでまちのなかで認め合い、多様な表現をする人たちがどれだけまちにでてくるか。これこそが今後のまちのありようを決めていく一つの物差しであるとこの本を読めば確信できるだろう。
彼女の出すコーヒーは無料だから、これはショップではないのかもしれない。そして彼女は対価を受け取らないのだから彼女の行為はワークではないのかもしれない。しかし彼女やその仲間たちがパーソナル屋台で振舞う行為こそ、本当の意味でのワークショップであると私は思う。付箋を片手に議論を重ねることが重要でないとは言わないが、実践と失敗を重ねこそが価値を生み出しうるはずで、議論はそのための準備運動に過ぎない。

パーソナル屋台を引けばグランドレベルの重要性がわかる

著者はパーソナル屋台を引いているうちに次のように気が付いていく。というか彼女は最初からグランドレベルの重要性を感じていたからこそパーソナル屋台を引き、その予感を確信に変えたのかもしれない。

彼女は次のように「社会」と「まち」を位置づける。

言い切ってしまうと、マイパブリックを通して発生する第三者との接触とはつまり、社会との直接的な接触に他ならないと思う。社会と呼ばれるもののうち、最も身近な一端は、他者という存在である。では社会とは、どこにあるのか。他者とは、どこにいるのか。そのこたえは「まち」である。

つぎにその「社会」や「まち」はどこにあってどのように表現されているかについてグランドレベルという言葉と関連付けて、つぎのように考察する。

私たちは、「社会」の、「まち」の、様々な場所で暮らしている。しかし地面に立つことだけは、社会との接点を持つひとなら、ほぼ誰もが毎日体験することだ。時間と同様に、あまねくひとに平等に与えらえたもの、それが(ヒューマンスケールのアイレベルとしての)グランドレベルなのだ。人々は同じ地平に立っているが、どこに向かって何を見ながら生きているかはひとそれぞれで、それぞれの中に、それぞれの社会像やまち像がつくられる。ただ、多様な社会像、まち像があるなかで、他者との共通項としてのイメージを見いだせるのは、それは間違いなく、地面、グランドレベルなのだ。

そして彼女は次のように結論付ける。

そして、気づいたのだ。高額なことや高尚なことは必要ない。何も構えることはない。まず、目の前のグランドレベルを良くしていけばいいのだ。「まち」や「社会」がグランドレベル、と言えるのであれば、「まち」の良し悪し、「社会」の良し悪しは、グランドレベルの良し悪しにかかっているということだ。

こう考えてみると、閉じたままのシャッターがいかに商店街にとって殺人的な意味を持つかがよくわかる。店が開いていないからダメなのではない。グランドレベルの価値を著しく棄損してしまっていることが問題なのだ。
街路はパブリックで建物の中はプライベート。その間をシャッターでふさいでしまう。ここでは公私混同は全く起きることはなくむしろ公私は完全に断絶している。この状態が続く限り、まち(商店街)は息を吹き返すことはない。

グランドレベルをマイパブリックとして開放できるかどうかがカギ

「エレベーターの1Fを押すと2Fに着きますよ」
海外旅行で欧米に行く際にこんなことを教えてもらったことはないだろうか。私も実際に何度か経験したことがある。欧米ではいわゆる一階に相当するエレベーターのボタンは「G」であることが多い。
本書を読むとその理由として有力な説に納得させられる。それらの国々ではいわゆる一階つまりグランドレベルはたとえ建物の中であってもパブリックに解放されていなければならないという哲学があるのであろう。逆にカフェやパブやバルが歩道にはみ出していることが少なくないのは、グランドレベルにおける公私混同(干渉)の塩梅こそがそのまちの価値を決める重要な要素であると彼らはよく知っているのだ。

それと比して日本の都市でよく見かけて不思議な思いをするのは、高層マンションのオートロックの向こうにあるホテルのロビーのような空間だ。そこでくつろぐ人を見たことがあるという人はほとんどいないだろう。あれこそグランドレベルの活用を決定的に間違っている一つの例なのだと思う。

日本人にもその感覚がなかったわけではない。自分と他人の境界を曖昧なものとして、そこに居心地の良さを感じるのはむしろ日本人の特性の一つだったはずだ。そしてグランドレベルにおいてシャッターやオートロックのさきでプライベートを堅守しようとする姿を美しくないと感じる感性が備わっていたに違いない。

吉田兼好の徒然草第十一段「神無月のころ」にもよく表れている。

神無月の頃、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里にたづね入ること侍りしに、遥なる苔の細道を踏みわけて、心細く住みなしたる庵あり。木の葉にうづもるる筧のしづくならでは、つゆおとなふ物なし。閼伽棚に菊・紅葉など折り散したる、さすがにすむ人のあればなるべし。
 かくてもあられけるよと、あはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわわになりたるが、まはりをきびしくかこひたりしこそ、すこしことさめて、この木なからましかばと覚えしか。

この国のまちのグランドレベルには「なからましかばと覚えしか」と吉田兼好が嘆くような存在にあふれている。

現状を嘆いていてばかりいてもしょうがない。じぶんもまたこの商店街の住人の一人として、どこにいてもそこの可能性を信じることができるという自分の特性を活かして、リボン通りのグランドレベルを豊かにするためのマイパブリックを展開していこうと思う。2021年はそんな取り組みを進める年にしたい。そして今からその準備を始めていこうと思う。

というわけで最後に宣言

リボン通りを生まれ変わらせる(Rebornする!)
リボン通りReborn計画2021!
一緒にやる人募集します!(笑)

まずは田中元子さんにリボン通りに来てもらおう!

最後まで読んでいただきありがとうございました~


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