文を書く快感は排便の快感に似ている。

ウンチウンチとうるさい記事で申し訳ないが私にとってはそうなので書く。

私が文章・絵に限らず創作活動全般を高尚な趣味だと思わず、例えばtwitterで同人誌づくりを過剰に賛美するツイに(私とは違う価値観だな)と距離を感じる所以である。無論同人での交流は控えている。自分の作品と排便をダブらせる人間は少ないからその方がお互いのためだ。

作文は排便に似ている

頭の中のごちゃごちゃを分解・再構築するうちに閃きがあり、それを文章に吐き出してスッキリする行為は、特大の便秘を出してスッキリするのに似ている。文章を書いた後は頭が、便を出した後は腸が軽くクリアになる。
そして己の思考を文章で読み返す満足感は便器に浮いた立派なウンチを眺める満足感と重なる。

私にとって文章を書くことは排泄と同じだ。趣味や息抜きではない。書かないと(出さないと)詰まって死ぬのだ。生命維持活動の一つであり、しかも下ネタなので美しさや高尚さとは無縁である。

ウンコで金が取れるか

私の趣味が作文だと知っている友人はリップサービスで「出版したら?」と言ってくれるがとんでもない。ウンコで金が取れるか。私は便器に浮いた自分の立派な便を見て「こんなにデカいウンチが腹にたまっていたんだなぁ、出せてスッキリしたなぁ」と満足しながら「大」を流せばそれで十分なのだ。

ネット上には性格診断や適職診断が溢れている。私の適職はほぼ「詩人」だ。しかし4w5のINFPがみんな詩で食っていける世の中ではない。学生時代は文章で表彰されることが多かったがそれは他の学生が恥ずかしがってお仕着せの文章しか書こうとせず、下手なりに真剣に挑んでいる私が評価されただけだ。自分の文章で稼げるなんて思わない。だって私にとって文章はウンチなのだ。他人様が満足するウンチ、換金性の高いウンチを、世間が求めるタイミングでモリモリっと出せる気がしない。いつどんなウンチをするかは私の自由だ。ウンチに値札が付き、私の収入を左右すると思うと精神が委縮して便秘になって死ぬ。本末転倒だ。

全部ウンコなんじゃないか

散々自分の文章をウンチ扱いしておいて何だが私は自分の文章が好きだし読んでもらえたら嬉しい。でも自分の創作や表現活動を「レベルの高い趣味」だとは思わない。本当は自分に限らず誰の言葉だって言ったり書いたりしてスッキリするならやっぱりそれはどこかウンコなんじゃないかと思っている。普段私に「俺に比べてお前ときたら…」とドヤってくる人も私の顔に自分のウンコをぶつけてスッキリしているし、私もこれを書いて排便した時のようにスッキリしている。

世界はウンコのぶつけあいだし、他人の糞拓(商品)に価値があると思えば金を払って買うし、でも全部ウンコなのだ。
私は真理を知らない。でも世界の誰も真理を知らない。「知っている」という人間の話はよくよく聞けばソイツの快便話でしかない。

ない真理を探すより真理のない世界を受け入れる

若い頃は私が未熟だから知らない世界の真理があるのだと思っていたが、どうやら世界には真理に見せかけたウンコのマウンティングがあるだけだった。ただ真理がないことに絶望せず生きていれば時折面白いこともあると気付いた。無味荒涼とした大地に花を咲かせるスキルも社交力もないが、不毛の大地で普通だと構え、たまに訪れる幸せを十分に感じられるよう、日々排便するように文を書いて心の腸を整えておく。


はやく人間になりたーい。
4
萌えが持続しなくなった元オタクの断末魔。ハマれないけど生きなきゃいけない元オタクの晩年期レポ。何かにハマらず生きてきた経験がないので30代で精神的に路頭に迷う。元オタクはジャンルがない人生の虚しさに耐えられるのか。オタクはいかにして消えていくのか。(※通知はオフにしています)