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この社会で「安楽死」が実現され得るパターン

先日ですが、幡野広志さんのツィートを観て、この note を書こうと思いました。そのツィートの中で幡野さんは安楽死について

・賛成、反対による議論は無駄
・必要、不必要で語る主観的な観点が必要
・賛成、反対は人の命のコントロールに繋がる

と書かれていました

これはを観てわたしは、言っていることは正しとは思う。でもいまのこの社会で、必要、不必要で安楽死を議論するのはさすがにムリだろう…

と素直に思いました

主観で議論をぶつけるのはムリだろうと思わせてくれるほど、ストレートに安楽死という課題から沸き起こる感情を露わにする医療者や人々をここしばらく、いろいろな場で観てきたからです

それらが感情的なものが収まって冷静に「安楽死」の議論が出来るまでにはまだまだ時間が必要だ…

それがいまのわたしの素直な想いです。安楽死を望む方には、絶望的な意見であることは承知の上です

では、この社会で、どんなパターンであれば安楽死は実現し得るのでしょうか。今日はそれを書いてみたいと思います。なおわたしは未来予測をする立場でもなんでもありません。なおこれは、自分がこれまで観て、触れてきた、安楽死の議論や意見から、自分なりに感じたことをまとめただけで

後で当たっても、外れても、責任は一切取れません。その点はご了承下さい

パターン①
安楽死推進していたり、医療崩壊を危惧したりしたお医者さまが止むにやまれず(もしくは積極的に)安楽死を実施し、それが同時多発的に起きていく。それが露わになりショックを受けた社会がヒステリックになり、それに後押しされて政治が勢いで安楽死法案を通してしまうという自滅のパターン

ちなみになぜこれが「自滅」かというと、あまりに稚拙な法律と中身の建てつけのため運用は現場任せ。そのためにほう助を手掛けるお医者さまにとってはリスクが高過ぎて、ほとんどのお医者さまが手を出さないままとなるだろう…からです

また国民、特に安楽死反対派の声も残ったままとなり。おそらく法律が出来たまでは良いが、実際に運用される可能性が低い。おそらくもっとも無残な形です

間違っても、こうしたことは起きないで欲しくないとわたしも思っています

パターン②
海外で安楽死を希望する日本人が増えすぎて、その受け入れ国からなんとかしろ!!というクレームを受ける。それに国内の安楽死賛成派が勢いづき、それが盛り上がってしまったために政治が止むにやまれず安楽死法案を提出。通過してしまういわゆる「外圧」パターン

実際海外の安楽死を受入れている国、団体が少ないので、今回挙げた三つのパターンの中では最も実現の薄そうなものです

ただ海外でも日本人の安楽死を受入れる国や地域が増え、その過程でコミュニケーションエラーや手続きのトラブル。また実施後の裁判沙汰(家族の同意を十分得ていなかったなどの理由でほう助を行った医師を訴えるケースなど)が起きると、相手国よりお前らいい加減にせーよっと怒られ。それに煽られて、という可能性も無くはなさそうです

実際にそこそこのお金が取れることが前提になれば、日本人(含む海外から)の安楽死受け入れを積極的に進める国や地域が出てくる可能性は今後、あり得ると思います

パターン③
多死社会、特に団塊世代の看取りを通じて段階Jr 世代が自分の朱末を積極的に考えるようになり。その過程で安楽死ってやっぱり必要じゃないかと人々が徐々に思い始める。そして自分たちが死にたい時には安楽死が制度としてあって欲しいと要求。5年、10年単位で議論は続くが徐々に政治も世論に押されなんとか安楽死法案が提出。その後も採決が見送られ続けるが最後には脳死法案と同じく党議拘束を外す形で安楽死法が成立。実施に至るパターン

たぶんこれが一番現実的な流れではないかと思います。結局自分たちが自発的にこの制度が欲しいと思い。それで世論を形成して成り立つのが王道の流れでしょう

ただその分時間はかかります

制度となるためにはなんにせよ、法律を制定しなければいけないのがわたし達の社会です。その上で制度が運用されるのも10年単位で先の話。ただ一度そうした制度化のレールに乗れば、内容は厳格になりつつも時間を掛けた分だけ運用のルールは考慮されているはず。また実際の運用が始まっても、必要以上のバカ騒ぎにもならず。その時点ではほう助に協力してもよいというお医者さまもそれなりに揃っているだろうと思います

わたしがここで強調したいのは、安楽死が整うのには社会的にいくつかの諸条件が整っている必要があるということです。それは何かというと

・人々の多くが安楽死に関心や興味を持っている
・安楽死を自分ごと、自分の選択肢と捉える機会が多くある
・安楽死についてオープンに話し合う環境がある
・制度としての安楽死をある程度許容する空気がある

などです。わたしはいまはまだわたし達が思っているほどに安楽死はメジャーな問題や出来事ではなく。一部のひとたちが盛り上がっているに過ぎない状態だと思っています。宮下洋一さんの本や NHKスペシャルで取り上げられたからと言って社会全体が安楽死に興味や関心を持っているわけではないです

むしろそのきっかかけ作りになった程度だと思います

ですがこれからは、それが大きく変わっていく可能性があります。今後10~20年程度続くであろう多死社会がそれです。これを機に多くの方がまた改めて、身近な人の死に触れます

この死に触れるという機会が何かが変わるためには必要だと思うのです

身近な人の死に触れれば当然次に、自分の死について考え始めます。その中には「自分はどのように死んでいきたいのか」という課題が自然と含まれていきます。その選択肢を探る中で、安楽死、という選択肢が自然と生まれてくると思うのです。その時に初めて、自分や身の回りの選択肢としてそれが無いことに気付く

それが制度として選択肢を求めるかどうかのきっかになるはずです

物事にはステップがあります。それをすっ飛ばして制度化しても、それは誰にとっても不満の残るものとなります。そうではなく、ある程度の人たちが満足するものを世に送り出すにはそれなりの時間と手間が必要です

安楽死の議論はまだまだその時間と手間を必要としている段階

だと思います

ただこれは、いますぐにでも安楽死という選択肢を欲する方々にとっては「死」以上に辛いお話ですね…

わたしはそこに対しての解は残念ながら持っていません。それは正直に、書いておかなければならないと思います。。

デス・カフェ@東京主催。ヒトやペットの区別をしない、死別・喪失のサポート、グリーフケアのお話をしています