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故人を撮る、それをアップする。そこに是非はあるのだろうか

わたしの結論は

特に無い

です。一般的には死者の冒涜か。そんなもの頼んでいないので見せないでくれっ、でしょう

でも故人を撮るにせよ。その写真をアップするにせよ、行う側がそれをメモリアルなものとして。また弔い(の儀式)として。はたまた、お世話になった方への報告として行うとしたら、それ自体も、否定されるものなのでしょうか

お葬式で故人と対面することとに、違いはあるのでしょうか?

もし唯一違いがあるとすればそれは、不意に第三者がそれを見てしまうことです。そこへの配慮は、当然、アップする側に必要かもしれません

わたしがいま時点でこうした考えに立つのは、以前ある場で、祖父母の亡骸とツーショットを撮るお孫さんの話を聞いたことが影響しています。さすがにその時はぶったまげましたが、それはそれで、撮ったお孫さんにとっては「ケ」ではなく、「ハレ」の場であったのなら、そりゃ写真ぐらいは撮るか…

ということに気付いてからです

もちろんこれすらも、多くの方は忌避することでしょうが。故人との距離感、向き合い方、受け止め方、そしてその時の状況をどう残すか。そして発信するかの考え方や感じ方が時代や環境の中で変われば、まぁそういうこともあるよね、と思うわけです

この辺り、その正しさを突き詰めることは可能でしょうし。世間の大方の意見は、故人に対してそんなことをするなんて…

で集約するでしょう。おそらく、いまはまだ…

ただそれは、故人とツーショットでの写真を遺したり。その写真を SNS やネット上にアップすることまでを、妨げるものではないのではないか?

そんな風に思います

さて、通常ならこうしたお話は元ネタのツィートなり記事をご紹介するのですが、さすがに今回は見て複雑な想いや。嫌悪感を覚える方もいると思いますので、わたしからその紹介は行いません

みなさんも敢えて、それらを観に行かれる必要性は無いと思います

亡くられたことに対しては、ただただ、その方が安らかな眠りにつかれることを祈るだけです

追記

あれ?でも、ミイラだとどうして、みんな興味深々で怖いものみたさが勝ってしまうのでしょうね…

ミイラだって、故人、なのに。。

デス・カフェ@東京主催。ヒトやペットの区別をしない、死別・喪失のサポート、グリーフケアのお話をしています